伏木村(読み)ふしきむら

日本歴史地名大系 「伏木村」の解説

伏木村
ふしきむら

[現在地名]高岡市伏木湊町ふしきみなとまち伏木磯町ふしきいそまち伏木中央町ふしきちゆうおうまち伏木錦町ふしきにしきまち伏木本町ふしきほんまち

射水川(現小矢部川)が日本海に注ぐ河口左岸に位置し、北は海に面して砂浜が広がる。村名は滑川なめりかわ(現滑川市)浜表の字伏木からの移住によるという説や(越中志徴)、古代の国府に関連付けて府敷からとする説があるが確証はない。越中における海運の拠点で、浦と一体になった浜往来の宿立ての町として栄えた。天正八年(一五八〇)以前「ふしき慶心御門弟衆中」に対し、当時礪波となみ安養寺あんようじ(現小矢部市)にあった勝興しようこう寺住職顕栄が米六斗の勧請の礼状を出している(勝興寺文書)。また、勝興寺が古国府ふるこに移転した後の天正一六年にも伏木村惣中が鳥目二〇疋を勧請しており(同文書)、真宗門徒たちの活躍が認められる。天正四年には上杉謙信によって伏木浜での船の用所が申付けられ(「鰺坂・河田覚書」鞍馬寺文書)、慶長二〇年(一六一五)船持一二人の商用船一三艘の佐渡行きが許されており(「佐渡行商売船出船申渡書」藤井家文書)、当村はこの時すでに交通の要衝として港湾機能を有していた。伏木沖や射水川における漁業も盛んで、慶長年間から射水川で海浜の引網によるサケ漁業が行われ、当村の道幸が前田利長にハチメ五〇疋を献上したのもこの頃である(「伏木浦旧記」越中古文書)。寛永六年(一六二九)伏木浦塚出秋網一統が道幸に許され運上銀二〇目が申付けられた(「塚出網運上銀申付状」放生津新町共有文書)

寛永三年の高物成仕分之事(伏木浦旧記)では当村の高は地子方と道幸分に分けて記載され、作付は地子方二三石余・道幸分二〇石余、免八ツ、川崩れ分一四石余。正保郷帳では高四三石余、田方一町三反余・畑方一町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五七石・免六ツ八歩、小物成は網役一貫七八一匁、外海船櫂役二九四匁(ほか一四三匁退転)・澗役七九匁二分(ほか一〇二匁八分退転)・猟船櫂役三六〇匁・小舟役三六匁、唐網役二匁(退転)で、ほかに地子銀四四匁・三歩半口銭一六〇匁五分(三箇国高物成帳)


伏木村
ふせぎむら

[現在地名]境町伏木

鵠戸くぐいど(現在は水田)の枝ヤトの西に所在。東以外は台地で、北は大歩わご村。東部・北部・北西部に広大な平地林を有した。いちから大照だいしよう院へ至る道を鎌倉街道と称する。村域西端、字青木あおきの青木貝塚からは石斧・石棒・土器などが出土。北部の字倉之内くらのうち大塚山おおつかやま古墳群には前方後円墳五基と円墳三基が確認される。倉之内遺跡は集落跡とみられ、土師器などが散在。古代の猿島郡衙は字穴辺あのべにあったともいわれ、西に倉之内がある。天正元年(一五七三)には下妻城主多賀谷氏による焼打ちがあった(→星智寺廃寺


伏木村
ふしきむら

[現在地名]日田市花月はなつき 伏木町

市瀬いちのせ村の北東に位置し、山国やまくに道が通る。北の下毛郡境に大将陣たいしようじん(九〇九・八メートル)がそびえる。正保郷帳に村名がみえ、田高一四四石余・畑高五六石余で、夜開やけ郷に属し、柴山有、日損所とある。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免二ツ七分。元禄見稲簿では高二一四石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高一〇九石余、新田畑一三石余。


伏木村
ふしきむら

[現在地名]大沢野町伏木

神通川の東岸にあり、神通川が庵谷いおりだに峠に遮られ東へ大きく迂回する地点の上流に位置する。北は吉野よしの村、南は小糸こいと村。正保郷帳では高四九石余、田方五反余・畑方二町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一〇五石、免二ツ七歩、小物成は春秋夫銀三九匁七分・山役四〇匁・牛役二二匁・鱒役一匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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