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仏教学派。中国唐代、インドより新たな唯識(ゆいしき)教学を将来した玄奘(げんじょう)門下に興った。659年(顕慶4)、玄奘によって訳出された『成唯識論(じょうゆいしきろん)』を根本典籍とし、同じく玄奘による新訳の唯識諸経論に基づいて、法相(現象固有の特質)を分析し研鑽(けんさん)していったところにこの学派の特色がある。事実上の初祖は、玄奘の直弟子基(き)(窺基(きき)、632―682)であり、彼の進言により、護法(ごほう)釈を基準とする現行の『成唯識論』が訳出されることになったと伝えられている。基は、本書に対し、『成唯識論述記』(『述記』)、『成唯識論掌中枢要(しょうちゅうすよう)』(『枢要』)の両注釈書を著し、さらに『大乗法苑義林章(だいじょうほうおんぎりんしょう)』を撰(せん)して法相宗の教学を確立した。その批判の矛先は旧訳(くやく)の真諦(しんだい)系の教義に向けられたが、この系統の教義が真如(しんにょ)と諸法を峻別(しゅんべつ)せず真如に対する一元的志向が強かったのに対し、法相宗は真如が諸法となることはけっしてなく諸法自体の原理としての阿頼耶識(あらやしき)を強調した。基の弟子に法相宗第二祖となった慧沼(えしょう)があり、その主著が『成唯識論了義燈(りょうぎとう)』(『了義燈』)である。彼の弟子には智周(ちしゅう)、義忠(ぎちゅう)、道邑(どうゆう)、道献(どうけん)などがいる。智周が第三祖となった人で、彼は『成唯識論演秘(えんぴ)』を著した。法相宗では、基の『述記』を『成唯識論』に対する根本注疏(ちゅうしょ)とみなし、『述記』の補遺的注釈ともいうべき基の『枢要』、慧沼の『了義燈』、智周の『成唯識論演秘』を唯識三箇(か)の疏(しょ)とよんで重んじた。
基から智周に至る三代がいわば法相宗の正系であるが、異系として代表的な人に円測(えんじき)がいる。彼は新羅(しらぎ)の出身でやはり玄奘門下であるが、玄奘に学ぶ以前に摂論(しょうろん)宗の法常(ほうじょう)や僧弁に受学したためもあって、真諦の教学に明るくその影響も強い。彼の弟子には同じく新羅出身の道証(どうしょう)や勝荘(しょうそう)がおり、正系を認ずる側との間に論争があった。法相宗は、唐初の中国仏教界に華々しくデビューしたが、三祖以後は振るわず、その伝承はかえって日本に伝えられ、南都六宗の一つとして栄えた。
[袴谷憲昭]
わが国への最初の伝来は、653年(白雉4)に入唐(にっとう)し直接玄奘について学んだ道昭(どうしょう)によるものとされる。のち智通(ちつう)と智達(ちたつ)が入唐し玄奘と基に学んだのが第二伝で、以上の二伝を元興寺(がんごうじ)(南寺)伝という。第三伝と第四伝は智周に学んだ智鳳(ちほう)らと玄昉(げんぼう)で、これを興福寺(北寺)伝という。法相宗の著名な僧としては、社会事業にも力を尽くした行基(ぎょうき)、最澄(さいちょう)の一乗思想を批判した徳一(とくいち)、日本法相唯識の集大成『成唯識論同学鈔(どうがくしょう)』の編纂(へんさん)を促した貞慶(じょうけい)、その弟子で『観心覚夢鈔(かんじんかくむしょう)』の著者良遍(りょうべん)などがいる。法相宗の教勢は鎌倉新仏教の隆盛とともにしだいに衰えていったが、その命脈は、法隆寺、興福寺、薬師寺などを中心に今日も継承されている。
[袴谷憲昭]
『深浦正文著『唯識学研究』上下(1954・永田文昌堂)』▽『富貴原章信著『護法宗唯識考』(1955・法蔵館)』
中国仏教十三宗の一つ。中インドのナーランダ寺で戒賢に師事した玄奘(げんじよう)が,唐初に帰国して伝えた護法(ダルマパーラ)の《成唯識論(じようゆいしきろん)》の学説に基づき,《解深密経》《瑜伽論》などを所依の経論として,慈恩大師窺基(きき)が開宗した宗派。唯識宗,慈恩宗などともよぶ。法相とは諸法つまり万象が有する本質の相状のことで,識以外の何物も存在しないと説くのがインドで成立した唯識派つまり瑜伽行派であり,窺基は師の玄奘が訳出した《成唯識論》の注釈たる《成唯識論述記》などを著し,法相を五位百法に分類し分析的に説明した。玄奘と窺基が唐の高宗の厚い信任を得たことから,法相宗は一世を風靡したが,その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く,教理組織が繁雑をきわめたこともあり,武周朝(690-704)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい,宗派としてはしだいに衰えてしまった。
執筆者:礪波 護 日本では法相宗は八宗および南都六宗の一つであり,入唐求法僧により数次にわたって伝えられた。653年(白雉4)道昭が入唐留学して玄奘に受学し,帰国後飛鳥元興(がんごう)寺でこれを広め,658年(斉明4)に入唐した智通や智達も帰国後に当宗を広めた。これらは同系統に属し,平城右京に元興寺が創建されるに及んで法相宗も移り,元興寺伝,南伝といわれた。703年(大宝3)に智鳳,智雄らが入唐し,また717年(養老1)に入唐した義淵の弟子玄昉(げんぼう)も,ともに濮陽の智周に師事して法相を修め,帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し,興福寺法相宗の基をきずいた。興福寺伝または北伝といわれる。8~9世紀には法相宗は隆盛を極め,多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬(けんけい),修円,徳一などが傑出し,修円は同寺内に伝法院を創建,その1流は伝法院門徒と称せられた。元興寺には護命(ごみよう),明詮などの碩学が出たが,のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され,興福寺は法相宗を所依とする1宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊,貞慶,覚憲,信円らが輩出した。1882年に興福,薬師,法隆の3寺が大本山となったが,第2次大戦後,法隆寺は聖徳宗を標榜して離脱し,興福寺,薬師寺の2本山が統括するにいたった。
執筆者:堀池 春峰
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唯識宗とも。南都六宗の一つ。「解深(げじん)密教」を正所依(しょえ)とする「楞伽(りょうが)経」などの6経と「瑜伽師地(ゆがしじ)論」「摂大乗論」などの11論によって,諸相の性相(法相)を明らかにしようとする宗派。インドに弥勒・無著(むぢゃく)・世親(せしん)がでて教理を大成し,中国では玄奘(げんじょう)がインドに渡り法相の秘奥をうけ,その弟子慈恩大師窺基(きき)が法相宗を確立した。日本には7~8世紀に4度の受容があり,第1伝の道昭と第2伝の智通・智達は元興(がんごう)寺に,第3伝の智鳳・智鸞・智雄と第4伝の玄昉(げんぼう)は興福寺に伝わり,それぞれ南寺伝,北寺伝と称した。南寺伝は元興寺の衰退にともない早くに衰えたが,興福寺からは,平安・鎌倉時代に蔵俊・覚憲・貞慶らの俊秀が輩出した。現在は興福寺・薬師寺を本山とする。
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…天台宗の智顗(ちぎ)は《中論》に基づいて空(存在には自性,実体はない),仮(ただし空も仮に説かれたことである),中(空にも仮にもとらわれない立場)の〈三諦円融〉を主張し,すべての存在に中道という実相が備わっているという〈一色一香無非中道〉を説いた。日本の法相宗においても,唯識派の三性説に基づいて,認識のあり方は,(1)実体と誤認する,(2)因縁によって生じたと見る,(3)実相をありのままに見る,の3種に分かれるが,これらは全体としては有でも無でもない中道をあらわすとする〈三性対望中道(さんしようたいもうのちゆうどう)〉等の説がなされた。【松本 史朗】。…
…法相宗の学僧で,道照とも書く。河内国丹比郡の生れ。…
…奈良六宗ともいう。8世紀に官大寺などで研究されていた三論宗,成実(じようじつ)宗,法相(ほつそう)宗,俱舎(くしや)宗,華厳(けごん)宗,律宗の六宗を指す。六宗の成立以前に華厳宗を除く五宗が成立していたことは,718年(養老2)10月の太政官符に〈五宗の学,三蔵の教〉とあることからもうかがわれ,藤原氏祖先の伝記である《家伝》(鎌足伝)も藤原鎌足が飛鳥元興(がんごう)寺に五宗の研究の費用を寄付したと伝えている。…
…奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山。南都七大寺・十五大寺の一つ。…
※「法相宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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