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平戸藩 ひらどはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平戸藩
ひらどはん

江戸時代,肥前国松浦 (まつら) 郡平戸地方 (長崎県) を領有した藩。松浦鎮信関ヶ原の戦い後6万 3000石で所領を安堵されたのに始る。元禄2 (1689) 年5代棟 (たかし) は弟昌 (まさし) に新墾田1万石を分与して平戸新田藩を創設。

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百科事典マイペディアの解説

平戸藩【ひらどはん】

肥前(ひぜん)国平戸に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は松浦氏。領知高約6万1000石〜6万3000石。城下町平戸にはオランダ商館があって,外国貿易の中心地として栄えたが,1641年商館が長崎に移転し藩財政は打撃を受けた。
→関連項目肥前国武功雑記松浦氏松浦静山

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

ひらどはん【平戸藩】

江戸時代肥前(ひぜん)国松浦(まつら)郡平戸(現、長崎県平戸市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は維新館。この地域の豪族であった松浦党(まつらとう)の流れを汲む平戸松浦氏は、松浦隆信(たかのぶ)のときに肥前北部と壱岐(いき)国を支配する戦国大名となった。隆信の長男である鎮信(しげのぶ)(法印)は、1587年(天正(てんしょう)15)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)から旧領を安堵(あんど)されて近世大名となり、1600年(慶長(けいちょう)5)、関ヶ原の戦い後には徳川家康(とくがわいえやす)からも所領6万3000石を安堵され、これにより平戸藩が成立した。以後明治維新まで松浦氏12代が続いた。4代藩主の鎮信(しげのぶ)(天祥)のとき、1641年(寛永(かんえい)18)にオランダ商館が長崎の出島へ移転したため、藩財政の立て直しを余儀なくされた。5代藩主の棟(たかし)は、89年(元禄2)に弟の昌(まさし)に新田(しんでん)1万石を分与し、平戸新田藩が成立。9代藩主の清(きよし)(号は静山)は抜本的な藩政改革を断行したほか、随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』でも知られる。幕末には、戊辰(ぼしん)戦争のあとに倒幕の意志を表明し、銃隊を編成して奥羽へも転戦した。1871年(明治4)の廃藩置県により、平戸県を経て長崎県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

ひらどはん【平戸藩】

肥前国(長崎県)北松浦郡平戸に藩庁を置いた外様中藩。藩主は松浦氏。6万1700石。松浦党に系譜をひく平戸松浦氏は,党の単位細胞である平戸党の結束を通じて在地領主として発展し,隆信(道可)の時代には,北松浦郡と壱岐国を領有する戦国大名に発展した。1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐後,本領を安堵されて近世大名となった。石高は6万3200石であったが,1664年(寛文4)4代藩主鎮信(しげのぶ)(天祥)のとき,従弟信貞に今福1500石を分知した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平戸藩
ひらどはん

肥前国北松浦郡と壱岐(いき)国(ともに長崎県)を領有した外様(とざま)藩。松浦(まつら)党のなかから台頭した平戸松浦氏は隆信(たかのぶ)(道可)のとき戦国大名として肥前松浦地域を支配したが、その子鎮信(しげのぶ)(法印)の代、1587年(天正15)の豊臣(とよとみ)秀吉の九州知行割(ちぎょうわり)において、旧領が安堵(あんど)され、さらに関ヶ原戦ののち、1600年(慶長5)に徳川氏からも領有が認められ当藩が成立した。戦国大名領国から近世大名領国形成のために検地が行われ家臣団編成が進められたが、家臣団においては、一門創出と新参家臣の登用が目だち、藩主権力を強める基盤を形成した。石高(こくだか)は当初6万3200石であったが、1664年(寛文4)4代鎮信(しげのぶ)(天祥)が従弟信貞(のぶさだ)に今福(いまぶく)に1500石を分知したので6万1700石となった。
 平戸が貿易地として栄えた段階では貿易利潤が大名財政の一支柱ともなったが、1641年(寛永18)にオランダ商館が長崎出島(でじま)に移転したことにより、財政基盤をより郷村に求めざるをえなくなった。家臣の在地支配も貞享(じょうきょう)期(1684~88)に蔵米取(くらまいどり)化政策によって変化した。5代棟(たかし)(雄香)の代の1689年(元禄2)に新田1万石が弟昌(まさし)に分封されて平戸新田藩が創設された。9代藩主清(きよし)(静山(せいざん))の代に藩校維新館が設けられ、また、定免(じょうめん)制が施行された。好学の藩主清の著書に『甲子夜話(かっしやわ)』がある。長崎警備の関係で幕末期には大銃隊編成の軍事改革が行われたが、政治路線は公武合併を基調としたものであった。1871年(明治4)7月廃藩、平戸県となり、11月長崎県に統合された。[長野 暹]

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世界大百科事典内の平戸藩の言及

【壱岐島】より

…18世紀初期には勝本の土肥家,郷浦に許斐家,瀬戸に布屋家,芦辺に篠崎家が鯨組を統轄し,生月(いきつき)の益富家などと共同経営を行い,恵美須,田ノ浦の捕業場は1739年(元文4)に土肥家と益富家が隔年で操業するようになった。平戸藩は鯨運上銀を徴収したが92年(寛政4)に土肥家と益富家に御用金1万両の上納を命じたように,捕鯨は平戸藩の重要財源でもあった。土地制度の特徴は田畑の地割制がとられたことで,1662年から実施され,元禄・享保期に整備されたが,1798年に田畑地割のおりに郡方役人のほかに割奉行と名付けた者が数人で勝手に取り扱い,酒食の費用を田畑割で徴収し弊害が出ているとして,代官・庄屋・小役人の立会いで行うことを指示している。…

【肥前国】より

…平戸では松浦党に由来する松浦氏が隆信のときに一族や諸豪族を服属させ,壱岐をも支配下においた。秀吉の国割のおりには,隆信・鎮信父子に領有権が認められ,以後平戸藩は明治初年まで松浦氏が統治した。このように肥前国では旧族居付大名から近世大名に進展した大名が多く,そのため藩制上でも多くの特色をもった。…

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