改訂新版 世界大百科事典 「会要」の意味・わかりやすい解説
会要 (かいよう)
huì yào
中国で,一代の制度の沿革消長を分類集成した書物。唐代,8世紀の終りに蘇冕(そべん)が国初から徳宗まで9朝の制度を集成して40巻の《唐会要》を作ったのが始まりとされる。ついで853年(大中7),楊紹復らが《続会要》40巻を作ったが,宋初961年(建隆2),王溥(おうふ)がそれらをふまえ,514の項目をたてた《唐会要》100巻を作り,これが現存している。帝号,皇室制度,廟制から官制,税制,外国に至るまで,内容はほぼ正史の志の部分に相当するが,ずっと詳細で,唐王朝の政治制度を知る根本史料となっている。なお同じ王溥に《五代会要》30巻がある。宋に入って中央集権体制が飛躍的に整備され,制度がいちじるしく複雑,多様化すると,会要の編纂は国家自身の手で行われるようになり,とくに12世紀以降は,実録院や日暦所とならんで会要所という常設の編纂機関が設けられた。宋代の会要は1077年(熙寧10)の21類855門300巻の《六朝国朝会要》をはじめとして南宋嘉定年間(1208-24)の《国朝会要》に至るまで10種以上が勅撰として編纂された。それらは板木に彫られることなく後に散逸したが,明代の《永楽大典》中にかなり多く採録されていた。
19世紀のはじめ《全唐文》を編纂した徐松(1781-1848)はその副産物として《永楽大典》の中の宋代の会要をすべてぬき出して《宋会要輯稿》を作り,1936年これが北京図書館から200冊の影印本として出版された。この徐松輯本《宋会要》は,それ以後の宋代制度,経済史研究の飛躍的進展に大きな役割を果たしている。なお,会要の名を付した書物に,宋の徐天麟の《西漢会要》と《東漢会要》,あるいは清末の孫楷の《秦会要》などがあるが,それらはいずれも一次史料としての価値はない。元代よりのち,明,清と皇帝独裁の中央集権制度がさらに進み,制度が複雑に変化すると,会要の名はすたれ,元の《経世大典》,明・清時代いくつかできた《大明会典》《大清会典》の形に発展的に解消してゆく。
→会典
執筆者:梅原 郁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報