デジタル大辞泉 「梁」の意味・読み・例文・類語
りょう【梁】[漢字項目]
1 屋根を支えるため両側の支柱に架け渡す横木。はり。また、はりに似たもの。「梁材・
2 橋脚を立てて川の両岸に架け渡した木の橋。「橋梁・石梁」
3 川をせき止めて魚を捕る装置。やな。「魚梁」
4 はねまわる。「跳梁」
5 中国の王朝名。「後梁」
りょう〔リヤウ〕【梁】
戦国時代、
南北朝時代の南朝の一。502年、斉の
⇒
やな【×梁/×簗】
[補説]「簗」は国字。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
鉄骨構造、鉄筋コンクリート構造、木構造などの建築骨組を構成する細長い棒材のうち、ほぼ水平方向に配置され、主としてその材軸線に垂直な方向の荷重(横荷重)を支持する働きをするものを梁という。一般には種々の構造物の構成要素のうち、横荷重を支持する働きをする細長い棒材をすべて梁という。
木造日本建築の小屋組みのうち和小屋では、屋根自重や屋根の積雪荷重などを支持するために、2本の軒桁(のきげた)の間に太い梁をかけ渡す。これを小屋梁という。 の鉄骨鉄筋コンクリート構造の梁は、その自重、床スラブや壁などの重量のほか、床スラブ上の積載物の重量をも支持する。梁はその両端で柱に接合されて支持される。橋桁もその荷重支持作用からいえば梁であり、支柱や橋台上の支承で支持される。
梁は横荷重の作用を受けると曲げられる。その曲げ変形の性状は、梁の形状と支持方法、および横荷重の種類によって異なる。片持ち梁(ばり)の他端に作用する横荷重による曲げ変形の例を示した。実際の梁の曲げ変形は目に見えないほど小さい。梁の曲げ変形の主要部分は、曲げ変形後の材軸線の呈する曲線で記述される。これを弾性曲線という。 には、3か所で支持された梁(連続梁)が異なる2種類の横荷重の作用の下で呈する弾性曲線を示した。梁のこのような力学的挙動を記述する理論は、構造力学の基礎理論であって、とくに梁理論ともいう。
には、一端で固定された曲げられた梁の各部分は、横から見ると扇形に変形している(フランジとし、その間の距離を大きくするほうが性能が高くなる。しかしその間を連結するウェブの厚さも限界値以下にできない。背を高くしてフランジの幅を狭くすると、横にはらみ出しやすくなる。市販のH形鋼材の形状は、これらの力学的理由によって定められている。 のほかの鉄骨梁の形状も、種々の力学的根拠に基づいて考案された結果である。
)。したがってその最外縁がもっとも大きく伸ばされたり縮められたりしている。このような曲げ変形に抵抗する作用が集積されて、梁全体としての荷重支持作用となる。梁要素の曲げ変形に対する抵抗性能は梁の形状によって異なる。 にその例を示した。同体積の材料を用いるとすると、 の①のように可能な限り多くの材料を最外縁に近く配置して建築骨組の中の梁は、多くの場合柱と剛接合されてラーメンを形成し、各部重量や積載荷重を支持する働きのみならず、柱とともに骨組全体としての水平方向の風荷重や地震外乱に耐える性能を構成する役割も果たす。梁は材軸線の形状によっても分類される。材軸線が直線である梁を直線梁、それが曲線である梁を曲り梁という。曲り梁は螺旋(らせん)階段を支える梁や曲線箱桁橋などに用いられる。
[中村恒善]
中国、南朝3番目の王朝(502~557)。始祖の蕭衍(しょうえん)(武帝)は南斉(せい)王室の疎族(そぞく)。雍州(ようしゅう)(湖北省)の鎮将から進撃して南斉の暴君東昏(とうこん)侯を討ち、和帝の禅譲を受けて王朝を建康(南京(ナンキン))に開いた。48年に及ぶ武帝の治政のうち、前半は、科挙制の先駆となる試験による官吏登用や官制改革を行って貴族制の再編を図るなど、六朝(りくちょう)期きっての治績をたたえられた。しかし、やがて仏教に傾倒して失政を重ね、東魏(とうぎ)の降将侯景(こうけい)の反乱を招いて、社会は大混乱に陥り(548)、武帝も憂死した。首都を制した侯景は、簡文帝、ついで予章王棟をたてたのち自立して「漢」と号したが、元帝に討たれた(552)。元帝は荒廃した建康を見限って江陵(湖北省)を首都に再興したものの、甥(おい)の蕭詧(しょうさつ)と結んだ西魏(せいぎ)に襲殺された(554)。このため王僧弁が建康で閔(びん)帝をたてたが、ついで実権を握った陳覇先(ちんはせん)(陳の武帝)が敬帝をたてたのち禅譲を迫り、梁は滅びた。盛時、建康は28万戸を数え、仏教を中心に学問、芸術が栄えた。その反面、貴族の文弱化も著しく、侯景の乱以降の動乱で多くが死に、かわって下級武人や地方土豪が台頭して、南朝貴族制は衰えた。
[安田二郎]
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ビームともいう。建物,橋などにおいて,屋根,床などの荷重を支持するため,あるいは柱,壁などの鉛直部材を相互に連結補強するために水平にかけ渡される部材の総称。狭義には,構造物の短辺方向にかけ渡したものをいい,梁に交叉する方向に配置されて梁を受ける部材は桁girderと呼んで両者を区別していたが,現在では特別な場合以外,両者を区別することは少ない。木造建築においては,使用する部位,位置を冠して,小屋梁,陸梁などの呼名が用いられており,一般の建築では,材料によって鉄骨梁,鉄筋コンクリート梁などと,また力の伝達順序,規模によって大梁,小梁などと呼ばれている。
梁は,力学的な支持条件により,片持ち梁,単純梁,固定梁に分類される。片持ち梁はカンチレバーとも呼ばれ,一端が固定支持され,他端が自由なもの,単純梁は一端がピン,他端がローラーで支持されたもの,固定梁は両端とも固定支持されたものをいう。また,支点が三つ以上あって不静定構造になっているものを連続梁といい,単純梁に比べて変形が小さい。連続梁の途中に適当にピン接合をおくと静定構造となり,これをゲルバー梁という。
執筆者:岡田 恒男
中国,南朝四王朝の一つ。502-557年。4代の天子をかぞえるが,実際は治世約50年に及び,〈みずから天下を得,みずから天下を失う〉と評せられる武帝蕭衍(しようえん)一代の王朝であったといえる。蕭衍は南斉王室の疎族。雍州刺史であったとき,南斉の東昏侯の暴政を除くべく挙兵,王朝を奪った。一流の知識人であった武帝は貴族を尊重したが,彼が尊重したのはその門地よりもむしろ教養であり,また人材発掘のために貴族の子弟を教育する国子学と寒門の子弟を教育する五館の学校制度を整えるなど,貴族制に一定の手直しを加えた施策には見るべき点があった。しかし晩年には仏教信仰におぼれて政治にうみ,東魏の降将侯景の乱によって江南の社会は大混乱におちいった。第3代元帝は建康(南京)をすてて江陵(湖北省江陵)に都を置いたが,それも西魏の攻撃をうけて壊滅(554)。北朝から加わる重圧と地方土豪層の蜂起のうちに滅んだ。
→魏晋南北朝時代
執筆者:吉川 忠夫
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①〔南朝〕502~557 南朝の王朝。斉の末,皇族の蕭衍(しょうえん)(武帝)は兵を挙げて東昏侯(とうこんこう)を退けて和帝を立て,その禅譲で即位した。その48年の治世は南朝文化の最盛期であったが,末年には侯景(こうけい)の乱が起こり,西魏は江陵を陥れて傀儡(かいらい)政権の後梁を建てたが,建康では陳覇先(ちんはせん)が敬帝を立てその禅譲で陳を建て,梁は6代で滅んだ。
②〔五代〕後梁(こうりょう)
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
中国の南北朝時代の王朝の一つ(502~557)。蕭衍(しょうえん)(武帝)が斉(せい)の和帝から禅譲をうけて建国。都は建康(現,南京)。武帝は倭(わ)と百済(くだら)を重視し,即位の年に百済王と倭王武(ぶ)をそれぞれ鎮東大将軍から征東将軍と征東大将軍に進めた。548年,東魏の亡命者侯景(こうけい)の反乱によって王朝は混乱し,陳覇先(ちんはせん)(陳の武帝)に簒奪された。なお「梁職貢図」は3代元帝(蕭繹(しょうえき))の作。
古くは「うつばり」とも。建物の柱の上方にあり,屋根を支える横木。柱を省略して広い空間を造る梁,柱と柱をつなぐ梁などがある。前者ははじめ棟と直角の方向(梁行(はりゆき)または梁間)にだけ架け,のちに棟の方向(桁行(けたゆき))にも架けた。みえるところに架ける化粧の虹梁(こうりょう)と天井で隠される野物(のもの)の小屋梁,大梁と小梁,繋(つなぎ)梁などの別がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 リフォーム ホームプロリフォーム用語集について 情報
…文侯は政治を改革し,戦国初期第一の強国となり,境域を拡大した。文侯死後,秦の攻撃を受け,都を大梁(河南省開封市)に遷し,国を梁とも称した。斉にも圧迫され,前225年秦に滅ぼされた。…
…針仕事を休んで古針や折れ針を供養し,裁縫の上達を祈る女性の行事。用の済んだ針を豆腐やこんにゃく,餅などに刺し,川へ流したり近くの社寺へ持ち寄って供養してもらうのが一般的で,全国の広い地域で2月もしくは12月の8日(こと八日)に行われている。…
…蛇婿入譚は内容から〈苧環(おだまき)型〉〈水乞(みずこい)型〉〈蛙報恩型〉に大別される。〈苧環型〉は,夜中に娘のところに見知らぬ若い男が通ってくるのを怪しんだ親が,男の着物に糸を通した針を刺させ,男が帰ったあとその糸をたどっていったところ蛇のすみかに至り,そこで蛇の親子の会話を立ち聞きして娘に宿った蛇の子を堕(おろ)す方法を知る,というものである。同じ内容の話が古代の神話や伝説にもみえて,三輪山型神婚説話(三輪山伝説)と呼ばれている。…
…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
…中国,南朝梁の初代皇帝。在位502‐549年。…
※「梁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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