奈良(読み)ナラ

デジタル大辞泉 「奈良」の意味・読み・例文・類語

なら【奈良】[地名]

近畿地方中部の県。もとの大和やまとにあたる。人口140.0万(2010)。
奈良県北部の市。県庁所在地。和銅3年(710)平城京が建設され、約75年間古代日本の首都として栄えた。のち、京都を北都というのに対して南都とよばれる。また、東大寺春日大社興福寺の門前町として発達。古社寺、文化財、伝統行事が多い。奈良漬一刀彫などを特産。古くは「那羅」「平城」「寧楽」などとも書いた。人口36.7万(2010)。
[補説]平成5年(1993)に「法隆寺地域の仏教建造物」として法隆寺法起寺が、平成10年(1998)に「古都奈良の文化財」の名で東大寺興福寺春日大社春日山原始林元興寺薬師寺唐招提寺平城宮跡が世界遺産(文化遺産)に登録された。

なら【奈良】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「奈良」姓の人物
奈良利寿ならとしなが

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精選版 日本国語大辞典 「奈良」の意味・読み・例文・類語

なら【奈良・平城・寧楽】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] ( 平(なら)の地の意 ) 奈良県最北部の地名。県庁所在地。古く大和国添上・添下二郡(奈良盆地北部)に、条坊を区画し、和銅三年(七一〇)以後七四年間、政治の中心となった。のち春日大社・興福寺・東大寺の門前町として、特に近世の奈良詣の風習が盛んになるとともに繁栄。現在は古社寺・文化財が数多くある国際的な観光都市。特産品に筆・墨・漆器・角細工・奈良漬がある。明治三一年(一八九八)市制。
      1. [初出の実例]「後に都を乃楽(ナラ)に移す」(出典:日本書紀(720)天智七年二月(北野本鎌倉初期訓))
    2. [ 二 ]ならけん(奈良県)」の略。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. ならざらし(奈良晒)」の略。
      1. [初出の実例]「右京大夫高国朝臣へは、大永一年三月五日に公方様よりならの御ひたたれ」(出典:伊勢貞助雑記(1570頃か))
    2. ならうちわ(奈良団扇)」の略。
      1. [初出の実例]「奈良の風諸国の暑気をしのぐ也」(出典:雑俳・柳多留‐五七(1811))

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「奈良」の意味・わかりやすい解説

奈良(県)
なら

近畿地方のほぼ中央部を占める県。日本のほぼ中央に位置し、とくに県北部の奈良盆地は、飛鳥(あすか)・奈良時代を通して、「国のもなか」「国のまほろば」とうたわれ、政治・文化の中心地として栄えた。北を京都府、東を三重県、北西部を大阪府、南西部を和歌山県に囲まれた日本でも数少ない内陸県であるが、京阪神および中京の二大経済・都市圏に隣接し、経済生活のみならず、精神文化のうえでもそれらの影響を少なからず受けている。面積は3690.94平方キロメートルで、全国総面積の約1%にすぎない。東西64キロメートル、南北102キロメートルで南北に長い。大和(やまと)一国からなり、県庁所在地は奈良市。

 2020年(令和2)の第21回国勢調査による県人口は132万4473で、面積と同様に、総人口の約1%にすぎない。1750年(寛延3)の人口は37万4041、1846年(弘化3)は36万1137で、奈良県が設置された1871年(明治4)には41万8326、1887年47万6709という記録がある。1920年(大正9)第1回国勢調査以降の人口推移をみると、1920年は56万4607であったが、1940年(昭和15)まで停滞、微増が続き、1940年から1947年にかけては戦時中の疎開者の流入による約16万の増加があった。しかし、1947年から1950年の間では1万6000の減少があり、都市への還流がみられた。1960年ごろから県人口は急増し始める。1960年から1970年に約15万、1970年から1980年に約28万、1980年から2000年(平成12)に約23万と増加し、その間の増加率は全国的にみても高い。しかし、2000年以降は減少が続いている。社会的増減では、1963年を境に出超から入超に転じ、2000年頃までは超過率は増大傾向をたどっていた。これは京阪神大都市圏の膨張と、それに対応する県内の住宅開発など社会的要因によるものである。

 2020年10月現在、12市7郡15町12村からなる。

[菊地一郎・加藤光子]

自然

地形

中央部のやや北寄りを西流する吉野川に沿って、中央構造線が走っている。この構造線によって、本県の地形を内帯の北部低地帯と外帯の南部山岳地帯に分けることができる。北部低地帯は近畿地方の中央低地の一部を構成するもので、東半部の大和高原(笠置(かさぎ)山地)、宇陀(うだ)山地(東部は高見山地ともいう)、竜門(りゅうもん)山地、西半部の奈良盆地と、生駒(いこま)、金剛(こんごう)の両山地の東斜面に大別される。大和高原は東の上野盆地と西の奈良盆地に挟まれ、南の初瀬(はせ)川、宇陀川構造谷、北の木津川に限られた隆起準平原で、標高400~500メートル、なだらかな起伏の小丘陵からなる。大和高原の南に続く宇陀山地は南に急傾斜し、北の初瀬川、宇陀川構造谷に向かって緩傾斜する傾動地塊で、小丘陵の間に小盆地が開ける。山地東部の三重県境には高見山(1249メートル)、三峰(みうね)山(1235メートル)などの山々が連なり、また山地北部には室生(むろう)火山群があり、一帯は室生赤目青山国定公園に指定されている。宇陀山地の西方には竜門岳(904メートル)を主峰とする地塁性山地の竜門山地がある。奈良盆地は東を大和高原、西に生駒・金剛山地、南は竜門山地、北を奈良丘陵に囲まれた菱(ひし)形状の地溝性盆地で、面積約300平方キロメートル、県面積の約8%を占めるにすぎないが、標高40~80メートルの盆地底は平坦(へいたん)で肥沃(ひよく)な沖積層からなり、古くから水田農業が発達し、政治・文化の中心地となってきた。金剛山(1125メートル)を最高峰とする生駒・金剛山地は、南北約45キロメートル、奈良盆地と大阪平野を画している。金剛山地北端には二上(にじょう)火山群がある。盆地内の諸河川を集めて西流する大和川は、生駒山地と金剛山地の間を横断して大阪平野に流出する。両山地は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。

 県面積の60%強を占める南部山岳地帯は、紀伊山地の主部をなし、近畿地方でもっとも高峻(こうしゅん)な山岳地帯となっている。嵌入蛇行(かんにゅうだこう)して南流する東の北山川と西の十津(とつ)川に挟まれた地域で、中央の八剣山(はっけんざん)(1915メートル)を最高峰とする大峰山脈(おおみねさんみゃく)、東側の大台ヶ原山(1695メートル)を中心とする台高(だいこう)山脈、西側の伯母子(おばこ)山脈に分けられる。大峰山脈は古来修験道(しゅげんどう)信仰の中心となってきた地で、大台ヶ原、北山川の瀞(どろ)八丁(特別名勝、天然記念物)などは吉野熊野国立公園の主要部をなし、和歌山県境の伯母子山脈一帯は高野竜神(こうやりゅうじん)国定公園域である。このほか、大和高原の山麓(さんろく)をたどる山辺(やまのべ)の道や柳生(やぎゅう)街道一帯は大和青垣国定公園、三重県との県境の山岳地帯は室生赤目青山(むろうあかめあおやま)国定公園に指定され、県立自然公園には矢田、吉野川津風呂(つぶろ)、月ヶ瀬神野山(こうのさん)の三つがある。

[菊地一郎・加藤光子]

気候

概して温暖であるが、寒暑の差が大きい内陸性気候を呈する。北部と南部では地域的差異があり、北部の奈良盆地は温暖寡雨で、奈良市の平均気温は14.9℃、年降水量は1316ミリメートルで(1981~2010年平均)、瀬戸内型気候区に入る。ただし、大和高原、宇陀山地など山地部は平均気温が3℃ほど低くなり、年降水量は100ミリメートルほど多くなる。南部山岳地帯は平均気温は13℃、降水量は全国屈指の多雨地帯の山岳気候である。とくに大台ヶ原山一帯の年降水量は5000ミリメートル近くになる。山岳地帯南部は海洋の影響を強く受け、平均気温14℃前後、年降水量2000ミリメートルを超える温暖多雨の南海型気候区となる。

[菊地一郎・加藤光子]

歴史

先史・古代

奈良県でもっとも古い遺跡は、旧石器時代の高塚遺跡(奈良市藺生(いう)町)と鈴原(すずはら)遺跡(天理市)で、石器を出土している。縄文時代の遺跡は、木津川、大和川、吉野川、北山川水系に沿って点在する。高地住民が河川を交通路として利用し、狩猟漁労生活を営んでいたと思われる。弥生(やよい)時代になると、奈良盆地周縁部に遺跡の多くが分布する。竪穴(たてあな)住居趾(し)も発見され、水稲耕作用具などの遺物も出土する。弥生時代には盆地の中心部は沼沢地だったので、その周縁部に定住を始めたと思われる。銅鐸(どうたく)や多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)も出土している。3世紀末から4世紀初頭に古墳が出現し、5世紀に入ると巨大な前方後円墳が盛んに築造された。県下の古墳は1000を超えるが、大部分は奈良盆地にみられ、長さ200メートル以上の前方後円墳は20基に近い。『古事記』『日本書紀』には、大和朝廷の始祖神武(じんむ)天皇が畝傍山麓(うねびさんろく)の橿原宮(かしはらのみや)で即位したと記される。創始年代は不詳であるが、奈良盆地周縁部に原始小国家である「むら国」を支配する古代豪族(首長)が台頭し、やがて「むら国」を統合し、天皇家を中心とする有力豪族の連合体である大和朝廷が成立した。有力豪族の居住地には巨大前方後円墳の多いことが考証されている。遅くも4世紀前半までに、大和を中心に日本の統一をほぼ終わり、同後半には南朝鮮に進出して進んだ文明と鉄を手に入れ、5世紀ごろ国家組織がいちおう完成したとみられている。

 奈良盆地南東部の飛鳥(あすか)の地は5世紀の後半から開け、蘇我(そが)氏によってさらに開発され、6~7世紀には政治の中心であった。発掘調査されている飛鳥板蓋(いたぶき)宮のほか多くの宮都が営まれた。仏教伝来に伴って、飛鳥にも本格的な寺院法興(ほうこう)寺(飛鳥寺)が建立され、斑鳩(いかるが)の地には、推古(すいこ)天皇と聖徳太子の発願により法隆寺が建てられた。持統(じとう)天皇8年(694)天皇は飛鳥から藤原京(橿原市)に遷都した。奈良盆地南部、畝傍山・天香久山(あめのかぐやま)・耳成(みみなし)山の大和三山に囲まれた地に、中国の長安を模した都城が設定された。京内は12条8坊の条坊制が敷かれ、律令(りつりょう)制の象徴であった。しかし、藤原京は未完成のまま710年(和銅3)元明(げんめい)天皇のとき平城京(奈良市)へ遷都し、一時山背(やましろ)(京都府)の恭仁(くに)京などへ遷(うつ)ったが、7代74年間の帝都となった。平城京は奈良盆地北端を占め、東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートルの長方形をなし、藤原京の約3.5倍の規模をもった。中央の朱雀大路(すざくおおじ)で左京と右京に分かれ、南北9条、東西各4坊の条坊制を敷き、北辺中央に大内裏(だいだいり)、左京・右京に東市・西市が置かれた。また、飛鳥から藤原氏の氏寺興福寺をはじめ、薬師寺、元興(がんごう)寺、大安寺の四大官寺のほか多くの寺院が移建された。その後、東大寺、唐招提(とうしょうだい)寺、西大(さいだい)寺などが創建され、左京の東に外京が設けられた。壮麗な宮殿、寺院、邸宅が軒を連ね、「咲く花の匂(にお)うがごとし」と歌われるにふさわしい景観を呈した。とくに聖武(しょうむ)天皇の時代に全盛期を迎え、752年(天平勝宝4)には東大寺大仏殿で大仏開眼の盛儀が行われ、天平文化(てんぴょうぶんか)の花が開いた。784年(延暦3)桓武(かんむ)天皇が山背の長岡京に遷都し、以後平城京は荒廃し、9世紀後半には大部分が水田と化したという。しかし、諸大寺はそのまま残り、薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺の六大寺に法隆寺を加えた七大寺は南都七大寺とよばれて繁栄した。なかでも東大寺は皇室の氏寺として保護され、また興福寺と春日(かすが)大社は、藤原氏の氏寺・氏社として摂関政治の実現とともにますます発展した。9世紀中ごろから平安貴族の間で氏神・氏寺の祭祀(さいし)が盛んとなり、「ふるさと大和」を懐かしむ風潮も加わって、南都七大寺への巡礼や春日詣(もう)で、長谷(はせ)詣でなど社寺詣でが盛んに行われた。

 1156年(保元1)に始まる保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱で源氏を駆逐し、政権を握った平清盛(きよもり)は、大和を知行(ちぎょう)国とし、大和一円の検注(けんちゅう)を強行して東大寺、興福寺との対立を激化させた。1180年(治承4)清盛の命で平重衡(しげひら)は南都を焼討ちし、東大寺大仏殿をはじめ多くの堂塔伽藍(がらん)が焼失した。

[菊地一郎・加藤光子]

中世

1181年(養和1)には早くも南都の復興が始まり、社寺の建築のほか彫刻、芸能が盛んになった。鎌倉時代も繁栄を続け、寺社の周りには、寺人や神人(じにん)、職人などによる門前郷ができ、南都七郷(興福寺寺門郷)と東大寺七郷が形成された。また、市(いち)と座が発達した。鎌倉幕府は全国に守護(しゅご)、地頭(じとう)を配置したが、大和は興福寺の勢力が強く、守護を置くことができなかった。興福寺は大和守護としてふるまい、僧兵と春日神人からなる武士団、衆徒(しゅと)・国民(こくみん)の制を確立した。

 南北朝時代は、北大和は北朝方、南大和は南朝方に分かれ、興福寺では寺務、大乗院門跡側が北朝方、一条院門跡側が南朝方に分かれた。この間、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇の吉野遷宮があり、また後村上(ごむらかみ)天皇は賀名生(あのう)(五條(ごじょう)市西吉野町)に行宮(あんぐう)を置いた。戦国時代には各地に土一揆(つちいっき)が頻発し、農民は徳政令の発布などを要求した。この時期、農村を握る衆徒・国民は、地縁によって党を結び、やがて北大和の一条院門跡衆徒の筒井(つつい)氏と南大和の散在党国民の越智(おち)氏が台頭し、対立する。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)では、筒井氏が東軍、越智氏が西軍に属した。戦国時代、大和は四分五裂の状態になる。三好長慶(みよしながよし)の代官松永久秀(ひさひで)が大和を支配するが、1567年(永禄10)三好三人衆らと交戦し、その際東大寺大仏殿を焼き払った。久秀はのち織田信長に討たれ、信長は筒井順慶(じゅんけい)を大和守護に任じ、郡山(こおりやま)に築城させた。ここに興福寺の大和守護の実権は失われた。順慶の死後、豊臣(とよとみ)秀吉の弟秀長が郡山城に入る。秀吉の文禄(ぶんろく)検地によって、大和国の村切(むらぎり)が明確となり、総石高(そうこくだか)は約45万、江戸末期までほとんど変動がなかった。

[菊地一郎・加藤光子]

近世

江戸時代、大和に配置された大名のうち明治維新まで存続したのは郡山藩6万石(のち15万石)、高取藩3万石(のち2万5000石)のほかは小藩の小泉、芝村(しばむら)、柳本(やなぎもと)、柳生(やぎゅう)の各藩だけである。幕藩体制中、松山藩、置留(おきどめ)藩、新庄(しんじょう)藩(櫛羅(くしら)藩)、御所(ごせ)藩、竜田(たつた)藩、田原本(たわらもと)藩などが立藩、廃藩したが、これらの藩はいずれも小藩で、城をもたず陣屋を構える1万石級の小大名であった。そのほかは奈良奉行(ぶぎょう)や代官が支配する幕府領、旗本領、寺社領、公家(くげ)領などに細かく分かれ、他国藩領もあった。

 当時の産業をみると、室町時代からの酒、墨、刀剣、団扇(うちわ)、火鉢、人形などが奈良の名産として知られていたが、江戸時代になって奈良晒(ざらし)が盛んとなる。また、大坂の発達に伴って上方(かみがた)見物客が奈良にも流れ、寺社参りも増え、観光地の性格をもってくる。南大和も吉野林業の発達で活況を呈した。

 近世を通じて全国に起きた百姓一揆は3500を超えるが、大和でも30以上の一揆が起きている。なかでも1753年(宝暦3)芝村藩領で年貢減免と領主交替を要求して京都奉行所に箱訴(はこそ)した芝村騒動(十市騒動(とおちそうどう))が知られる。芝村騒動は9か村に及んだが、このほか十市、式下(しきげ)、葛下(かつげ)3郡から200人が江戸に召喚され、首謀者は死罪、流罪に処せられた。1863年(文久3)尊攘(そんじょう)派の天誅(てんちゅう)組が大和挙兵を図り、五條(ごじょう)代官所を焼討ちし、さらに十津川郷士を招集し高取藩を攻撃しようとしたが、大和諸藩などの討伐軍によって10日間で敗退した。

[菊地一郎・加藤光子]

近・現代

明治維新後の1868年(明治1)大和鎮台が置かれ、さらに同年奈良奉行所支配地などを所管する奈良県が設けられ、1870年には五條県が置かれた。1871年の廃藩置県で大和国一円を所管する奈良県が設置されるが、1876年には堺県(さかいけん)に合併され、堺県は5年後大阪府に編入された。奈良県の名が復活するのは大阪府からの分離が認められた1887年のことである。一方、維新直後の新政府によって、神道(しんとう)国教化政策が打ち出され、全国に廃仏棄釈の嵐(あらし)が吹き荒れた。県下各地で由緒ある寺院が壊され、仏像、寺宝が散逸した。その荒廃のなかから、明治中期になると、奈良公園、奈良帝室博物館(現、奈良国立博物館)、吉野県立公園の設置など、建国の聖地宣揚に支えられて観光立県の動きが始まる。本県の交通は、古くから京都、熊野を結ぶ南北方向の上(かみ)街道と、堺と直結する大和川水運が中心であったが、明治中期から昭和初期にかけて、京都、大阪、和歌山を結ぶ国鉄網、私鉄網が発達した。第二次世界大戦後は産業・観光道路網の整備が進み、戦災を免れた奈良県の観光化は躍進した。また、北部の奈良盆地は古来先進的農業地帯、南部の吉野山地は近世以降林業地帯であり、第二次世界大戦後まで本県の産業構造は農林業を主体とするものであった。1960年代の日本の高度経済成長に伴って阪神経済圏も急激な膨張を遂げ、奈良県への流入人口が増大するとともに、県内の住宅開発、工業開発などが進み、第二次産業、第三次産業を主体とする産業構造に変貌(へんぼう)していった。他方、吉野山地の林業地帯では人口流出が続き、過疎化が進行している。

[菊地一郎・加藤光子]

産業

県北部の肥沃な奈良盆地を中心に早くから農耕文化が発達し、干魃(かんばつ)に悩まされながら溜池灌漑(ためいけかんがい)の利用などで水田二毛作中心の先進的農業地帯としての地歩を築いてきた。また、吉野山地、宇陀(うだ)山地の豊富な林産資源に基づく林業が発達し、その結果、本県は農林業主体の産業構造を長らく維持・発展させてきた。1920年の農林業就業者は全就業者の過半を超える53%を占め、1940年でも第1位の46%であった。一方、古い歴史と高水準の技術をもった各種伝統産業が発達したが、家内工業的性格が強く、近代的工業化の原動力とはなりえなかった。本県の近代的工業化は、明治後期に立地した綿糸紡績やメリヤス工業などに始まり、その後、ゴム履き物、木材やその製品などの軽工業が発達した。しかし、それらは低賃金の農村余剰労働力に依存するもので、産業構造を変革するまでに至らなかった。第二次世界大戦後の阪神工業地帯の発展と、道路交通の発達が本県の産業構造を急激に変革していった。農業の兼業化、農地の宅地化・工場化、農山村人口の流出などがおこるとともに、阪神工業地帯から県内への工場進出がみられ、工業団地の造成や工場誘致が積極的に行われ、金属・機械工業を中心とする内陸型工業の傾向が強まった。かつての農林業県は、いまや工業や商業、観光を主体とする産業構造に変貌している。

[菊地一郎・加藤光子]

農林業

2000年の農家総数は3万2255戸で、1980年からの20年間で1万7785戸の減少である。減少率は近年鈍化しているものの、全国比よりは大きい。耕地面積も都市化の影響で年々減少し、2000年は1万7046ヘクタール、2010年は1万3081ヘクタールである。したがって、農家1戸当りの経営耕地面積は約46アールで零細である。第二次世界大戦前の専業農家率は50%を超えていたが、1961年以降激減し、2000年には8%まで下がった。農民の多くが安定した職場を求めて就職し、農業所得を生計の補助的なものとし、資産管理的な経営を行う都市近郊型農業経営の特色を示している。2017年には耕地面積のうち水田が全体の約70%を占めるが、生産調整のための作物転換が行われており、水稲生産は減少している。野菜生産は全国的にみて多いほうではないが、京阪神大都市圏近郊の野菜供給地となっている。盆地気候を利用した水田裏作の大和スイカは有名である。カキの栽培は古くから知られているが、ミカン、ブドウ、ナシなどの果樹栽培も盛んになっている。また茶の栽培も古くから盛んで大和茶として知られる。最近は施設園芸が急速に伸び、イチゴ生産は全国のトップクラスに入っている。

 県総面積の約77%は林野で占められる。私有林が大部分で、早くから人工更新が積極的に行われたことや、独特の密植方法により、単位面積当りの蓄積量は全国第8位であり(2007)、スギ、ヒノキを中心とする用材林の品質は高く評価されている。とくに吉野杉、吉野磨丸太(よしのみがきまるた)などの良材の産出で知られる。

[菊地一郎・加藤光子]

水産業

内陸県であるが、溜池や河川を利用する養殖業、漁業が行われている。県全体の産業に占める割合はきわめて小さいものの、大和郡山市を中心とするキンギョ、色ゴイなどの観賞用魚類の養殖は全国的に有名で、質・量の両面で評価が高い。また、大和川、熊野川を中心にアユなどの内水面漁業も行われている。

[菊地一郎・加藤光子]

工業

2001年に奈良県工業の事業所数は6862、従業者数は9万4834人であった。そのうち従業者300人以上の事業所は約0.3%にすぎず、事業所のほとんどは中小零細企業である。部門別にみると、木材木製品、衣料品、食料品、プラスチック製品、金属製品などの製造業が事業所数、従業者数とも多い。2003年の工業出荷額は2兆0506億円で、近畿地方では下位の方である。出荷額の順位は一般機械、電子部品・デバイス、食料品、金属製品、プラスチックの順で、年々重化学工業の占める割合が高くなっており、反面、かつて出荷額第1位であった木材の出荷額は低下している。一般機械、電気機械の進出は、1965年以降の工場誘致、工業団地造成などによるもので、大和郡山市の昭和工業団地などを中心に阪神工業地帯からの進出企業がみられる。地場産業の60%は繊維、木材、衣服の3業種で占められ、大和郡山市、大和高田市のメリヤス工業、北葛城(きたかつらぎ)郡の靴下製造、御所(ごせ)市、大和高田市のサンダル製造などが知られている。伝統工業の技術的発祥の歴史は古く、奈良時代にさかのぼるものもある。奈良市の奈良漆器、一刀彫、赤膚(あかはだ)焼、奈良蚊帳(がや)、毛筆、墨、奈良漬け、生駒市の茶筌(ちゃせん)、吉野郡の割箸(わりばし)、三宝、神具、吉野葛(くず)、桜井市の三輪(みわ)そうめんなどが知られる。また御所市、高取町では古くから大和売薬(製薬)業が盛んである。

 近年、「テクノパーク・なら」をはじめとした新しい工業団地の開発が促進されている。

[菊地一郎・加藤光子]

開発

本県の地域開発は、第二次世界大戦後、農業用水の確保を主目的とした十津川・紀ノ川(吉野川)総合開発に始まり、その実施途上で、国土総合開発法に基づく特定地域として新宮(しんぐう)川水系(熊野川)の電源、森林資源開発などを主とした吉野熊野特定地域総合開発(1956)が実施された。その後、奈良盆地の工業開発を主軸にした奈良県新総合開発(1963)、第二次奈良県新総合開発(1968)、県長期基本計画(1973)、県長期構想計画(1984)などがあり、1995年には奈良県新総合計画が策定され、2006年度からは「やまと21世紀ビジョン」へと継承された。1968年以降の開発計画では、資源・産業開発よりも人間生活優先、環境重視の方向で公害防止、自然環境・居住環境の保全、埋蔵文化財・遺跡の保存と県民生活向上のための各種の開発事業に重点が置かれるようになった。

[菊地一郎・加藤光子]

交通

奈良盆地は古くから道路網が発達し、現在に継承されているものも少なくない。古代、中世には、京都と結ぶ南北の交通路が発達し、近世以降は大和川水運を中心に大坂、堺と結ぶ東西の交通路が重要となった。明治中期から末期にかけて鉄道が敷設され、現在のJR西日本の関西本線、奈良線、桜井線、和歌山線が開通した。鉄道の敷設で、近世以降栄えた大和川水運は消滅した。大正期から昭和初期にかけては私鉄の発達が目覚ましかった。現在、近畿日本鉄道の奈良線、京都線、橿原線、大阪線など12路線に及んでいる。JRはおもに旅客・貨物の長距離輸送、近鉄は通勤・通学などの短距離輸送と、奈良盆地や吉野山地への観光の足として利用されている。旧街道は、拡幅・舗装されて国道・県道となった。国道は24号、25号、163号、166号などがあり、ほかに自動車専用の名阪国道(大阪―名古屋)、西名阪自動車道(松原―天理)、南阪奈道路(美原―葛城)、京奈和自動車道(京都―和歌山)、第二阪奈道路(西石切―宝来)などが走っている。

[菊地一郎・加藤光子]

社会・文化

教育文化

学制が敷かれてまもない1874年の統計によれば、奈良県の就学率は52.7%(全国平均32.3%)で、大阪府に次ぐ高率を示し、教育熱の高さは現在に及んでいる。1909年奈良奉行所跡に設立された奈良女子高等師範学校は、東京女子高等師範学校とともに日本における最高の女子教育機関であった。2018年(平成30)現在、奈良女高師を前身とする奈良女子大学と、奈良師範学校・奈良青年師範学校を前身とする奈良教育大学と、先端科学技術分野における大学として、1991年に設立された奈良先端科学技術大学院大学の三つの国立大学がある。天理教の海外布教に従事する者の養成機関であった天理外語学校を前身とする天理大学は、仏教・キリスト教以外の宗教団体が設立した数少ない私立大学で、同大学の図書館、参考館は国の内外の希書、考古学的遺物、民俗品を収蔵し、世界的にも高く評価されている。このほか奈良県立医科大学、奈良県立大学、私立の帝塚山(てづかやま)大学、奈良大学、奈良学園大学、近畿大学(農学部)、畿央大学など、短期大学に私立の3校、国立奈良工業高等専門学校がある。

 文化施設には、明治中期に設立された奈良帝室博物館(現、奈良国立博物館)のほか、飛鳥(あすか)資料館などの特徴のある施設があり、奈良文化財研究所、県立橿原考古学研究所は、史跡発掘に活躍し、多くの成果をあげている。

 文化財には、世界文化遺産に登録された法隆寺地域の仏教建造物群があり、1998年には東大寺など「古都奈良の文化財」が、また2004年には大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)・熊野参詣道小辺路(こへち)が「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界文化遺産に登録されている。

 マスコミ関係では、『奈良新聞』は1946年発刊の『大和タイムス』が1975年に現在名に改めたもの。また1972年には奈良テレビ放送(UTN)が開局した。

[菊地一郎・加藤光子]

生活文化

奈良県では、北部の奈良盆地は「国中(くんなか)」、南部の吉野山地は「山中(さんちゅう)」と呼び習わされてきたが、北部と南部では自然環境や歴史が大きく異なり、生活様式にも相違がある。奈良盆地東部の大和高原も「東山中(ひがしさんちゅう)」とよばれ、盆地とは生活様式を異にする。奈良盆地一帯は、東西南北に直交して走る道路と、その間に点在する溜池や大小の古墳によって彩られている。それらの道路は古代条里制の遺構で、条里制集落は平均60戸前後から構成されており、垣内(かいと)ともよばれる。溜池も条里の中にはまり込むように方形または長方形で、浅く掘られていて「大和の皿池(さらいけ)」とよばれている。盆地の各所にみられる古墳の大きなものや陵墓の周囲には堀が巡らされている。いまでは大和郡山市稗田(ひえだ)地区など十数か所を残すのみであるが、かつては集落の周囲に堀を巡らした環濠(かんごう)集落が奈良盆地内に百数十か所分布していた。溜池も環濠も干魃に苦しむ水田農業の灌漑用に利用され、そこに生まれた水利慣行も含めて生活文化にほかならない。

 奈良盆地には独特の屋根型をもつ民家が分布する。大和棟(むね)の名で知られ、急勾配(こうばい)の屋根の両端を白壁で塗り固め、瓦(かわら)を2、3列並べて葺(ふ)いた高塀(たかへい)造の大棟が特徴的である。さらに、屋根の片側または両側に一段低い瓦葺きの落ち屋根がついている。奈良旧市街地北部の法蓮(ほうれん)町には法蓮造の民家がある。いまは周囲が都市化して孤立的存在になっているが、間口に比して奥行が4、5倍も長く、表から裏まで一列に多くの部屋が続く。都市周辺の農家は間口が広くとれないためである。吉野山地の山村では比高が数百メートルある傾斜面に石垣を築いて細長い形の平地をつくり家を建てる。また、吉野建てとよばれる民家がみられる。傾斜地に建てられたもので、正面から見れば1階であるが、裏から見れば2階、3階になっている。今日では食生活が平均化され、奈良県独特の食物をみいだすことは困難であるが、最近まで「大和の茶粥(ちゃがゆ)」を食する習慣が県内農村に広く残っていた。僧坊の台所から生まれたという奈良漬けも奈良が本場とされている。奈良にうまいものなしといわれるなかで、あゆずしは例外とされる。吉野川でとれるアユを米飯の上に姿が崩れぬようにのせた姿ずしはいまでも名物となっている。

 大和朝廷発祥の地である奈良県には、格式の高い寺社に伝えられてきた祭礼、行事と、民俗的な信仰に基づく神事、芸能があって、それらが四季を通じて展開されている。前者の祭礼、行事には、春日大社の申祭(さるまつり)(春日祭)、東大寺修二会(しゅにえ)(御水取)、聖武(しょうむ)祭、薬師寺の花会式(はなえしき)、興福寺の修二会(薪能(たきぎのう))、春日若宮おん祭などがある。各地の村々に伝承されている土俗的で素朴な農耕予祝儀礼には、高市(たかいち)郡明日香(あすか)村飛鳥坐(あすかにいます)神社のおんだ祭、桜井市素戔嗚(すさのお)神社のお綱祭、御所(ごせ)市茅原(ちはら)のとんど(選択無形民俗文化財)などがある。このほか奈良市上深川(かみふかわ)町(旧都祁(つげ)村)に伝わる語物芸の題目立(だいもくたて)、十津川の大踊(吉野郡十津川村)は重要無形民俗文化財に指定。奈良豆比古(ならずひこ)神社の翁舞(おきなまい)(奈良市)、篠原(しのはら)踊、阪本踊(五條(ごじょう)市大塔(おおとう)町)などは選択無形民俗文化財。

 なお、県下の行事を季節的に追ってみると、盆地特有の厳しい真冬の初詣(はつもう)でを済ませたあと、若草山の山焼き、春日大社の万灯籠(まんとうろう)、各地の寺社の節分会(せつぶんえ)、長谷(はせ)寺のだだ押し、飛鳥坐神社のおんだ祭、北葛城(きたかつらぎ)郡河合(かわい)町広瀬神社の砂かけ祭、桜井市素戔嗚神社のお綱祭と続く。春日大社の申祭、東大寺二月堂の御水取が終わると春の訪れとなり、春爛漫(らんまん)の桜の季節に薬師寺の花会式が開かれる。東大寺の聖武祭、修験道(しゅげんどう)大本山大峰山上(さんじょう)ヶ岳戸開(とあけ)式が新緑の5月上旬に行われ、やがて興福寺南大門跡の野外舞台で能の金春(こんぱる)、金剛、観世(かんぜ)、宝生(ほうしょう)四流家元が参加して競演する。古都の夜に揺らめく薪のあかりの中で幽玄の美がつくりだされる。ついで葛城(かつらぎ)市當麻(たいま)寺のお練り供養がある。「當麻のレンゾ」ともいい、農家では農作業を休む。西大寺の大茶盛(おおちゃもり)、唐招提寺(とうしょうだいじ)の団扇撒(うちわま)きと開山忌が初夏を告げ、続いて古式ゆかしい優雅な奈良市率川(いさがわ)神社の三枝祭(さいくさのまつり)(百合(ゆり)祭)、吉野山蔵王堂の蛙(かわず)飛びが行われる。盆の行事も終わり、10月に入って春日大社の神鹿(しんろく)の角(つの)切りで秋が深まり、師走(しわす)を飾る伝統の春日若宮おん祭で奈良の祭りを締めくくる。

[菊地一郎・加藤光子]

文化財

古代日本の政治、文化の中心地であり、戦災を免れたこともあって、奈良県の文化財は枚挙にいとまがない。国指定文化財の数は京都府、東京都に次ぎ、古代の文化遺産に限れば全国一といえる。藤原宮跡、平城宮跡、山田寺跡、本薬師寺跡、文殊院西古墳、巣山(すやま)古墳、石舞台古墳、高松塚古墳、平城京左京三条二坊宮跡庭園の特別史跡を含め国指定史跡は115に及ぶ。日本最古の木造建造物の法隆寺をはじめ、東大寺、興福寺など国宝建造物は64件、重要文化財は200件を超える。法隆寺百済観音(くだらかんのん)、中宮(ちゅうぐう)寺菩薩半跏(ぼさつはんか)像、薬師寺薬師三尊など飛鳥・白鳳(はくほう)・天平(てんぴょう)美術を代表する彫刻や工芸品、資料などで国の重要文化財(国宝を含む)に指定されているものは1300余に達する(2019)。また正倉院には数多くの宝物が所蔵されている。

[菊地一郎・加藤光子]

伝説

興福寺の放生(ほうじょう)池である猿沢池(さるさわのいけ)の池畔に「衣掛柳(きぬかけやなぎ)」がある。時の帝(みかど)に仕えた采女(うねめ)が寵愛(ちょうあい)の衰えたのを嘆いて池に投身したという。衣掛柳の傍らに采女の霊を祀(まつ)る采女神社がある。春日神社の鹿(しか)を殺した者は石子詰(いしこづめ)の重刑になった。興福寺境内の菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)(「十三鐘」)の前庭に、イチョウとケヤキの宿り木の大樹があるが、その根元に石子詰に処せられた稚子(ちご)三作の墓がある。東大寺二月堂の傍らには、いまは切り株となった「良弁杉(ろうべんすぎ)」がある。良弁僧正(そうじょう)は聖武天皇の尊信を受けた名僧であるが、幼時、ワシにさらわれ、ワシが二月堂の大杉の梢(こずえ)に翼を休めたとき高僧義淵(ぎえん)に助けられた。良弁は奇縁の大杉の下で母子の対面を遂げたと伝えられる。この説話は『今昔(こんじゃく)物語』『扶桑略記(ふそうりゃっき)』などにみえる。奈良には在原業平(ありわらのなりひら)にまつわる伝説が多い。天理市櫟本(いちのもと)町の在原神社は在原寺の跡で、業平の井戸と称するものがある。在原社から河内(かわち)高安(大阪府八尾市)の河内姫のもとへ通ったいわゆる業平道は、いまもたどることができる。橘(たちばな)街道と交差する大和郡山市新庄(しんじょう)町鉾立(ほこたて)にも業平姿見の井戸があり、俳人蕪村(ぶそん)の「虫啼(な)くや河内通ひの小提灯(こちゃうちん)」の句碑が建つ。天理市布留(ふる)の石上(いそのかみ)神宮の宝剣「小狐丸(こぎつねまる)」は大蛇を退治したといい、抜くと小狐の走る姿が現れるという。桜井市の大神(おおみわ)神社は「三輪山(みわやま)」をご神体とする。『古事記』によれば活玉依(いくたまより)姫のもとへ神が蛇になって妻問(つまど)いをしたとある。三輪山近くの「箸墓(はしばか)」の伝説でも、倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫のもとへ通ってきた男が蛇に変じたという。これらの伝承は、蛇が農耕神として尊崇されていたことを物語る。その信仰が反映した昔話に「蛇聟入(へびむこい)り」がある。「久米仙人(くめせんにん)」の久米寺は橿原市久米町にある。寺の近くの芋洗(いもあらい)川で洗濯する女を見て仙人が神通力を失ったといい、小川のほとりに芋洗い地蔵が祀られる。久米仙人のことは『今昔物語』『発心(ほっしん)集』『久米寺流記(るき)』などにみえている。吉野郡十津川村と野迫川(のせがわ)村の境にある伯母子(おばこ)峠に「一本足の鬼」がいて旅人を殺したので、丹誠上人(たんせいしょうにん)が経堂塚をつくって鬼を封じた。それから毎年12月20日は「果ての二十日」といって厄日になったという。吉野郡吉野町には静御前(しずかごぜん)や源義経(よしつね)にゆかりの伝説が残っている。西生寺境内の「静ヶ井戸」は静が投身した所といわれている。『平家物語』には平維盛(これもり)は屋島(やしま)から高野山(こうやさん)に逃れたあと那智(なち)の沖で入水(じゅすい)したとあるが、吉野郡下市(しもいち)町に「維盛塚」があり、この地に余生を送ったと伝えられる。

[武田静澄]

『『大和の民俗』(1960・大和タイムス社)』『『奈良県政七十年史』(1962・奈良県)』『永島福太郎著『奈良県の歴史』(1966・山川出版社)』『『奈良県百年』(1968・毎日新聞社)』『岩井宏実・花岡大学著『奈良の伝説』(1976・角川書店)』『『郷土史事典 奈良県』(1981・昌平社)』『『日本歴史地名大系30 奈良県の地名』(1981・平凡社)』『『日本地名大辞典 奈良県』(1990・角川書店)』『『奈良統計年鑑』(1997・奈良県統計協会)』『『奈良県勢要覧』(1997・奈良県統計協会)』『平山輝男他編『日本のことばシリーズ29 奈良県のことば』(2003・明治書院)』『直木孝次郎著『奈良』(岩波新書)』



奈良(市)
なら

奈良県北端部、奈良盆地北部と大和(やまと)高原(笠置(かさぎ)山地)西部を占める国際文化観光都市で、県庁所在地。1898年(明治31)市制施行。1923年(大正12)添上(そえかみ)郡佐保(さほ)村、1940年(昭和15)生駒(いこま)郡都跡(みあと)村、1951年(昭和26)添上郡大安寺(だいあんじ)、東市(とういち)の2村、生駒郡平城(へいじょう)村、1955年添上郡辰市(たついち)、明治、五ヶ谷(ごかたに)の3村、添上郡帯解(おびとけ)、生駒郡伏見(ふしみ)、富雄(とみお)の3町、1957年添上郡田原(たわら)、柳生(やぎゅう)、大柳生(おおやぎゅう)、東里(ひがしさと)、狭川(さがわ)の5村、2005年(平成17)山辺郡都祁(つげ)、添上郡月ヶ瀬の2村を編入。2002年には中核市に移行している。

 面積276.94平方キロメートル、人口35万4630(2020)。ちなみに市制施行時の面積は23.4平方キロメートル、人口2万9986。いわゆる平成の大合併以前の市域確定時(1957)には、面積は9.1倍に、人口は4.3倍に増加したが、市域が拡大したわりには人口の増加が少なく、ほとんどが純農村などの合併による行政的増加である。しかし、1977年の人口は27万3026人に達し、1957年の2.1倍になった。これはおもに西部地区を中心に宅地開発が進み、市外からの転入者の増加が影響している。大規模な住宅開発は1950年近畿日本鉄道による学園前の住宅開発に始まり、住宅・都市整備公団(現、都市再生機構)による平城ニュータウン(最終入居人口約4万と推定)などの団地や分譲マンションの建設が相次いだ。また、1960年に1万3577人であった昼間流出人口は2000年(平成12)には3万0284人に急増している。とくに県外流出就業者6万0594人のうち大阪府が85%、うち大阪市が70%を占め、大阪のベッドタウン化が進んでいる。

[菊地一郎]

自然

市域は東西32キロメートル、南北22キロメートルで東西に長く、東部は大和高原、西部は奈良盆地北部を占める。高原と盆地との境界には南北に春日(かすが)断層崖(がい)が走り、北に若草山、御蓋(みかさ)山などの三笠(みかさ)火山岩丘群がある。断層崖下の山麓(さんろく)には台地が発達し、高原から流下する佐保川、岩井川などの小谷によって形づくられた台地上に奈良公園、奈良旧市街地が広がり、その台地の南に鹿野園(ろくやおん)台地が続く。高原上には布目(ぬのめ)川、白砂(しらすな)川が北流し、柳生、大柳生などの小盆地が形成されている。盆地の北は奈良丘陵や登美(とみ)ヶ丘の丘陵で京都府に接し、南は盆地底として開ける。盆地部沖積低地の西は西ノ京丘陵、矢田丘陵に続く。沖積低地には古代の平城京の中心部が置かれた。

 盆地部は気温の年較差・日較差の大きい内陸性の気候を示す。夏の日照りは強く、冬は晴天が続き、朝方の冷え込みは厳しい。年平均気温14.9℃、年降水量1316.0ミリメートルで年間を通して温暖少雨である。高原部での平均気温は約12.0℃、年降水量は盆地より190ミリメートルほど多くなり(1981~2010年平均)、冬の季節風が強い。

[菊地一郎]

歴史

縄文遺物の出土は断片的であるが、弥生(やよい)時代になると、平城宮跡や六条山、窪之庄(くぼのしょう)、広大寺池付近などで竪穴(たてあな)住居跡が発見され、石器、土器、銅鐸(どうたく)などの出土がみられる。古墳時代になると、奈良丘陵付近の佐紀古墳群をはじめ、大小さまざまな古墳が市内各所に残されている。春日山西麓から南麓の古市(ふるいち)、帯解に至る地域には、古代有力豪族の春日氏が勢力を振るっていた。また、西部の秋篠(あきしの)や菅原(すがわら)の地に土師氏(はじうじ)が居住していた。

 710年(和銅3)元明(げんめい)天皇は藤原京(橿原(かしはら)市)から平城京へ遷都し、784年(延暦3)に山背(やましろ)長岡京(向日(むこう)市)へ遷都するまでのほぼ7代74年の間、奈良の地は古代日本の首都となった。平城京は唐の都長安に倣い、藤原京の約3.5倍の広さをもった。東西32町(約4.3キロメートル)、南北36町(約4.8キロメートル)、中央北辺に置かれた大内裏(だいだいり)から南へ走る朱雀(すざく)大路によって左京・右京に分かれ、整然とした坊条の区画をもった都城である。壮麗な宮殿や寺院、貴族の邸宅によって彩られ、最盛時の人口は20万人を数えたという。この新京には大寺院が飛鳥(あすか)から移建され、あるいは創建されて仏教文化が盛んとなり、752年(天平勝宝4)大仏殿で大仏開眼供養が行われたころは、天平文化(てんぴょうぶんか)が頂点に達した。また、藤原氏によって勧請(かんじょう)された春日社は、興福寺と一体となって平安期以降大和に大きな勢力を振るった。

 都が長岡京へ遷(うつ)ると、平城京の大半は田園化するが、諸社寺は残され、奈良は社寺の町として栄える。東大寺は官寺として皇室の保護を受け、藤原氏の氏社、氏寺である春日社、興福寺は、藤原氏の保護のもとでその政治的躍進とともに勢力を伸ばした。東大寺、興福寺、元興(がんごう)寺の周囲には門前郷が生まれ、奈良の町のもとが形づくられていった。平安貴族の社寺詣(もう)でも盛んになる。しかし、1180年(治承4)平重衡(しげひら)の南都焼打ちにあい、東大寺、興福寺などは甚大な被害を受けたが、東大寺、興福寺の再建、門前郷の復興は早く、奈良の町には市(いち)、旅宿、商工座が発達し、15世紀までに人口も2万5000人を数え、京都に次ぐ日本第二の都市として繁栄する。鎌倉・室町時代には、興福寺は大和守護の立場を固め、大和一国を支配し荘園(しょうえん)を増やすが、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)、戦国乱世を経てしだいにその支配力を失っていく。三好長慶(みよしながよし)の臣松永久秀(ひさひで)が大和に侵入し、1560年(永禄3)眉間寺(みけんじ)山に多聞(たもん)城を築いて奈良をその支配下に置いた。その後、久秀と三好三人衆との合戦で東大寺大仏殿はふたたび兵火にかかるが、力を蓄えた町民の働きで奈良の被害は最小限に食い止められた。1595年(文禄4)の太閤(たいこう)検地で奈良町は800石に定まり、およそ100町からなる奈良町が成立する。

 江戸時代、奈良町は幕府直轄領として奈良奉行(ぶぎょう)の支配下に置かれた。すでに室町期から酒、墨、刀剣、団扇(うちわ)、火鉢、人形などが奈良の名産として知られるが、江戸初期に麻織物の奈良晒(ざらし)の生産が盛んとなった。それによって奈良町も栄えるが、それも中期以後は衰え、他の産業も墨を除いて活気を失い、奈良町は観光の町としての性格を強めていった。

 奈良奉行支配のほか、市域には旗本領、寺社領などがあり、東部の柳生の地は将軍家剣術師範柳生宗矩(むねのり)6000石の知行(ちぎょう)地で、1636年(寛永13)4000石加増され柳生藩が成立し、陣屋が置かれ明治維新まで続いた。

 明治維新後、奈良の諸大寺は廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)で打撃を受け、さらに上知(あげち)令によって知行地を取り上げられ、奈良町とともに沈滞する。1871年(明治4)廃藩置県で大和一円を管轄する奈良県が誕生し、奈良町に県庁が置かれたが、その後奈良県は堺(さかい)県に合併、1887年にようやく奈良県の再設置が認められ、県庁もふたたび奈良町に設置された。奈良町は県政の中心地として活気を取り戻し、1898年に待望の市制を施行することができた。その前後に、京都、大阪を結ぶ鉄道が通じ、とくに1914年(大正3)の大阪電気軌道(現、近鉄奈良線)の開通は、奈良市の近代化と発展に大きく貢献する。また、奈良公園の設置など観光施設の整備、充実によって奈良を訪れる観光客が増加した。第二次世界大戦後、戦禍を免れた奈良市は、奈良国際文化観光都市建設法の成立、古都保存法の制定などによって、観光都市として発展していく。

[菊地一郎]

交通

JRの関西本線(大和路線)、桜井線、近畿日本鉄道(近鉄)の奈良線、京都線、橿原線が通じる。近鉄の利用客が圧倒的に多く、奈良市民の足として近鉄の果たす役割は大きい。道路は南北方向の国道24号が京都、和歌山を結び、東西方向は国道369号が三重県松阪市へ通じ、阪奈道路(1981年無料化)が大阪と結ぶ。近年の道路交通激増に対応して、国道24号バイパス全通、大阪―名古屋を結ぶ自動車専用の名阪国道開通、外環状線(市道奈良阪南田原線(しどうならさかみなみたわらせん))開通、第二阪奈道路開通など道路の拡充が図られ、奈良交通のバス路線網の整備も進んでいる。

[菊地一郎]

産業

産業構造を産業別就業者数(2015)からみると、サービス業、卸売・小売業(飲食店を含む)、製造業の順で、農林水産業は第13位である。1960年には首位は農林水産業で、商業、工業、サービス業の順であった。サービス業を中心とする第三次産業が大幅に増加し、奈良市が消費都市、観光都市としての性格を一段と強めていることを示している。1968年に大型スーパーマーケットのニチイ(後、奈良ビブレ、2013年1月閉店)、翌年ダイエー(2005年11月閉店)が市の中心部に開店し、以後西部の住宅開発地区を中心に大型スーパーマーケットの進出が目だった。市の販売額は急増したが、購買者の買い物動向は依然として大阪への依存度が高く、高級品や贈答品は大阪、京都へ買いに行く傾向が強い。工業はやや停滞ぎみである。業種別では食料品、金属製品が多く、プラスチック製品製造、繊維工業、印刷・同関連業が続く(2016)。事業所は従業者10人以下の小零細規模が約50%を占める(2012)。2012年の奈良市の製造品出荷額は約1683億円で、県全体の約9.6%、大和郡山(やまとこおりやま)市に遠く及ばない。市の工業は、規模は零細で生産額は少ないが、全国生産の約90%を占める製墨など古くからの伝統工業に特色がみられる。

 奈良の墨は、室町時代に興福寺二諦坊(にていぼう)で灯明(とうみょう)の煤(すす)から油煙墨をつくったのが始まりと伝え、江戸時代にもっとも盛んで、江戸末期には54軒の墨屋があったという。いまも手間仕事でつくられるものが多い。毛筆も十数種の獣毛を用い、12、3工程をかけて製品となる。約300年の歴史がある一刀彫は奈良彫、奈良人形ともよばれ、江戸時代に始まった。ヒノキ、クスノキなどを材料に、彩色の美しい羽衣(はごろも)、高砂(たかさご)など能楽に題材をとった作品が多く、能発祥の地にふさわしい伝統工業である。西ノ京五条山(赤膚(あかはだ)山)一帯でつくられる赤膚焼も江戸時代からの伝統ある焼物である。このほか、神鹿(しんろく)を透彫りにした奈良団扇、奈良絵を描いた奈良扇子、螺鈿(らでん)を散らした奈良漆器、古楽面などの手工業がある。奈良は古くから良酒の産地であるが、酒粕(さけかす)にウリ、キュウリなどを漬け込んだ奈良漬けも奈良名産の一つとして知られる。

 隣接町村の合併によって奈良市は広い農村地帯をもっている。2015年現在、農家数3216戸、耕地面積約2800ヘクタール。水田が大部分を占め、樹園地、畑地と続く。兼業農家が多く、0.5ヘクタール以下の零細農家は約30%。近年、近郊農業の色彩が強まり、平坦(へいたん)地ではビニルハウスによる野菜の促成栽培やイチゴ栽培が盛んである。また、東部の高原山間部では野菜の抑制栽培とともに、茶の栽培が盛んで、シイタケ栽培も行われる。

[菊地一郎]

文化・観光

京都とともに太平洋戦争の戦禍を免れた奈良市は、世界に誇る天平文化の遺産をはじめ多くの文化遺産を残している。国民の生活水準がほぼ戦前に戻った1953年に奈良を訪れた観光客は500万人を超え、その後増加の一途をたどり、平城遷都1300年祭が開催された2010年には1842万人に達した。観光客のうち日帰り客が89%を占め、観光客の割合は、一般客、修学旅行客、外国人客の順である。

 奈良市のもつ文化的・観光的価値を将来に生かす目的で1950年奈良国際文化観光都市建設法が施行された。また、同年制定された文化財保護法により国の指定を受けている文化財、史跡、天然記念物、名勝の数は789件、県全体のほぼ半数を占める。とくに建築物、美術工芸品で重要文化財に指定されているものは742件、うち国宝は132件を数える(2017年9月)。さらに1998年には市内の8か所が「古都奈良の文化財」として世界遺産(文化遺産)に登録された。

 一方、1960年以降、地域開発の急進展は、文化遺産に付随する自然景観などを破壊するおそれがでてきたので、1966年に制定された古都保存法に基づいて春日山、平城宮跡など六つの歴史的風土特別保存地区と、春日山、佐保山など六つの風致地区を指定し、地区内の開発を規制することになった。

 市内観光第一の見どころは市街地東部に広がる奈良公園(国の名勝)で、若草山、春日山、御蓋山、高円(たかまど)山や、その西麓一帯を含み、杉木立の間、飛火野(とびひの)、浅茅(あさじ)ヶ原の芝生を1200頭を超えるシカ(国の天然記念物)の群れが遊ぶ。大仏殿、法華(ほっけ)堂など国宝建造物の多い東大寺、阿修羅(あしゅら)像(国宝)など天平彫刻を所蔵する興福寺のほか、春日大社、手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)、正倉院、奈良国立博物館、萬葉植物園などの建物や施設、興福寺五重塔(国宝)を映す猿沢池(さるさわのいけ)、荒池(あらいけ)、鷺池(さぎいけ)なども点在する。春日山原始林は特別天然記念物に、春日神社境内のナギ樹林は国の天然記念物に指定されている。

 市街地の北部、京都へ通じる街道に沿って、聖徳太子草創と伝えられる般若寺(はんにゃじ)がある。三層大石塔の下に『大般若経』を納めたことが寺名のおこりといい、楼門(国宝、鎌倉時代)などを残す。北山十八間戸(国史跡)は、僧忍性(にんしょう)が癩(らい)患者を救済するためにつくったもの。東大寺転害(てがい)門(国宝、奈良時代)から西に延びる一条大路(佐保路)沿いには、松永久秀が築いた多聞城跡、興福(こんぶ)院、阿保(あぼ)親王・在原業平(ありわらのなりひら)父子が住んだ不退(ふたい)寺、十一面観音(かんのん)(国宝)で名高い尼寺の法華寺、光明(こうみょう)皇后建立の海竜王寺などがある。周囲には陵墓参考地のウワナベ古墳、コナベ古墳、元正(げんしょう)、聖武(しょうむ)、孝謙(こうけん)天皇などの御陵が多い。佐保路をさらに西進すると、発掘調査の進む平城宮跡(特別史跡)があり北西端の奈良文化財研究所の平城宮跡資料館では出土品を展示する。

 平城京の右京にあたる西ノ京には、南都七大寺の一つ西大寺(さいだいじ)、創建当時の東塔(国宝、奈良時代)や金堂の薬師三尊、東院堂の聖(しょう)観音(ともに国宝)で知られる薬師寺、天平美術の建築中、最大最美といわれる金堂(国宝)、鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう)(国宝)などを蔵する唐招提寺(とうしょうだいじ)がある。西大寺の北の秋篠(あきしの)寺は本堂(国宝、鎌倉時代)に安置されている天平末期の伎芸天(ぎげいてん)立像で名高い。西大寺の南、菅原氏発祥の地菅原には、721年(養老5)創建の喜光(きこう)寺、菅原道真(みちざね)を祀(まつ)る菅原神社がある。

 奈良市街地の中院(ちゅういん)町は、いまも軒の低い古風な家並みを残すが、その一隅に南都七大寺の一つとして繁栄した元興寺(がんごうじ)の僧坊極楽坊本堂(国宝、鎌倉時代)があり、行基葺(ぎょうきぶ)きとよばれる屋根瓦(がわら)の重なりが美しい。十輪院(じゅうりんいん)は元興寺の別院で、本堂(国宝、鎌倉時代)、南門などを残している。奈良公園の南の高畑(たかばたけ)町には新薬師寺がある。本堂(国宝、鎌倉時代)には十二神将(1体を除いて国宝)を安置する。新薬師寺の南東方、高円山麓には白毫(びゃくごう)寺がある。高円山などの山裾(やますそ)には三輪山(みわやま)(桜井市)へ至る山辺(やまのべ)の道が通じ、一帯は大和青垣国定公園に指定されている。山辺の道に沿って、尼寺円照(えんしょう)寺(山村(やまむら)御殿)、その東方には正暦(しょうりゃく)寺があり、両寺とも閑雅なたたずまいである。

 高円山と春日山の間を流れる能登(のと)川に沿って柳生への道がある。滝坂(たきさか)道、柳生街道といい、春日奥山の石切峠付近には春日山石窟(せっくつ)仏、地獄谷石窟仏(ともに国史跡)がある。柳生には忍辱(にんにく)山円成寺(えんじょうじ)があり、鎌倉時代の白山堂、春日堂(ともに国宝)や運慶(うんけい)作大日如来(だいにちにょらい)坐像(国宝)、国名勝の庭園がある。芳徳寺は柳生宗矩が建立した柳生家の菩提寺(ぼだいじ)である。このほか、市内には明治維新で伽藍(がらん)のすべてを失った大安寺(旧境内附石橋瓦窯跡は国史跡)、生駒市に近い富雄には霊山(りょうざん)寺、1万本の梅が植えられた月瀬(つきがせ)梅林(国名勝)、都祁(つげ)の吐山(はやま)スズラン群落(国天然記念物)がある。民家建築では元興寺町の江戸中期の商家藤岡家住宅、また明治建築の奈良国立博物館本館(旧、帝国奈良博物館本館)、旧奈良県物産陳列所が国の重要文化財に指定されている。文化施設には奈良県立美術館、寧楽美術館、大和文華館、入江泰吉記念奈良市写真美術館、なら100年会館、奈良市美術館などがある。

 年中行事は四季を通じて多彩に繰り広げられる。1月の若草山の山焼きに始まり、3月の東大寺二月堂修二会(しゅにえ)(御水取)、春日大社春日祭(申祭(さるまつり))、5月興福寺薪能(たきぎのう)、8月奈良大文字送り火、春日大社万灯籠(まんとうろう)、仲秋名月の日に猿沢池のほとりで開かれる采女(うねめ)神社采女祭、10月初旬の鹿(しか)の角切りなどよく知られ、12月の春日若宮おん祭で締めくくる。

[菊地一郎]

『永島福太郎著『奈良』(1963・吉川弘文館)』『奈良市史編集審議会編『奈良市史』全14冊(1968~1995・吉川弘文館)』『木村博一著『奈良のあゆみ』(1984・奈良市)』『『奈良市の仏像』(1987・奈良市)』『『奈良市の絵画』(1995・奈良市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「奈良」の意味・わかりやすい解説

奈良[県] (なら)

基本情報
面積=3691.09km2(全国40位) 
人口(2010)=140万0728人(全国29位) 
人口密度(2010)=379.5人/km2(全国14位) 
市町村(2011.10)=12市15町12村 
県庁所在地=奈良市(人口=36万6591人) 
県花=ナラノヤエザクラ 
県木=スギ 
県鳥=コマドリ

近畿地方中央部に位置し,三重県,和歌山県,京都府,大阪府に囲まれた内陸県。

県域はかつての大和国全域にあたる。江戸時代末期には郡山藩をはじめ,高取,小泉,櫛羅(くしら),芝村,柳生,柳本の各藩と,奈良をはじめとする天領,興福寺,春日大社などの寺社領が入り組んでいた。1868年(明治1)大和鎮台が置かれて旧天領を管轄,その後大和鎮撫総督府,奈良県,奈良府と変わったが,翌年奈良県に戻され,また68年には田原本(たわらもと)藩が立藩し,70年には吉野・宇智両郡を管轄する五条県が置かれた。71年廃藩置県によって藩はそれぞれ県となったが,同年これら10県は統合され,大和全域を管轄する奈良県が成立した。しかし76年堺県(和泉)に併合されていったん消滅,さらに81年には堺県の廃県に伴い大阪府に併合されたが,87年大和地方が分離して奈良県が再置され,現在に至っている。

縄文時代の遺跡としては,まず木津川水系で早期~後期の集落遺跡である大川(おおこ)遺跡(山辺郡山添村),大和川水系では縄文後・晩期および弥生~平安時代の集落遺跡の橿原(かしはら)遺跡(橿原市)と中期末~後期前半の天理式土器の標式遺跡である布留(ふる)遺跡(天理市),吉野川水系では縄文~奈良時代の複合遺跡である宮滝遺跡(吉野郡吉野町)と晩期の集落遺跡である丹治(たんじ)遺跡(吉野町)などがある。

 弥生時代の遺跡では唐古(からこ)遺跡(磯城郡田原本町)が著名。奈良盆地中央部にある集落遺跡で,畿内弥生式土器の編年研究の基準となった。纏向(まきむく)遺跡(桜井市)は弥生~平安時代の集落址だが,ことに弥生~古墳時代の土器の変遷や古墳の出現を考えるうえで重要な遺跡である。この近くにある箸墓(はしはか)古墳(桜井市)は全長278mの前方後円墳で三輪山麓の大型前方後円墳中最古とされ,ここの前方部から出土した壺は桜井茶臼山古墳(桜井市)の後円部頂上に方形に配置されていた有孔のそれに類似する。いずれも代表的な前期古墳。柳本古墳群(天理市)は時期的にこれに次ぎ,〈景行陵〉〈崇神陵〉など約35の前方後円墳を含む。前期中葉を中心とし,初期大和政権の首長墓を含むと考えられる重要な古墳群である。前期後半の前方後円墳佐味田宝塚古墳(北葛城郡河合町)は,中期の巣山古墳(広陵町)などとともに馬見(うまみ)古墳群を形成する。新沢千塚(にいざわせんづか)(橿原市)は5世紀を中心とする大古墳群。佐紀(さき)古墳群(奈良市)は〈日葉酢媛(ひはすひめ)陵〉や〈神功皇后陵〉などを含み,前期末葉に中心をもつ西群と,ウワナベ古墳や〈磐之媛(いわのひめ)陵〉などを含む中期を中心とする東群からなる。金錯銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳(天理市)や,方墳の五条猫塚(ねこづか)古墳(五条市),前方後円墳の宮山古墳(御所市)も著名である。見勢丸山(みせまるやま)古墳(橿原市)は全長318mと前方後円墳としては県内最大であるばかりでなく,後期のそれとしては日本最大でもある。全長26.2mの横穴式石室も日本で最大規模。八角形墳の牽牛子塚(けごしづか)古墳,壁画で有名な高松塚古墳,それにマルコ山古墳などはいずれも高市郡明日香村にある7世紀代の終末期古墳。同じ明日香村の石舞台古墳は巨大石室が露出し,方墳または上円下方墳の可能性が強い。またやはり明日香村の鬼の俎(まないた),鬼の厠(かわや)などの石造物もこの時期の石槨である。三輪山祭祀遺跡(桜井市)は三輪山を対象とする5~6世紀を中心とする祭祀遺跡。

 歴史時代では飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)址(明日香村),藤原京址(橿原市),平城京址(奈良市)などの宮殿址や都城址,飛鳥寺址(明日香村),山田寺址(桜井市),川原寺(かわらでら)址(明日香村)などの寺院址など重要な遺跡は枚挙にいとまがない。太安麻呂墓(奈良市)は墓誌の出土で知られ,金峰山(きんぷせん)経塚(吉野郡天川村)は平安~鎌倉時代にわたる経塚群。
大和国
執筆者:

奈良県の地形は,ほぼ中央を東西に走る中央構造線によって北半部の内帯と南半部の外帯に分けられる。北半部が主として平地と丘陵性の山地からなるのに対して,南半部は壮年山地からなるという対照をみせる。北半部の中央には地溝性の奈良盆地が開け,周辺には東に笠置山地(大和高原),西に生駒山地,金剛山地など,主として花コウ岩からなる標高400~600m程度の丘陵性の山地が南北に連なる。奈良盆地は日本の古代史の主舞台で,6世紀末からの100余年間,南東部の飛鳥・藤原地区に初期の宮都が置かれ,続いて北部の現在の奈良市に710年(和銅3)平城京が営まれ約70年間繁栄した。盆地には京都と結ぶ南北方向の道のほか難波や中京方面と結ぶ東西方向の道も発達し,古代からその交流は盛んであった。一方,南半部は紀伊山地中北部の吉野山地で,標高1400~2000mの山地と深い谷からなり周囲からの隔絶性が高く,最高部の大峰山周辺は中世以来西日本の修験道の根本道場として知られる。気候的にみても南北の対照は著しい。北半部のとくに奈良盆地は温暖寡雨の瀬戸内式気候に属しているが,海洋から離れているため寒暑の差の激しい内陸性気候を示す。夏の平均気温は27~28℃,冬は3~4℃で年較差が大きく,降水量は1400mm内外と少ない。一方,南半部の吉野山地は山岳気候であり,夏は20~24℃,冬は0~3℃と冷涼で,降水量は2000~4000mm以上,大台ヶ原山南東斜面はことに3500~5000mmの多雨地域として知られる。

 このような地形上,気候上の南北の対照は,植生などの自然的な面はもとより,産業や開発,さらに民家などの人文的景観においても大きな影響を与えてきた。寡雨の北半部には大和川などが流れるが,流量が少ないためかつては1万以上の灌漑用の溜池や,多くの横井戸,かくし井戸がみられた。雨の多い南半部では,吉野川上流に津風呂ダム(1962完成),大迫ダム(1973完成)をつくって貯水し,灌漑期に導水トンネル(1956完成)を通して奈良盆地へ引水する吉野川分水事業が進められ,1984年までに奈良盆地のほぼ全域に灌漑用水がゆきわたるようになった。また民家の様式においても対照的で,奈良盆地では草屋根の両切妻を白壁のしっくいで塗りかため,冬の乾燥期の火災防止の意図がみられる大和棟が特徴的であったのに対し,吉野山地では急な傾斜面に石垣を築き,表からは1階,裏からは2階,3階とみえるような吉野造が特徴的である。北と南の対照はさらに奈良盆地を中心とする農業地域と吉野山地の林業地域,人口の過密と過疎,交通網の整備と未整備などの点においても指摘することができる。

近世の奈良盆地には奈良,郡山,八木,三輪などの都市が繁栄していたが,明治維新の際,神仏分離と廃仏毀釈(奈良),城郭廃止(郡山)などによって衰退した。その後,奈良博覧会社の設立,奈良公園の開設などの事業が進められ,奈良は観光地として復興していった。1890年関西本線の湊町~奈良間が開通して大阪方面と結ばれ,99年までには和歌山線,桜井線が全通して奈良盆地の主要都市を連ねる環状線が完成した。明治末以降,電気鉄道の敷設が盛んとなり,1914年生駒トンネルが完成して近鉄奈良線が開通したのをはじめ,昭和初期までに同橿原(かしはら)線,南大阪線,吉野線などが開通した。第2次大戦前まで農林業と墨,筆などの伝統工業のほかに目だった産業のなかった奈良県の人口は50万人台にとどまっていた。1950年代に具体化された吉野川分水事業の進展によって奈良盆地の水不足は緩和され,かつての水田二毛作地域は野菜,果樹,花卉などの近郊農業地域に急速に変わった。一方,60年代以降都市化,工場地化が進んで耕地が減少し,県全体で兼業農家はすでに1981年には約90%にまで増加し,第2種兼業農家は全農家数の約76%を占めている(1995)。関西本線の複線化や高速道路の建設など交通体系の整備に伴って県北部で宅地開発が始まり,奈良盆地全域,生駒山地,金剛山山麓部などに大規模な新興住宅地の建設が進んだ。人口は1975年に100万人を超え,95年には143万人にも達している。90-95年の人口増加率4.0%は埼玉県の5.5%,滋賀県の5.3%,千葉県の4.4%,沖縄県の4.2%に次ぐ高率で,奈良盆地とその周辺の景観は著しく変わっている。

奈良県の産業には古い伝統をもつ墨,筆,漆器,奈良人形,赤膚(あかはだ)焼など,社寺の器物や仏師の余業にかかわるものが多く,現在でも墨は全国の約9割,筆は約4割の産額を上げている。また桜井市一帯でつくられている三輪そうめんは奈良盆地南東部の地形と気候条件に適しており,1000年以上の歴史をもっている。

 ほかにも大和の風土にとけこんだ物産は多く,しかもその大部分が現在まで姿を変えつつも継承されている。役行者(えんのぎようじや)が作ったとされる陀羅尼助(だらにすけ)の系統を引く製薬業は,御所(ごせ)市,高取町で盛んであり,単なる配置薬を脱して近代的製薬会社に成長している例が多い。また吉野山地の杉のみがき丸太や杉,ヒノキ製のはし,下市町の割りばし,生駒市の茶筅,奈良市の奈良酒,奈良漬,大和郡山市のキンギョ養殖なども全国的に名を知られている。近世に盆地内で栽培された麻,ワタから発達した奈良晒(さらし)や大和絣(かすり),奈良蚊帳(かや)などの麻・綿織物業は,明治30年代に本格的に工業化が進んで,大和郡山市や大和高田市の綿糸紡績,メリヤス工業,北葛城郡の靴下工業,奈良市の布団工業などに転化している。また1963年に始まった県の新総合開発計画が進展するにしたがい,大和郡山市などに機械,金属,電気機器などからなる工業団地の進出が目だつ。県の製造品出荷額の割合は一般機械が23%,電気機器が17%など(1995)である。

奈良県は中央構造線を境に北部と南部に二分されるが,さらに自然条件や歴史,産業,商圏の違いも考えあわせて北部を国中(くんなか)(奈良盆地),西山中(にしさんちゆう)(生駒・金剛山地),東山中(笠置山地),奥(宇陀・竜門山地)に四分し,これに南部の南山(なんざん)(吉野山地)を合わせて5地域とする。

(1)国中 奈良盆地のほぼ全域にあたり,面積は県域の約1/10にすぎないが,古代以来大和国随一の平地として中心的な地位を占めてきたため,現在もこの称がある。県庁所在地の奈良市のほか,橿原市,大和郡山市,天理市,桜井市および田原本町など県の主要都市の大部分の面積が含まれる。四周を丘陵と山地に囲まれ,〈青垣 山ごもれる〉の表現がふさわしい。盆地は寡雨地域にありながら,河川の堆積作用が現在も続いているため洪水多発の地域でもある。県の交通網はこの地域に著しく集中し,人口密度も他地域に比べて圧倒的に高く,農業,工業,商業などの面でも県の中心地域をなす。また平城宮址などの史跡や古墳,東大寺,春日大社などの古社寺の集中が著しく,京都と並んで四季を通じて観光客が多い。

(2)西山中 奈良盆地西側の山地部にあたり,大和川によって北の生駒山地と南の金剛山地に分けられる。生駒市全域,御所市の大部分,奈良市,大和郡山市,大和高田市,五条市,香芝市,葛城市の各一部のほか周辺の町村を含む。両山地とも大阪の市場に近いため施設園芸による花卉や野菜栽培が行われているが,1960年以降の宅地開発の進展に伴って兼業農家や離農が著しく増加している。人口も1990-95年の間に大和高田市8.2%,生駒市7.2%,香芝市7.4%とかなりの伸びをみせている。山地の尾根筋は金剛生駒国定公園に指定されている。

(3)東山中 奈良盆地の東側,大和高原とも呼ばれる笠置山地の範囲で,奈良・天理・桜井各市の東部,山辺郡の全域および宇陀市の一部が含まれる。小起伏の丘陵と谷がひろがり,水稲,茶の栽培や野菜の抑制栽培が行われる。この地域の商圏は奈良・天理・桜井各市のほか三重県の上野市(現,伊賀市),名張市にも属している。

(4)奥 笠置山地南側の宇陀山地とその西に続く竜門山地からなり,宇陀市の一部と宇陀郡の全域,高市郡,吉野郡の一部の町村が含まれる。県北半部の中では山村的性格の強い地域で,林業や茶,野菜の抑制栽培などが行われ,木材の集散地である桜井市の商圏に属する範囲が広い。名張街道の周辺は室生赤目青山国定公園に指定されている。

(5)南山 吉野山地の範囲にあたり,五条市の大半と吉野郡のほぼ全域が含まれる。細分すれば口吉野地区(吉野川流域),奥吉野西部地区(十津川流域),奥吉野東部地域(北山川流域)に分けられる。〈近畿の屋根〉と呼ばれるのにふさわしく深いV字谷の卓越する壮年期の山地が広がる。森林の生育に適した自然条件にあり,近世以来良質の吉野材が商品として注目され,林業地域として知られる。木材はかつては吉野川,北山川,十津川で流送されたが,明治以降の林道の開設と整備,1950年代以降の電源開発によるダム建設の進展によりトラック輸送に代わった。また十津川流域などではダム築造によって耕地,宅地などが水没し,隔絶性の強かった山村地域が大きく変わりつつある。大台ヶ原山,大峰山一帯は吉野熊野国立公園,西端の護摩壇山周辺は高野竜神国定公園に指定されている。
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奈良[市] (なら)

奈良県最北部にある県庁所在都市,2005年4月旧奈良市が月ヶ瀬村(つきがせ)村,都祁(つげ)村を編入して成立した。人口36万6591(2010)。

奈良市北東部の旧村。旧添上郡所属。人口1962(2000)。標高200~300mの大和高原の一角を占め,名張川の峡谷部に位置する。農業は茶の栽培を中心として,水稲,シイタケなどの複合経営で,特に茶は関西でも有数の生産地である。また梅の名所として広く知られ,江戸後期に頼山陽,斎藤拙堂などの文人が訪れたことで有名となり,現在も梅樹約6000本を有する月ヶ瀬梅林(名)には多くの観光客が集まる。ウメの加工も盛んで,古くは京紅の染料となる烏梅(うばい)を産した。1968年高山ダムが建設され,名張川をせき止めてできた月ヶ瀬湖は釣りの名所となっている。

奈良市南東部の旧村。旧山辺(やまのべ)郡所属。人口6797(2000)。大和高原の東部を占め,南北に長い村域の大半は山林である。中央部を名阪国道が東西に走り,針インターチェンジが設置されている。主産業は稲作と茶栽培を中心とする農業で,近年は茶栽培が急速に伸びている。針インターチェンジ付近には茶の流通センターが設置され,流通の近代化も進んでいる。村内には,重要文化財の都祁水分(つげみくまり)神社本殿,来迎寺宝塔などの文化遺産が多く,南部には天然記念物の吐山(はやま)スズラン群落もある。かつては都祁と記していたが,1992年に都祁村と名称変更。
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都介,都家,闘鶏などとも書き,奈良県山辺郡の中心をなす都祁盆地とその周辺の高原一帯をさした。《日本書紀》には,允恭天皇のころ,この地域を支配していた豪族として〈闘鶏国造〉について記している。律令制の施行とともに,この地は山辺郡都介郷とされた。大和国の東縁で,伊賀国に入る交通の要所であり,奈良時代の初期に〈都祁之道〉が開かれた。これはのち伊勢街道と呼ばれた。式内社として,都祁水分神社,都祁山口神社がある。前者の東南,甲岡(こうおか)の南斜面から,小治田(おはりだ)安万侶という奈良時代初期の中流貴族の墓が発見されたが,その墓誌にはこの地を〈大倭国山辺郡都家郷郡里崗安墓〉と記している。なお,この都祁には氷室(ひむろ)があったことが《日本書紀》などに見えるが,現在の天理市福住町にある氷室神社背後の地がそれに比定されている。中世には興福寺の勢力が及び,同寺領荘園が多く設定され,〈衆徒〉〈国民〉と称された豪族がこの地域を支配していた。
執筆者:

奈良市の北東部・南東部を除く旧市で県庁所在都市。1898年市制。人口36万6185(2000)。市域は奈良盆地北部と周辺の丘陵地帯からなり,旧市街地と奈良公園地区は春日断層崖下の台地とその下部の緩斜面上に位置する。都市としては8世紀初めに建設された平城京に起源をもつが,その後東大寺,興福寺,春日大社などの社寺が皇室,貴族の保護をうけて繁栄し,門前町が発展して室町時代末ごろまでに旧市街地の原形が整えられた。近世には大和もうでの風習が一般化して参拝を兼ねた観光客が増加し,筆,墨,奈良漬,奈良人形などをつくる産業も発展した。明治以降は県庁所在都市として県の政治,経済,文化の中心地となったが,奈良公園が開設され,関西本線や近鉄各線が昭和初期までに開通して,自然美と古い文化が融合した観光都市として著しく発展した。

 産業別人口構成(1995)では第3次産業人口が72%,第2次産業人口は25%を占め,消費都市的性格が強い。工業は近世以来盛んとなったもののうち現在でも墨,筆は全国に占める割合が大きく,ほかに奈良塗,うちわ,扇子,赤膚(あかはだ)焼,乾漆彫刻,新しい素材による模写面,奈良晒(さらし)の伝統をつぐ麻手織物,秋篠(あきしの)手織,春日杉細工など,いずれも古い歴史とその風土の中ではぐくまれてきたものが多い。製造品出荷額(1995)は県の10%を占めるにすぎず,近代工業はふるわないが,旧市街地南部の京終(きようばて),肘塚(かいのづか)付近には零細工場が多く,その西部の西九条工業団地,佐保・都跡(みやと)地区には比較的規模の大きい工場が多い。おもな業種は,木材・木製品,食品,繊維製品,機械器具,化学製品などである。第1次産業人口は2%(1995)にすぎないが,平地部の農村地帯では米作を中心にイチゴ,野菜類,東部の笠置山地(大和高原)の緩斜面では茶をはじめキュウリ,シイタケなどが栽培される。

 奈良公園の西側台地下部の旧市街地には三条通り,餅飯殿(もちいどの),東向(ひがしむき)などの商店街が発達している。しかし,大都市大阪に近いことや県北にかたよっていることもあって,主として地元の人々や観光客を相手にする商店が多く,その商圏は県都の商店街としては狭い。観光地としては1950年国際文化観光都市に指定され,56年には古都保存法が適用されて発展し,1950~60年代にかけて若草山,高円(たかまど)山の両ドライブウェーが開設され,三笠温泉(炭酸泉,15℃),ドリームランド(2006年閉園)など新しい観光施設が建設された。観光の中心は東大寺,興福寺,春日大社をはじめ,奈良国立博物館,万葉植物園,県立美術館などが設けられた奈良公園,若草山一帯である。それらを取り囲むように原始林に覆われた春日山高円山などが〈青垣〉をなし,大和青垣国定公園の核心部となっている。その他の観光地としては,薬師寺,唐招提寺,垂仁天皇陵のある西ノ京一帯,平城宮址,西大寺,法華寺,秋篠寺や,あやめ池遊園地のある西大寺一帯などがあげられる。1月15日の若草山の山焼き,3月の東大寺二月堂の御水取,8月15日の春日大社の万灯籠などの年中行事には全国から観光客が集まる。なお1998年に〈古都奈良の文化財〉が世界文化遺産に登録された。

 JR奈良駅は関西本線,桜井線が集中し,近鉄奈良駅は近鉄奈良線のターミナル駅として乗降客が多く,両駅とも奈良県内各地へのバス交通の起点ともなっている。近鉄の奈良線と京都線,橿原(かしはら)線が交差する西方の近鉄大和西大寺駅周辺は宅地化が進み,駅周辺は活気がある。1960年代以降大阪都市圏の拡大につれて,大阪都心まで電車で30分程度で結ばれる奈良市西部の丘陵地帯は,近鉄奈良線学園前駅を中心に住宅地化が進み,北部の奈良山丘陵から京都府側にかけては大規模な平城ニュータウンや学研都市の建設が進められるなど,大阪市のベッドタウン化が顕著である。
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奈良は平城,寧楽,諾楽などと表記されるが,いずれもナラのあて字であり,平(ならす)がその地名の起りだといわれる。このナラの地に平城京が710年(和銅3)にひらかれ,東の春日・葛尾(若草)山麓の春日野に元興寺,興福寺,東大寺および春日大社が建立された。784年(延暦3)の長岡遷都によって平城京内は田園となったが,春日野の社寺は残存し,大社・大寺として遇され,大荘園領主となって繁栄した。それぞれ堂塔のほか,多数の社人や寺人をかかえており,四壁(境内)を越えて近傍の占有を競った。ここでは俗生活が許されたのでサト(里,郷)といわれるが,諸郷は平城古京の条坊制に沿って整然たる区画の街地に発達して社寺の都の観を呈し,王朝貴族はこれを南京,南都と呼んだ。やがて奈良が正称とされ,南都(南京)は雅称となる。

 1180年(治承4)平氏の南都焼討ちにあって諸郷の発達は頓挫したが,全盛の社寺の復興が進み,その工事に工匠,技芸の徒が多数来住したため,街地は倍旧の発展を示し,南都七郷(興福寺別当の直領で七つの親郷),東大寺郷,元興寺郷,春日社家郷,興福寺両門跡郷(両門跡とは一乗院大乗院のことで,それぞれ多数の郷を擁する)が成立,おりから商工業も興って都市化が進んだ。一乗院門跡が北市,次いで大乗院門跡が南市を開いて14世紀には南北両市が栄えた(なお1414年(応永21)に興福寺六方衆が中市を開いた。また東大寺郷に転害市が見え,都市化がわかる)。市には商工人が座衆(市座)として参加するが,なお商工業の座が続出している。漸次,社人・寺人のほか自立民が増加して郷民が成立するが,農民などは周辺部に移った。中世の奈良領は,東は春日山とその山麓の高畠(白毫(びやくごう)寺は領外),北は奈良坂,西は佐保田(法華寺は領外),南は岩井川(大安寺は領外)とされ,社寺周辺の門前郷の周辺を農村郷が取り巻くかたちとなった。ちなみに門前郷も畑地や園地をかなり存していた。これも社寺の末社や子院の門前郷として街地が生じたためであり,郷名(町名)に社寺名や寺門名が多いいわれである。当代,大和守護の興福寺は奈良においても強権をふるい,東大寺郷などにもその司法警察権を行使した。この警察権の行使に起用されたのが衆徒だが,1428年(正長1)正長の土一揆に対して徳政令を発するなど下剋上の勢いを示した。同じく郷民も商工業の発達によって成長して郷民自治を要求した。南都八景などが喧伝されて,旅宿が発達,酒のほか人形,墨がみやげ物となった。

 16世紀,戦国乱世となって他国武将の奈良進駐などに商工人(町人)の多い南都七郷と東大寺郷の郷民らは結盟対処している。いぜん社寺の領主境域はくずれず,郷民自治連合体の〈奈良惣中〉(奈良町の前身)が成立するのは,松永久秀が奈良に進駐し,多聞山城を築いた1560年(永禄3)直後のことである。まもなく奈良惣中(800石)は織田信長や豊臣秀吉の直領となって社寺から離れた。とくに豊臣秀長が大和郡山城主となり,その城下町振興のため奈良の酒造や商業を弾圧したのが有名である。95年(文禄4)太閤検地によって奈良惣中が奈良町となり,そして社寺郷と農村郷(奈良廻り八村)が分離した。

 1604年(慶長9)には江戸幕府の国奉行大久保長安によって〈町切り〉が完了,奈良町の各町が確立,惣年寄6名が選出され,奈良町(100町)が名実ともに成立した。なお,奈良代官屋敷が椿井町から大豆山町北に移されたが,13年奈良奉行所とされ,奈良奉行に中坊秀政が任ぜられた。このおり,徳川家康は特産物奈良晒を保護,その検印料を惣年寄に与えて町勢を振興させたが,次いで徳川家光は34年(寛永11)に奈良町の地子(1000石)を免許した。ようやく観光客も増加して近世奈良(奈良町125町,社寺領68町および奈良廻り八村)が確立した(人口約3万)。64年(寛文4)大和の天領を支配する南都代官所が中御門町に置かれたが,奈良奉行の奈良支配はゆるがない。ちなみに奈良町は天領であるが,いわば社寺の城下町であり,それを奈良奉行が支配する形である(社人・寺人は御用商工人を含め約1万)。92年(元禄5)東大寺大仏修造開眼,1709年(宝永6)の大仏殿復興供養などは奈良町の全盛を示すものだった。この元禄時代,奈良晒の生産は90万反に達し,酒,筆,墨,人形,うちわ,蚊張などの伝統産業も知られる。しかし,17年(享保2)興福寺が焼亡,その復興が遅々としたのが例証であるが,奈良は活気を失った。

 明治維新,神仏分離の嵐で社寺は荒廃,2万石領主の興福寺が廃寺となるなどで奈良町はさびれたが,1871年(明治4)大和一国を所管する奈良県が成立,奈良町が県都となったのに救われた。なお興福寺旧境内地に奈良公園を創設したのに始まり,社寺の修復や年中行事の復興が進んだので奈良町もよみがえった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「奈良」の解説

奈良
なら

奈良県北端に位置する。県庁所在地。地名は,「日本書紀」崇神紀の「草木をふみならす」によるとの説や,朝鮮語源説などがある。710年(和銅3)から74年間,平城京として栄えたのち衰えるが,旧外京の地には東大寺・興福寺などの門前町が形成され,中世以降,商業・工業(筆墨など)・芸能が発達する。江戸時代は奈良奉行をおいて幕府直轄。明治期以降,奈良公園や平城宮跡の整備が進み,多くの文化財の存在とともに,一大観光地となった。1898年(明治31)市制施行。元興寺極楽坊以南の地域で「ならまち」づくりも行われ,西部に大住宅地域が発展。

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旺文社日本史事典 三訂版 「奈良」の解説

奈良
なら

奈良県最北部にある県庁所在地。710年から784年までの都
奈良時代には乃楽・寧楽・平城などと書いたが平安時代に奈良の字に固定。元明天皇の平城京造営に始まり,以後7代74年間首都として繁栄した。784年,山背国長岡京に遷都後,荒廃して田畑と化したが,のち東大寺・興福寺・春日神社の門前町として発達。中世には興福寺・東大寺の支配下にあって商工業が発達し,市がたち,興福寺一乗院・大乗院や東大寺・春日神社を本所とする多くの座が結成された。江戸時代には天領となり奈良奉行が置かれた。1898年市制施行。国際的観光都市として発展。

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世界大百科事典(旧版)内の奈良の言及

【都市】より

国府都城【鬼頭 清明】
【中世】
 日本の中世都市に関する古典的研究は,西欧の古典的中世都市論の影響の下に,古代都市を統治機能中心にみるのと対の形で,経済すなわち商業手工業中心に自治の達成を規準としながら論じられてきた。したがって中世前期は古代の残影という視角で三都(京都奈良鎌倉)の変貌,形成をとらえ,商業・手工業の発達する中世後期に及んで地方を含めて多様な中世都市が一律に自治的要素をもって本格的に成立するとみる傾向が強かった。さらに三都や城下町門前町寺内町港町等々の多様な地方都市の質的差異や,構造的連関まで論じられることは少なかった。…

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