奈良(読み)ナラ

デジタル大辞泉 「奈良」の意味・読み・例文・類語

なら【奈良】[地名]

近畿地方中部の県。もとの大和やまとにあたる。人口140.0万(2010)。
奈良県北部の市。県庁所在地。和銅3年(710)平城京が建設され、約75年間古代日本の首都として栄えた。のち、京都を北都というのに対して南都とよばれる。また、東大寺春日大社興福寺の門前町として発達。古社寺、文化財、伝統行事が多い。奈良漬一刀彫などを特産。古くは「那羅」「平城」「寧楽」などとも書いた。人口36.7万(2010)。
[補説]平成5年(1993)に「法隆寺地域の仏教建造物」として法隆寺法起寺が、平成10年(1998)に「古都奈良の文化財」の名で東大寺興福寺春日大社春日山原始林元興寺薬師寺唐招提寺平城宮跡が世界遺産(文化遺産)に登録された。

なら【奈良】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「奈良」姓の人物
奈良利寿ならとしなが

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改訂新版 世界大百科事典 「奈良」の意味・わかりやすい解説

奈良[県] (なら)

基本情報
面積=3691.09km2(全国40位) 
人口(2010)=140万0728人(全国29位) 
人口密度(2010)=379.5人/km2(全国14位) 
市町村(2011.10)=12市15町12村 
県庁所在地=奈良市(人口=36万6591人) 
県花ナラノヤエザクラ 
県木=スギ 
県鳥=コマドリ

近畿地方中央部に位置し,三重県,和歌山県,京都府,大阪府に囲まれた内陸県。

県域はかつての大和国全域にあたる。江戸時代末期には郡山藩をはじめ,高取,小泉,櫛羅(くしら),芝村,柳生,柳本の各藩と,奈良をはじめとする天領,興福寺,春日大社などの寺社領が入り組んでいた。1868年(明治1)大和鎮台が置かれて旧天領を管轄,その後大和鎮撫総督府,奈良県,奈良府と変わったが,翌年奈良県に戻され,また68年には田原本(たわらもと)藩が立藩し,70年には吉野・宇智両郡を管轄する五条県が置かれた。71年廃藩置県によって藩はそれぞれ県となったが,同年これら10県は統合され,大和全域を管轄する奈良県が成立した。しかし76年堺県(和泉)に併合されていったん消滅,さらに81年には堺県の廃県に伴い大阪府に併合されたが,87年大和地方が分離して奈良県が再置され,現在に至っている。

縄文時代の遺跡としては,まず木津川水系で早期~後期の集落遺跡である大川(おおこ)遺跡(山辺郡山添村),大和川水系では縄文後・晩期および弥生~平安時代の集落遺跡の橿原(かしはら)遺跡(橿原市)と中期末~後期前半の天理式土器の標式遺跡である布留(ふる)遺跡(天理市),吉野川水系では縄文~奈良時代の複合遺跡である宮滝遺跡(吉野郡吉野町)と晩期の集落遺跡である丹治(たんじ)遺跡(吉野町)などがある。

 弥生時代の遺跡では唐古(からこ)遺跡(磯城郡田原本町)が著名。奈良盆地中央部にある集落遺跡で,畿内弥生式土器の編年研究の基準となった。纏向(まきむく)遺跡(桜井市)は弥生~平安時代の集落址だが,ことに弥生~古墳時代の土器の変遷や古墳の出現を考えるうえで重要な遺跡である。この近くにある箸墓(はしはか)古墳(桜井市)は全長278mの前方後円墳で三輪山麓の大型前方後円墳中最古とされ,ここの前方部から出土した壺は桜井茶臼山古墳(桜井市)の後円部頂上に方形に配置されていた有孔のそれに類似する。いずれも代表的な前期古墳。柳本古墳群(天理市)は時期的にこれに次ぎ,〈景行陵〉〈崇神陵〉など約35の前方後円墳を含む。前期中葉を中心とし,初期大和政権の首長墓を含むと考えられる重要な古墳群である。前期後半の前方後円墳佐味田宝塚古墳(北葛城郡河合町)は,中期の巣山古墳(広陵町)などとともに馬見(うまみ)古墳群を形成する。新沢千塚(にいざわせんづか)(橿原市)は5世紀を中心とする大古墳群。佐紀(さき)古墳群(奈良市)は〈日葉酢媛(ひはすひめ)陵〉や〈神功皇后陵〉などを含み,前期末葉に中心をもつ西群と,ウワナベ古墳や〈磐之媛(いわのひめ)陵〉などを含む中期を中心とする東群からなる。金錯銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳(天理市)や,方墳の五条猫塚(ねこづか)古墳(五条市),前方後円墳の宮山古墳(御所市)も著名である。見勢丸山(みせまるやま)古墳(橿原市)は全長318mと前方後円墳としては県内最大であるばかりでなく,後期のそれとしては日本最大でもある。全長26.2mの横穴式石室も日本で最大規模。八角形墳の牽牛子塚(けごしづか)古墳,壁画で有名な高松塚古墳,それにマルコ山古墳などはいずれも高市郡明日香村にある7世紀代の終末期古墳。同じ明日香村の石舞台古墳は巨大石室が露出し,方墳または上円下方墳の可能性が強い。またやはり明日香村の鬼の俎(まないた),鬼の厠(かわや)などの石造物もこの時期の石槨である。三輪山祭祀遺跡(桜井市)は三輪山を対象とする5~6世紀を中心とする祭祀遺跡。

 歴史時代では飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)址(明日香村),藤原京址(橿原市),平城京址(奈良市)などの宮殿址や都城址,飛鳥寺址(明日香村),山田寺址(桜井市),川原寺(かわらでら)址(明日香村)などの寺院址など重要な遺跡は枚挙にいとまがない。太安麻呂墓(奈良市)は墓誌の出土で知られ,金峰山(きんぷせん)経塚(吉野郡天川村)は平安~鎌倉時代にわたる経塚群。
大和国
執筆者:

奈良県の地形は,ほぼ中央を東西に走る中央構造線によって北半部の内帯と南半部の外帯に分けられる。北半部が主として平地と丘陵性の山地からなるのに対して,南半部は壮年山地からなるという対照をみせる。北半部の中央には地溝性の奈良盆地が開け,周辺には東に笠置山地(大和高原),西に生駒山地,金剛山地など,主として花コウ岩からなる標高400~600m程度の丘陵性の山地が南北に連なる。奈良盆地は日本の古代史の主舞台で,6世紀末からの100余年間,南東部の飛鳥・藤原地区に初期の宮都が置かれ,続いて北部の現在の奈良市に710年(和銅3)平城京が営まれ約70年間繁栄した。盆地には京都と結ぶ南北方向の道のほか難波や中京方面と結ぶ東西方向の道も発達し,古代からその交流は盛んであった。一方,南半部は紀伊山地中北部の吉野山地で,標高1400~2000mの山地と深い谷からなり周囲からの隔絶性が高く,最高部の大峰山周辺は中世以来西日本の修験道の根本道場として知られる。気候的にみても南北の対照は著しい。北半部のとくに奈良盆地は温暖寡雨の瀬戸内式気候に属しているが,海洋から離れているため寒暑の差の激しい内陸性気候を示す。夏の平均気温は27~28℃,冬は3~4℃で年較差が大きく,降水量は1400mm内外と少ない。一方,南半部の吉野山地は山岳気候であり,夏は20~24℃,冬は0~3℃と冷涼で,降水量は2000~4000mm以上,大台ヶ原山南東斜面はことに3500~5000mmの多雨地域として知られる。

 このような地形上,気候上の南北の対照は,植生などの自然的な面はもとより,産業や開発,さらに民家などの人文的景観においても大きな影響を与えてきた。寡雨の北半部には大和川などが流れるが,流量が少ないためかつては1万以上の灌漑用の溜池や,多くの横井戸,かくし井戸がみられた。雨の多い南半部では,吉野川上流に津風呂ダム(1962完成),大迫ダム(1973完成)をつくって貯水し,灌漑期に導水トンネル(1956完成)を通して奈良盆地へ引水する吉野川分水事業が進められ,1984年までに奈良盆地のほぼ全域に灌漑用水がゆきわたるようになった。また民家の様式においても対照的で,奈良盆地では草屋根の両切妻を白壁のしっくいで塗りかため,冬の乾燥期の火災防止の意図がみられる大和棟が特徴的であったのに対し,吉野山地では急な傾斜面に石垣を築き,表からは1階,裏からは2階,3階とみえるような吉野造が特徴的である。北と南の対照はさらに奈良盆地を中心とする農業地域と吉野山地の林業地域,人口の過密と過疎,交通網の整備と未整備などの点においても指摘することができる。

近世の奈良盆地には奈良,郡山,八木,三輪などの都市が繁栄していたが,明治維新の際,神仏分離廃仏毀釈(奈良),城郭廃止(郡山)などによって衰退した。その後,奈良博覧会社の設立,奈良公園の開設などの事業が進められ,奈良は観光地として復興していった。1890年関西本線の湊町~奈良間が開通して大阪方面と結ばれ,99年までには和歌山線,桜井線が全通して奈良盆地の主要都市を連ねる環状線が完成した。明治末以降,電気鉄道の敷設が盛んとなり,1914年生駒トンネルが完成して近鉄奈良線が開通したのをはじめ,昭和初期までに同橿原(かしはら)線,南大阪線,吉野線などが開通した。第2次大戦前まで農林業と墨,筆などの伝統工業のほかに目だった産業のなかった奈良県の人口は50万人台にとどまっていた。1950年代に具体化された吉野川分水事業の進展によって奈良盆地の水不足は緩和され,かつての水田二毛作地域は野菜,果樹,花卉などの近郊農業地域に急速に変わった。一方,60年代以降都市化,工場地化が進んで耕地が減少し,県全体で兼業農家はすでに1981年には約90%にまで増加し,第2種兼業農家は全農家数の約76%を占めている(1995)。関西本線の複線化や高速道路の建設など交通体系の整備に伴って県北部で宅地開発が始まり,奈良盆地全域,生駒山地,金剛山山麓部などに大規模な新興住宅地の建設が進んだ。人口は1975年に100万人を超え,95年には143万人にも達している。90-95年の人口増加率4.0%は埼玉県の5.5%,滋賀県の5.3%,千葉県の4.4%,沖縄県の4.2%に次ぐ高率で,奈良盆地とその周辺の景観は著しく変わっている。

奈良県の産業には古い伝統をもつ墨,筆,漆器,奈良人形,赤膚(あかはだ)焼など,社寺の器物や仏師の余業にかかわるものが多く,現在でも墨は全国の約9割,筆は約4割の産額を上げている。また桜井市一帯でつくられている三輪そうめんは奈良盆地南東部の地形と気候条件に適しており,1000年以上の歴史をもっている。

 ほかにも大和の風土にとけこんだ物産は多く,しかもその大部分が現在まで姿を変えつつも継承されている。役行者(えんのぎようじや)が作ったとされる陀羅尼助(だらにすけ)の系統を引く製薬業は,御所(ごせ)市,高取町で盛んであり,単なる配置薬を脱して近代的製薬会社に成長している例が多い。また吉野山地の杉のみがき丸太や杉,ヒノキ製のはし,下市町の割りばし,生駒市の茶筅,奈良市の奈良酒,奈良漬,大和郡山市のキンギョ養殖なども全国的に名を知られている。近世に盆地内で栽培された麻,ワタから発達した奈良晒(さらし)や大和絣(かすり),奈良蚊帳(かや)などの麻・綿織物業は,明治30年代に本格的に工業化が進んで,大和郡山市や大和高田市の綿糸紡績,メリヤス工業,北葛城郡の靴下工業,奈良市の布団工業などに転化している。また1963年に始まった県の新総合開発計画が進展するにしたがい,大和郡山市などに機械,金属,電気機器などからなる工業団地の進出が目だつ。県の製造品出荷額の割合は一般機械が23%,電気機器が17%など(1995)である。

奈良県は中央構造線を境に北部と南部に二分されるが,さらに自然条件や歴史,産業,商圏の違いも考えあわせて北部を国中(くんなか)(奈良盆地),西山中(にしさんちゆう)(生駒・金剛山地),東山中(笠置山地),奥(宇陀・竜門山地)に四分し,これに南部の南山(なんざん)(吉野山地)を合わせて5地域とする。

(1)国中 奈良盆地のほぼ全域にあたり,面積は県域の約1/10にすぎないが,古代以来大和国随一の平地として中心的な地位を占めてきたため,現在もこの称がある。県庁所在地の奈良市のほか,橿原市,大和郡山市,天理市,桜井市および田原本町など県の主要都市の大部分の面積が含まれる。四周を丘陵と山地に囲まれ,〈青垣 山ごもれる〉の表現がふさわしい。盆地は寡雨地域にありながら,河川の堆積作用が現在も続いているため洪水多発の地域でもある。県の交通網はこの地域に著しく集中し,人口密度も他地域に比べて圧倒的に高く,農業,工業,商業などの面でも県の中心地域をなす。また平城宮址などの史跡や古墳,東大寺,春日大社などの古社寺の集中が著しく,京都と並んで四季を通じて観光客が多い。

(2)西山中 奈良盆地西側の山地部にあたり,大和川によって北の生駒山地と南の金剛山地に分けられる。生駒市全域,御所市の大部分,奈良市,大和郡山市,大和高田市,五条市,香芝市,葛城市の各一部のほか周辺の町村を含む。両山地とも大阪の市場に近いため施設園芸による花卉や野菜栽培が行われているが,1960年以降の宅地開発の進展に伴って兼業農家や離農が著しく増加している。人口も1990-95年の間に大和高田市8.2%,生駒市7.2%,香芝市7.4%とかなりの伸びをみせている。山地の尾根筋は金剛生駒国定公園に指定されている。

(3)東山中 奈良盆地の東側,大和高原とも呼ばれる笠置山地の範囲で,奈良・天理・桜井各市の東部,山辺郡の全域および宇陀市の一部が含まれる。小起伏の丘陵と谷がひろがり,水稲,茶の栽培や野菜の抑制栽培が行われる。この地域の商圏は奈良・天理・桜井各市のほか三重県の上野市(現,伊賀市),名張市にも属している。

(4)奥 笠置山地南側の宇陀山地とその西に続く竜門山地からなり,宇陀市の一部と宇陀郡の全域,高市郡,吉野郡の一部の町村が含まれる。県北半部の中では山村的性格の強い地域で,林業や茶,野菜の抑制栽培などが行われ,木材の集散地である桜井市の商圏に属する範囲が広い。名張街道の周辺は室生赤目青山国定公園に指定されている。

(5)南山 吉野山地の範囲にあたり,五条市の大半と吉野郡のほぼ全域が含まれる。細分すれば口吉野地区(吉野川流域),奥吉野西部地区(十津川流域),奥吉野東部地域(北山川流域)に分けられる。〈近畿の屋根〉と呼ばれるのにふさわしく深いV字谷の卓越する壮年期の山地が広がる。森林の生育に適した自然条件にあり,近世以来良質の吉野材が商品として注目され,林業地域として知られる。木材はかつては吉野川,北山川,十津川で流送されたが,明治以降の林道の開設と整備,1950年代以降の電源開発によるダム建設の進展によりトラック輸送に代わった。また十津川流域などではダム築造によって耕地,宅地などが水没し,隔絶性の強かった山村地域が大きく変わりつつある。大台ヶ原山,大峰山一帯は吉野熊野国立公園,西端の護摩壇山周辺は高野竜神国定公園に指定されている。
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奈良[市] (なら)

奈良県最北部にある県庁所在都市,2005年4月旧奈良市が月ヶ瀬村(つきがせ)村,都祁(つげ)村を編入して成立した。人口36万6591(2010)。

奈良市北東部の旧村。旧添上郡所属。人口1962(2000)。標高200~300mの大和高原の一角を占め,名張川の峡谷部に位置する。農業は茶の栽培を中心として,水稲,シイタケなどの複合経営で,特に茶は関西でも有数の生産地である。また梅の名所として広く知られ,江戸後期に頼山陽,斎藤拙堂などの文人が訪れたことで有名となり,現在も梅樹約6000本を有する月ヶ瀬梅林(名)には多くの観光客が集まる。ウメの加工も盛んで,古くは京紅の染料となる烏梅(うばい)を産した。1968年高山ダムが建設され,名張川をせき止めてできた月ヶ瀬湖は釣りの名所となっている。

奈良市南東部の旧村。旧山辺(やまのべ)郡所属。人口6797(2000)。大和高原の東部を占め,南北に長い村域の大半は山林である。中央部を名阪国道が東西に走り,針インターチェンジが設置されている。主産業は稲作と茶栽培を中心とする農業で,近年は茶栽培が急速に伸びている。針インターチェンジ付近には茶の流通センターが設置され,流通の近代化も進んでいる。村内には,重要文化財の都祁水分(つげみくまり)神社本殿,来迎寺宝塔などの文化遺産が多く,南部には天然記念物の吐山(はやま)スズラン群落もある。かつては都祁と記していたが,1992年に都祁村と名称変更。
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都介,都家,闘鶏などとも書き,奈良県山辺郡の中心をなす都祁盆地とその周辺の高原一帯をさした。《日本書紀》には,允恭天皇のころ,この地域を支配していた豪族として〈闘鶏国造〉について記している。律令制の施行とともに,この地は山辺郡都介郷とされた。大和国の東縁で,伊賀国に入る交通の要所であり,奈良時代の初期に〈都祁之道〉が開かれた。これはのち伊勢街道と呼ばれた。式内社として,都祁水分神社,都祁山口神社がある。前者の東南,甲岡(こうおか)の南斜面から,小治田(おはりだ)安万侶という奈良時代初期の中流貴族の墓が発見されたが,その墓誌にはこの地を〈大倭国山辺郡都家郷郡里崗安墓〉と記している。なお,この都祁には氷室(ひむろ)があったことが《日本書紀》などに見えるが,現在の天理市福住町にある氷室神社背後の地がそれに比定されている。中世には興福寺の勢力が及び,同寺領荘園が多く設定され,〈衆徒〉〈国民〉と称された豪族がこの地域を支配していた。
執筆者:

奈良市の北東部・南東部を除く旧市で県庁所在都市。1898年市制。人口36万6185(2000)。市域は奈良盆地北部と周辺の丘陵地帯からなり,旧市街地と奈良公園地区は春日断層崖下の台地とその下部の緩斜面上に位置する。都市としては8世紀初めに建設された平城京に起源をもつが,その後東大寺,興福寺,春日大社などの社寺が皇室,貴族の保護をうけて繁栄し,門前町が発展して室町時代末ごろまでに旧市街地の原形が整えられた。近世には大和もうでの風習が一般化して参拝を兼ねた観光客が増加し,筆,墨,奈良漬,奈良人形などをつくる産業も発展した。明治以降は県庁所在都市として県の政治,経済,文化の中心地となったが,奈良公園が開設され,関西本線や近鉄各線が昭和初期までに開通して,自然美と古い文化が融合した観光都市として著しく発展した。

 産業別人口構成(1995)では第3次産業人口が72%,第2次産業人口は25%を占め,消費都市的性格が強い。工業は近世以来盛んとなったもののうち現在でも墨,筆は全国に占める割合が大きく,ほかに奈良塗,うちわ,扇子,赤膚(あかはだ)焼,乾漆彫刻,新しい素材による模写面,奈良晒(さらし)の伝統をつぐ麻手織物,秋篠(あきしの)手織,春日杉細工など,いずれも古い歴史とその風土の中ではぐくまれてきたものが多い。製造品出荷額(1995)は県の10%を占めるにすぎず,近代工業はふるわないが,旧市街地南部の京終(きようばて),肘塚(かいのづか)付近には零細工場が多く,その西部の西九条工業団地,佐保・都跡(みやと)地区には比較的規模の大きい工場が多い。おもな業種は,木材・木製品,食品,繊維製品,機械器具,化学製品などである。第1次産業人口は2%(1995)にすぎないが,平地部の農村地帯では米作を中心にイチゴ,野菜類,東部の笠置山地(大和高原)の緩斜面では茶をはじめキュウリ,シイタケなどが栽培される。

 奈良公園の西側台地下部の旧市街地には三条通り,餅飯殿(もちいどの),東向(ひがしむき)などの商店街が発達している。しかし,大都市大阪に近いことや県北にかたよっていることもあって,主として地元の人々や観光客を相手にする商店が多く,その商圏は県都の商店街としては狭い。観光地としては1950年国際文化観光都市に指定され,56年には古都保存法が適用されて発展し,1950~60年代にかけて若草山,高円(たかまど)山の両ドライブウェーが開設され,三笠温泉(炭酸泉,15℃),ドリームランド(2006年閉園)など新しい観光施設が建設された。観光の中心は東大寺,興福寺,春日大社をはじめ,奈良国立博物館,万葉植物園,県立美術館などが設けられた奈良公園,若草山一帯である。それらを取り囲むように原始林に覆われた春日山高円山などが〈青垣〉をなし,大和青垣国定公園の核心部となっている。その他の観光地としては,薬師寺,唐招提寺,垂仁天皇陵のある西ノ京一帯,平城宮址,西大寺,法華寺,秋篠寺や,あやめ池遊園地のある西大寺一帯などがあげられる。1月15日の若草山の山焼き,3月の東大寺二月堂の御水取,8月15日の春日大社の万灯籠などの年中行事には全国から観光客が集まる。なお1998年に〈古都奈良の文化財〉が世界文化遺産に登録された。

 JR奈良駅は関西本線,桜井線が集中し,近鉄奈良駅は近鉄奈良線のターミナル駅として乗降客が多く,両駅とも奈良県内各地へのバス交通の起点ともなっている。近鉄の奈良線と京都線,橿原(かしはら)線が交差する西方の近鉄大和西大寺駅周辺は宅地化が進み,駅周辺は活気がある。1960年代以降大阪都市圏の拡大につれて,大阪都心まで電車で30分程度で結ばれる奈良市西部の丘陵地帯は,近鉄奈良線学園前駅を中心に住宅地化が進み,北部の奈良山丘陵から京都府側にかけては大規模な平城ニュータウンや学研都市の建設が進められるなど,大阪市のベッドタウン化が顕著である。
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奈良は平城,寧楽,諾楽などと表記されるが,いずれもナラのあて字であり,平(ならす)がその地名の起りだといわれる。このナラの地に平城京が710年(和銅3)にひらかれ,東の春日・葛尾(若草)山麓の春日野に元興寺,興福寺,東大寺および春日大社が建立された。784年(延暦3)の長岡遷都によって平城京内は田園となったが,春日野の社寺は残存し,大社・大寺として遇され,大荘園領主となって繁栄した。それぞれ堂塔のほか,多数の社人や寺人をかかえており,四壁(境内)を越えて近傍の占有を競った。ここでは俗生活が許されたのでサト(里,郷)といわれるが,諸郷は平城古京の条坊制に沿って整然たる区画の街地に発達して社寺の都の観を呈し,王朝貴族はこれを南京,南都と呼んだ。やがて奈良が正称とされ,南都(南京)は雅称となる。

 1180年(治承4)平氏の南都焼討ちにあって諸郷の発達は頓挫したが,全盛の社寺の復興が進み,その工事に工匠,技芸の徒が多数来住したため,街地は倍旧の発展を示し,南都七郷(興福寺別当の直領で七つの親郷),東大寺郷,元興寺郷,春日社家郷,興福寺両門跡郷(両門跡とは一乗院大乗院のことで,それぞれ多数の郷を擁する)が成立,おりから商工業も興って都市化が進んだ。一乗院門跡が北市,次いで大乗院門跡が南市を開いて14世紀には南北両市が栄えた(なお1414年(応永21)に興福寺六方衆が中市を開いた。また東大寺郷に転害市が見え,都市化がわかる)。市には商工人が座衆(市座)として参加するが,なお商工業の座が続出している。漸次,社人・寺人のほか自立民が増加して郷民が成立するが,農民などは周辺部に移った。中世の奈良領は,東は春日山とその山麓の高畠(白毫(びやくごう)寺は領外),北は奈良坂,西は佐保田(法華寺は領外),南は岩井川(大安寺は領外)とされ,社寺周辺の門前郷の周辺を農村郷が取り巻くかたちとなった。ちなみに門前郷も畑地や園地をかなり存していた。これも社寺の末社や子院の門前郷として街地が生じたためであり,郷名(町名)に社寺名や寺門名が多いいわれである。当代,大和守護の興福寺は奈良においても強権をふるい,東大寺郷などにもその司法警察権を行使した。この警察権の行使に起用されたのが衆徒だが,1428年(正長1)正長の土一揆に対して徳政令を発するなど下剋上の勢いを示した。同じく郷民も商工業の発達によって成長して郷民自治を要求した。南都八景などが喧伝されて,旅宿が発達,酒のほか人形,墨がみやげ物となった。

 16世紀,戦国乱世となって他国武将の奈良進駐などに商工人(町人)の多い南都七郷と東大寺郷の郷民らは結盟対処している。いぜん社寺の領主境域はくずれず,郷民自治連合体の〈奈良惣中〉(奈良町の前身)が成立するのは,松永久秀が奈良に進駐し,多聞山城を築いた1560年(永禄3)直後のことである。まもなく奈良惣中(800石)は織田信長や豊臣秀吉の直領となって社寺から離れた。とくに豊臣秀長が大和郡山城主となり,その城下町振興のため奈良の酒造や商業を弾圧したのが有名である。95年(文禄4)太閤検地によって奈良惣中が奈良町となり,そして社寺郷と農村郷(奈良廻り八村)が分離した。

 1604年(慶長9)には江戸幕府の国奉行大久保長安によって〈町切り〉が完了,奈良町の各町が確立,惣年寄6名が選出され,奈良町(100町)が名実ともに成立した。なお,奈良代官屋敷が椿井町から大豆山町北に移されたが,13年奈良奉行所とされ,奈良奉行に中坊秀政が任ぜられた。このおり,徳川家康は特産物奈良晒を保護,その検印料を惣年寄に与えて町勢を振興させたが,次いで徳川家光は34年(寛永11)に奈良町の地子(1000石)を免許した。ようやく観光客も増加して近世奈良(奈良町125町,社寺領68町および奈良廻り八村)が確立した(人口約3万)。64年(寛文4)大和の天領を支配する南都代官所が中御門町に置かれたが,奈良奉行の奈良支配はゆるがない。ちなみに奈良町は天領であるが,いわば社寺の城下町であり,それを奈良奉行が支配する形である(社人・寺人は御用商工人を含め約1万)。92年(元禄5)東大寺大仏修造開眼,1709年(宝永6)の大仏殿復興供養などは奈良町の全盛を示すものだった。この元禄時代,奈良晒の生産は90万反に達し,酒,筆,墨,人形,うちわ,蚊張などの伝統産業も知られる。しかし,17年(享保2)興福寺が焼亡,その復興が遅々としたのが例証であるが,奈良は活気を失った。

 明治維新,神仏分離の嵐で社寺は荒廃,2万石領主の興福寺が廃寺となるなどで奈良町はさびれたが,1871年(明治4)大和一国を所管する奈良県が成立,奈良町が県都となったのに救われた。なお興福寺旧境内地に奈良公園を創設したのに始まり,社寺の修復や年中行事の復興が進んだので奈良町もよみがえった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「奈良」の解説

奈良
なら

奈良県北端に位置する。県庁所在地。地名は,「日本書紀」崇神紀の「草木をふみならす」によるとの説や,朝鮮語源説などがある。710年(和銅3)から74年間,平城京として栄えたのち衰えるが,旧外京の地には東大寺・興福寺などの門前町が形成され,中世以降,商業・工業(筆墨など)・芸能が発達する。江戸時代は奈良奉行をおいて幕府直轄。明治期以降,奈良公園や平城宮跡の整備が進み,多くの文化財の存在とともに,一大観光地となった。1898年(明治31)市制施行。元興寺極楽坊以南の地域で「ならまち」づくりも行われ,西部に大住宅地域が発展。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「奈良」の解説

奈良
なら

奈良県最北部にある県庁所在地。710年から784年までの都
奈良時代には乃楽・寧楽・平城などと書いたが平安時代に奈良の字に固定。元明天皇の平城京造営に始まり,以後7代74年間首都として繁栄した。784年,山背国長岡京に遷都後,荒廃して田畑と化したが,のち東大寺・興福寺・春日神社の門前町として発達。中世には興福寺・東大寺の支配下にあって商工業が発達し,市がたち,興福寺一乗院・大乗院や東大寺・春日神社を本所とする多くの座が結成された。江戸時代には天領となり奈良奉行が置かれた。1898年市制施行。国際的観光都市として発展。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の奈良の言及

【都市】より

国府都城【鬼頭 清明】
【中世】
 日本の中世都市に関する古典的研究は,西欧の古典的中世都市論の影響の下に,古代都市を統治機能中心にみるのと対の形で,経済すなわち商業手工業中心に自治の達成を規準としながら論じられてきた。したがって中世前期は古代の残影という視角で三都(京都奈良鎌倉)の変貌,形成をとらえ,商業・手工業の発達する中世後期に及んで地方を含めて多様な中世都市が一律に自治的要素をもって本格的に成立するとみる傾向が強かった。さらに三都や城下町門前町寺内町港町等々の多様な地方都市の質的差異や,構造的連関まで論じられることは少なかった。…

※「奈良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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