日本歴史地名大系 「佐々村」の解説
佐々村
さざむら
現佐々町域のほぼ南半部を占め、西部側を佐々川が流れる。平戸往還が通る。正和三年(一三一四)四月二四日の鎮西御教書案(有浦文書)に「佐々浦」とみえ、浦の住人の「福□女太郎」がその所従の「福竜乙□」をめぐって鎮西探題に訴えている。永徳四年(一三八四)二月二三日の下松浦住人等一揆契諾状(山代文書)に「さゝ長門守相」とみえ、当地を拠点とする佐々氏が松浦党の一揆に加わったと思われるが、花押は書かれていない。佐々氏は文明年間(一四六九―八七)には平戸松浦氏の勢力下にあったとされ、地内に
江戸時代は平戸藩領田平筋郡代管轄下の佐々四ヵ村の一つであった(享保二年「平戸領分郷村付」松浦史料博物館蔵)。慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に「佐々村」とみえ、高二千一六二石余。慶長国絵図でも同様。正保国絵図では佐々村として高九一五石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では「佐々里村」内に中河原免・本田原免・石木場免・栗林免・
佐々村
ささむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報