健軍神社(読み)けんぐんじんじや

日本歴史地名大系 「健軍神社」の解説

健軍神社
けんぐんじんじや

[現在地名]熊本市健軍本町

下江津しもえづ湖の北に位置し、ほぼ真西に向かって長い参道が延びる。祭神は主座の健軍大神と健磐龍命ら阿蘇十二神。旧郷社。境内に雨宮大神を祀る雨宮社、大物主神その他を祀る美和社、速瓶玉命(阿蘇十一ノ宮)を祀る国造社の摂社を擁する。「国誌」によると欽明天皇一九年に「国司」が阿蘇大神を勧請したと伝え、健軍社縁起控(当社蔵)は国司保昌の天□年間勧請説、また健軍神社明細図書(当社蔵)は承平年間(九三一―九三八)説をもあげる。もと健宮たけみやと称し、平安時代後期に阿蘇社の末社となり、中世史料には郡浦こうのうら社・甲佐こうさ社とともに「三末社」、本社の阿蘇社を含め「四社」とみえることが多い。永久元年(一一一三)七月一三日焼失した「健軍社之宮寺」を国司藤原国資に修造させることになった(長秋記)。治承四年(一一八〇)源定房は宇治惟泰を「阿蘇并健軍両社」大宮司職に補任しており(同年一月日「大納言源定房家政所下文写」阿蘇家文書)、当社が村上源氏を領家とする阿蘇社の末社となっていたことが知られる。嘉禄二年(一二二六)には「たけみや」の大宮司職などが惟次の三男津屋惟盛に(同年八月四日「宇治惟次譲状写」同文書)、次いで惟盛子息津屋惟経に譲られ(弘安元年六月二四日「北条時定下文」同文書)、当社大宮司職は本社阿蘇大宮司職と分離され、庶子家惟盛流に相伝されるようになり、北条氏によって安堵されている(安貞二年六月六日「北条泰時下文」同文書など)

建久九年(一一九八)には「阿蘇別宮 健軍甲佐両社例下米」を在庁が転倒しようと図り、北条時政は阿蘇社の求めに応じて証文案三通を下している(一二月一五日「北条時政裁許状」同文書)。また建仁三年(一二〇三)には「健軍大宮司分佃弐町」などに対し、十郎子息らの乱妨を受けた宇治惟次は時政に訴え、停止の下文を賜っている(同年一〇月一三日「北条時政裁許状」同文書)。弘安元年(一二七八)には、父惟盛より譲りを受けた惟経が幼少であったため、六月二四日いったん安堵を受けながら(「北条時定下文」同文書)、一族内部の別の人に当社大宮司職が与えられてしまい、惟経は代々の下文や宗道(惟盛か)譲状を北条氏に提出し(同二年二月二九日「左衛門尉康房書状」同文書)、再び当社大宮司職を安堵された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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