佐喜浜村(読み)さきのはまむら

日本歴史地名大系 「佐喜浜村」の解説

佐喜浜村
さきのはまむら

[現在地名]室戸市佐喜浜さきはま

野根のね(九八三・四メートル)南東麓からほぼ南流する佐喜浜川流域を占める広域の村で、北は野根山の山地を境に野根郷の村々(現安芸郡東洋町)、南東は太平洋、西は山地を境に羽根はね吉良川きらがわの諸村。佐喜浜川河口の浦は江戸時代を通じて浦分支配とされ、別に庄屋が置かれた。また海岸北部の入木いるき、同南部の尾崎おざきは枝村とされ、佐喜浜村庄屋が統轄し、組頭が置かれた。交通は灘回りの道が海岸沿いに南北に通じるが、北方によどいその難所があり、野根山街道ほど利用されなかった。また佐喜浜川をさかのぼり安居あんごから野根山の岩佐いわさ(現安芸郡北川村)へ出る道もあるが、こちらは険しい山道で、江戸時代末期までは佐喜浜・入木・尾崎の三村は他地域との交流の少ない地であった。

延久二年(一〇七〇)七月八日付の金剛頂寺解案(東寺百合文書)に「佐貴河」とみえるのが現佐喜浜川のことで、以後、佐貴郷・崎・佐喜・佐貴浜庄などの表記がみえ、天正一七年(一五八九)の長宗我部地検帳は表題に「佐貴浜村地検帳」とある。江戸時代以降も表記は佐喜浜・崎之浜・咲ノ浜浦などと一定せず、明治以後佐喜浜に統一され、入木・尾崎の両枝村を併せて佐喜浜村となった。

平安時代、浜伝いに船で室戸岬を回って帰京した紀貫之は、佐喜浜の湊で一泊したはずだといわれるが、「土佐日記」にはその記載はない。その後空海修行のゆかりで開かれた最御崎ほつみさき寺・金剛頂こんごうちよう寺が有名になると、その道筋にある浦として中央にも知られるようになったらしく、「梁塵秘抄」に「土佐の船路は恐ろしや(中略)崎や佐喜の浦くら□ 御厨の最御崎 金剛浄土の連なごろ」と歌われている。なお前述の金剛頂寺解案に、当時の金剛頂寺の四至として「西限波禰中山、北限佐貴河」とあり、付近は金剛頂寺の支配下にあり、当時最御崎寺は金剛頂寺に属していたので、両寺の僧侶や室戸岬に集う修行者たちの活動する舞台となっていたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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