デジタル大辞泉 「佐伯定胤」の意味・読み・例文・類語 さえき‐じょういん〔さへきヂヤウイン〕【佐伯定胤】 [1867~1952]僧。奈良の生まれ。法隆寺住職。法相宗管長をしたが、のち、法隆寺を法相宗から分離し聖徳宗の本山とした。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「佐伯定胤」の意味・読み・例文・類語 さえき‐じょういん【佐伯定胤】 法相宗の僧。奈良の生まれ。法隆寺貫主。仏教学者で唯識学の権威。法相宗管長を数回務めた。慶応三~昭和二七年(一八六七‐一九五二) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
20世紀日本人名事典 「佐伯定胤」の解説 佐伯 定胤サエキ ジョウイン 明治〜昭和期の僧侶,仏教学者 法隆寺長老;元・法相宗管長。 生年慶応3年6月25日(1867年) 没年昭和27(1952)年11月23日 出生地奈良県 別名幼名=角二郎 学歴〔年〕奈良教師教校(奈良師範学校)〔明治17年〕卒 経歴6歳で法隆寺に入り得度、明治9年佐伯懐厳の養子となる。13〜17年奈良教師教校に学び、23年まで京都泉涌寺佐伯旭雅のもとで仏教学を修めた。26年法隆寺に帰任、法相宗学頭、勧学院院長を務め、31年法相宗管長事務取扱、35年大僧正、36年法隆寺住職(貫主)となり、昭和25年まで務めた。その間3度法相宗管長に選ばれ、のち法隆寺長老となった。昭和4年帝国学士院会員に選ばれた他、東大、京大などで唯識学を講じた。また24年には法隆寺金堂炎上に遭い、25年法隆寺を法相宗から分離、新たに聖徳宗を開き本山とした。「勝鬘経講義」の著述のほか「勝鬘経疏会本」「維摩講義疏会本」などを校定出版した。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐伯定胤」の解説 佐伯定胤 さえき-じょういん 1867-1952 明治-昭和時代の僧,仏教学者。慶応3年6月25日生まれ。佐伯旭雅(きょくが)に仏教学をまなぶ。明治26年法隆寺に勧学院を再興し,同院院長。36年法隆寺住職,法相(ほっそう)宗管長となる。昭和25年聖徳(しょうとく)宗をひらき,法隆寺を本山とした。また東京帝大,京都帝大で唯識学をおしえた。昭和27年11月23日死去。85歳。大和(奈良県)出身。号は覚円房。著作に「新導成唯識論」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「佐伯定胤」の解説 佐伯 定胤 (さえき じょういん) 生年月日:1867年6月25日明治時代-昭和時代の法相宗僧侶;仏教学者。法隆寺住職1952年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by