日本大百科全書(ニッポニカ) 「侯景の乱」の意味・わかりやすい解説
侯景の乱
こうけいのらん
548年8月、中国、南朝の梁(りょう)に起こった反乱。侯景は羯(けつ)族の出身。元来東魏(とうぎ)の勇将として武勲をたてたが、高歓(こうかん)の死後、梁に投降し、南予州刺史(しし)の位を与えられていた。治所の寿春(安徽(あんき)省寿県)からただちに都の建康(南京(ナンキン))をついた反乱軍は、挙兵当初の1000人から10万人の大集団に膨れ上がったのに対し、王朝の援軍の足並みはそろわず、翌年3月、酸鼻を極めた籠城(ろうじょう)戦のすえ宮城は陥落、相次いで梁の武帝も死亡した。そのあと簡文帝(かんぶんてい)がたったものの、実権を手中にした侯景は、551年11月、自ら即位して国号を漢と定めた。しかし王僧弁(おうそうべん)と陳霸先(ちんはせん)の攻撃を受けて翌年4月に敗死。この乱によって、50年に及んだ梁の武帝治下の太平の夢が破られただけではなく、江南の社会は上下をあげて壊滅的な打撃を被った。589年の隋(ずい)の文帝による江南征服の遠因も、この乱に求めることができる。
[吉川忠夫]
『吉川忠夫著『侯景の乱始末記』(中公新書)』