会典 (かいてん)
huì diǎn
中国,明・清時代の総合行政法典。中国の法典は大別して刑法典と行政法典の二つとすることができる。刑法典はすなわち〈律〉であり,行政法典はすなわち〈令〉と〈会典〉(《六典》をも含む)である。唐の開元年間(713-741)に編纂された《六典》は,各官庁ごとに関係の諸法規(律令格式および勅など)を集めたもので,主として吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部の下にこれを分載した。そしてこの形式は,宋・元にもある程度うけつがれ,明・清にいたって〈会典〉となった。明代では《大明会典》(略称《正徳会典》,1509)とこれを増修した《重修大明会典》(俗称《万暦会典》,1587)がこれであり,清代では《康煕会典》(1690),《雍正会典》(1732),《乾隆会典》(1764),《嘉慶会典》(1812),《光緒会典》(1899)の5種の《大清会典》がある。なお,李氏朝鮮の《経国大典》(1471)やベトナムの《大南会典》などもこの形式によっている。
執筆者:谷 光隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
会典
かいてん
中国、明(みん)・清(しん)時代の行政法令の一大集成。「えてん」とも読まれる。吏、戸、礼、兵、刑、工の六部(りくぶ)ほか、各官庁ごとに関連法律を集めた。明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)は即位すると、ただちに明律(みんりつ)、明令(みんれい)を作成した。これは唐以来の律令格式(りつれいかくしき)の大改訂であったが、その律は内容も豊かで数度の改訂があったのに対し、令は簡略で改修もされず、しだいに実用から遠ざかった。そのため、令の内容を含む太祖以下諸皇帝の詔令や行政法規が重きをなした。しかし、明の諸制度は賦役制度をはじめ、中期以後大変化し、それに応じて、諸詔勅や行政法令には総合性を欠くことがおこった。早くも1393年には諸司職掌がつくられ、1458年にはその続編がつくられたが、これを基準として、一般行政規定を総括し、かつそれに対する変更分を付加して会典編纂(へんさん)事業が進められた。明では弘治(こうじ)年間(1488~1505)にひとまず完成し、正徳4年(1509)に校訂を施して刊行され(正徳会典、180巻)、ついで、万暦(ばんれき)15年(1587)第二次の編纂刊行が行われた(万暦会典、228巻)。清朝も康煕(こうき)29年(1690)、雍正(ようせい)10年(1732)、乾隆(けんりゅう)29年(1764)、嘉慶(かけい)17年(1812)、光緒(こうしょ)25年(1899)の各年に編纂された。
[川勝 守]
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世界大百科事典(旧版)内の会典の言及
【パンデクテン】より
…〈ローマ法大全〉の主要部分である〈[学説彙纂]Digesta〉(ギリシア語流の表現では〈会典Pandectae〉となる)を指すドイツ語。近世以降,パンデクテンを基礎として発展した現代の法という意味で,〈パンデクテン法Pandektenrecht〉の語が用いられた。…
【則例】より
…中国,清代の基本行政法典である[会典]の運用上とくに生じた新例・疑義・補足などを各官庁ごとに編集して刊行した行政法典。中国には古来種々な法令があり,清代に及んで律・会典・例となった。…
【大清会典】より
…清代を通じて5回編纂された。(1)《康熙会典》162巻(1690),(2)《雍正会典》250巻(1732),(3)《乾隆会典》100巻(1764),(4)《嘉慶会典》80巻(1818),(5)《光緒会典》100巻(1899)。会典は行政に関する基本法の総合的法典で,その本文は容易に変更されないが,施行例および細則である事例(または則例)は時代とともに変更,追加されることが少なくなかった。…
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