北条時政(読み)ホウジョウトキマサ

デジタル大辞泉 「北条時政」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときまさ〔ホウデウ‐〕【北条時政】

[1138~1215]鎌倉幕府初代執権。在職1203~1205。源頼朝の妻政子の父。通称、四郎。頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府創業に貢献。頼朝死後、2代将軍頼家を謀殺して実朝を擁立、初代執権として幕政の実権を握ったが、のち、実朝を除く計画が失敗して引退した。

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精選版 日本国語大辞典 「北条時政」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときまさ【北条時政】

  1. 鎌倉幕府初代執権。時方の子。源頼朝に娘政子をとつがせ頼朝の挙兵をたすけて幕府創設に貢献した。頼朝死後、頼家と比企能員を圧迫、謀殺して実朝を将軍に擁立、執権として幕政の実権を掌握したが、実朝を除く計画が失敗して隠退した。保延四~建保三年(一一三八‐一二一五

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朝日日本歴史人物事典 「北条時政」の解説

北条時政

没年:建保3.1.6(1215.2.6)
生年:保延4(1138)
鎌倉幕府の政治家,初代の執権。源頼朝と共に鎌倉幕府をつくる。伊豆国の在庁官人北条時方と伴為房の娘との間に生まれ,「当国の豪傑」と称された。伊豆に流されていた源頼朝を娘政子の婿にとったことから頼朝に従って挙兵。治承4(1180)年4月27日に平氏を討てとの以仁王の令旨がその館にもたらされ,頼朝と時政の手によって開かれたところから幕府は出発したと『吾妻鏡』は語る。挙兵後,頼朝は鎌倉を目指すが,ここは時政の祖先平直方が源頼義に譲った地である。石橋山の戦に敗れて長子の宗時を失うが,やがて甲斐源氏を誘い,富士川の戦で頼朝軍と合体する。その後は政子に孫の頼家が生まれたことから,頼朝の外威として重きをなしたが,文治1(1185)年11月には頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて,頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。朝廷は義経追討宣旨を出すことでそれに対応したが,時政はさらに諸国,荘園に守護,地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ,また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。こうして朝廷からは後白河法皇の近臣が除かれ,幕府の推す九条兼実が関白となって朝廷政治は刷新された。 だがその後の京都での時政の動きは頼朝の望むところではなく,一条能保が頼朝代官として上洛したのを受けて任を解かれ,京都の警備を甥の時定に託して鎌倉に戻る。その後の動きははっきりしないが,伊豆,駿河の守護として活動,文治5年には奥州の藤原氏追討を願う願成就院を伊豆の北条に建立し,奥州合戦に従う。やがて頼朝の後継者をめぐる動きとともに時政の行動は目立ちはじめ,建久3(1192)年に源実朝が生まれると,その誕生の儀式を行い,翌年の富士野での巻狩りで起きた曾我兄弟の仇討ち事件では,その狩り場の設定者として,また曾我五郎時致が時政の烏帽子子となっていたことなどから,事件への関与も考えられる。正治1(1199)年1月に頼朝が亡くなると,政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導した。建仁3(1203)年政所別当,執権。頼家の親裁権を削減するとともに御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き,自らは頼家の後見として遠江守に任じられた。しかし頼家の側近の勢力を排除するなかで,頼家の外戚となった比企能員と対立が生じ,これを自邸に誘って謀殺し,実朝を将軍に据えて政所別当となって幕府の実権を握った。しかし子の義時や政子と路線が合わず,後妻牧の方の娘婿となっていた源氏の平賀朝雅を将軍に擁立することを計って失敗,伊豆に引退させられその地で亡くなる。<参考文献>安田元久『鎌倉将軍執権列伝』

(五味文彦)

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改訂新版 世界大百科事典 「北条時政」の意味・わかりやすい解説

北条時政 (ほうじょうときまさ)
生没年:1138-1215(保延4-建保3)

鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現静岡県伊豆の国市,旧韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれを助け,まず伊豆の目代山木兼隆(やまきかねたか)を討った。しかし相模の石橋山の戦には敗れて安房に逃れた。ついで頼朝の命を受けて甲斐に赴き,同国の武田信義らを味方につけ,甲斐,信濃の源氏を伴って頼朝の本隊に合流し,駿河の富士川の戦で平維盛の東征軍を敗走させた。平氏討伐のための西国遠征には加わらず,鎌倉にとどまっていた。平氏滅亡後,頼朝・義経兄弟の対立が激化すると,85年(文治1)義経を追って上洛,守護・地頭設置の勅許を出させ,京都守護として京都の警備,朝廷との折衝に当たったが,翌86年京都守護を後任の一条能保(よしやす)に託し,鎌倉に帰った。99年(正治1)頼朝が没して子の頼家があとを継ぐと,頼家の外戚である比企能員が勢力をもつようになった。時政らはこれに対抗し,頼家がみずから訴訟を裁断するのを停め,時政・義時父子,能員ら13名の有力御家人の合議によることとし,頼家の独裁を抑えた。1203年(建仁3)頼家が病むと,その遺跡の処分を独断で行って能員を挑発し,能員をはじめ比企一族を滅ぼし,頼家の子一幡を殺し,頼家を廃してその弟実朝を将軍に立て,大江広元とともに政所別当(執権)として幕府の実権を握った。時政は後妻牧の方を愛したが,先妻が生んだ政子と義時は,継母と不和であった。05年(元久2)時政,牧の方の女婿平賀朝雅が畠山重忠と対立すると,時政は重忠を討った。さらに時政は牧の方と謀って将軍実朝を廃し,朝雅を将軍にしようとしたため,政子,義時は時政を出家させて(法名明盛)伊豆に幽閉し(牧氏の変),義時が執権に就任した。時政は不遇のうちに10年後に没した。
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百科事典マイペディア 「北条時政」の意味・わかりやすい解説

北条時政【ほうじょうときまさ】

鎌倉幕府初代執権。時方の子。源頼朝の妻政子の父。頼朝の挙兵を助けて幕府創設に成功。頼朝の死後,2代将軍頼家を廃して実朝を擁立,執権として幕政の実権を握った。1205年女婿平賀朝雅を将軍にしようとして失敗,隠退して出家。→北条政子
→関連項目伊沢家景運慶京都守護国地頭執権政治北条氏

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条時政」の意味・わかりやすい解説

北条時政
ほうじょうときまさ
(1138―1215)

鎌倉幕府初代執権。時方(ときかた)の子。母は伊豆掾(いずのじょう)伴為房(とものためふさ)の女(むすめ)。伊豆国府(こくふ)の役人として北条に住し、北条四郎と称した。法名明盛(めいせい)。流人源頼朝(よりとも)を監視する役目であった時政は、ひそかに頼朝と通じ、女政子(まさこ)を彼に配し、1180年(治承4)伊豆目代(もくだい)山木兼隆(やまきかねたか)を急襲して、頼朝の源家再興の旗揚げを助けた。以後頼朝に従って富士川などの諸戦に活躍し、信頼を得た。85年(文治1)頼朝の代官として、義経(よしつね)追討のため大軍を率いて上京、守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置を朝廷に認めさせた。1200年(正治2)従(じゅ)五位下遠江守(とおとうみのかみ)に任ぜられる。頼朝の没後、比企(ひき)氏を後ろ盾に独裁化をねらう2代将軍頼家(よりいえ)に対して、重臣合議制でこれを抑制した。03年(建仁3)比企一族を滅ぼし、実朝(さねとも)を擁立、大江広元(おおえのひろもと)とともに政所別当(まんどころべっとう)となり、幕府の実権を握った。05年(元久2)平賀朝雅(ひらがともまさ)の讒言(ざんげん)により畠山重忠(はたけやましげただ)を殺害、さらに後妻牧方(まきのかた)と謀って将軍廃立を企てたが発覚、政子らによって幕府から追放された。出家し、伊豆に送られ、10年後の建保(けんぽう)3年正月6日北条で没した。

[田辺久子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条時政」の意味・わかりやすい解説

北条時政
ほうじょうときまさ

[生]保延4(1138).伊豆
[没]建保3(1215).1.6. 伊豆
鎌倉幕府の初代執権 (在職 1203~05) 。通称は四郎。法名は明盛。父は時方。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条 (現在の静岡県田方郡) の出身。娘政子は源頼朝の妻。治承4 (1180) 年8月頼朝挙兵の最初から頼朝に従って功をあげた。同月の相模国石橋山の敗戦では逃走の途中で子宗時を殺されたが,次子義時とともに海路安房国に逃れて頼朝の到着を迎えた。文治1 (85) 年義経追捕のため上洛,その際朝廷に強要して守護,地頭設置の許可を得た。正治2 (1200) 年4月従五位下,遠江守。建仁3 (03) 年9月比企能員を殺して2代将軍頼家を廃し,その弟実朝を将軍とし,みずからは執権となった。元久2 (05) 年閏7月女婿平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたが失敗し,落飾して伊豆北条に退隠。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条時政」の解説

北条時政
ほうじょうときまさ

1138~1215.1.6

平安後期~鎌倉前期の武士。父は時方,母は伊豆掾伴為房の女。四郎と称する。北条氏は伊豆国田方郡北条(現,静岡県伊豆の国市)を本拠とする豪族で国の在庁官人。時政は伊豆国に流された源頼朝の監視役を命じられた。女政子が頼朝と夫婦となったことから,1180年(治承4)頼朝を助けて挙兵,頼朝側に従って活躍。85年(文治元)上洛し,翌年まで朝廷との交渉や京都の警固などの任務にあたった。頼朝の死後は,2代将軍源頼家にかわって訴訟を扱う13人の御家人の1人に数えられた。やがて頼家や頼家の外戚比企能員(ひきよしかず)と対立,1203年(建仁3)能員を討ち,頼家を廃して3代将軍実朝を擁立した。以後幕府政治の中心となり,初代の執権と称されるが,強圧的な姿勢が他の御家人の反発を招き,05年(元久2)子の政子と義時により出家のうえ,伊豆に隠遁させられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条時政」の解説

北条時政 ほうじょう-ときまさ

1138-1215 平安後期-鎌倉時代の武将。
保延(ほうえん)4年生まれ。北条政子の父。鎌倉幕府初代執権。政子と結婚した源頼朝の挙兵をたすけて幕府創設に寄与。文治(ぶんじ)元年京都で守護・地頭設置の勅許をえる。頼朝の死後,2代将軍源頼家を廃して源実朝(さねとも)を擁立し実権をにぎる。さらに後妻牧の方の娘婿平賀朝雅を将軍にしようとして失敗,伊豆(いず)に退隠した。建保(けんぽ)3年1月6日死去。78歳。通称は四郎。法名は明盛。
【格言など】弓矢取(とる)身は言(こと)ば一(ひとつ)も輙(たやす)からず,生(いき)ても死(しし)ても名こそ惜けれ(「源平盛衰記」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条時政」の解説

北条時政
ほうじょうときまさ

1138〜1215
鎌倉幕府創業の功臣で,初代執権(在職1203〜05)
時方の子。伊豆の住人。流人であった源頼朝を助けて幕府創立に尽くす。娘政子を頼朝に配し外戚として勢威をふるった。頼朝の死後,2代将軍頼家を謀殺し実朝を擁立。政治的実権を握り執権と称す。1205年後妻牧ノ方の陰謀事件(実朝を廃して,時政の女婿平賀朝雅 (ともまさ) を将軍に立てようとしたもの)に関係して隠退し出家した。

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世界大百科事典(旧版)内の北条時政の言及

【鎌倉幕府】より

…このように説が分かれるのは,幕府の本質をどうとらえるかという視角の違いによるのであるから,一つの学説だけを正しいと断定することはできない。 頼朝の死後は子の頼家があとを継いだが,1203年(建仁3)北条時政は頼家を退け,その弟の実朝を鎌倉殿に擁立し,時政みずからは政所別当として執権を称し,ここに執権政治が発足した。時政の子の義時以後は,政所別当に加えて侍所別当までも北条氏が独占的に世襲した。…

【国地頭】より

…鎌倉幕府のはじめ,1185年(文治1)11月,源頼朝の代官北条時政の奏請によって,五畿山陰山陽南海西海の諸国を対象に,国ごとにおかれた地頭。このとき謀反人となって逃亡した源義経・同行家を追捕(ついぶ)するために,これらの国に地頭をおき,(1)荘園・公領をとわず,反別5升の兵粮米を徴収すること,(2)一国の田地を知行すること,(3)国衙の在庁や荘・公の下職(現地の役人)・惣押領使などからなる地頭の輩を幕府の支配下にくみこむことなどが予定されていた。…

【執権】より

…もっとも有名な鎌倉幕府の執権は,同じころに置かれ,院庁の執権に似ている。鎌倉殿(将軍)の政所別当の中の1名を執権に任じたもので,大江広元を初代執権とする説もあるが,正式には1203年(建仁3)北条時政が将軍源頼家を廃して実朝を立てた際に政所別当となり,執権となったのが最初である。執権は〈御後見〉〈政務ノ御代官〉などといわれ,政所別当として将軍家の家司であり,将軍を補佐して政務をすべる職であるが,将軍は名目にすぎず,実質的には執権が幕府の実権を握る最高の要職で,北条氏が世襲した。…

【執権政治】より

…執権政治期を狭くとれば,1225‐46年の約20年にすぎないが,本来鎌倉幕府の政治は,鎌倉殿や得宗の独裁・専制の政治であり,執権政治のような合議政治は,得宗が鎌倉殿に代わる専制の主体に成長しきれない段階におこる特殊な現象であって,その期間が短いのも当然なのである。 1203年,北条時政は源頼家を廃し,その弟実朝を鎌倉殿に立て,時政自身は政所別当として執権に就任した。これが執権政治の成立である。…

【得宗】より

…鎌倉幕府執権北条氏の家督。徳宗,徳崇とも書く。鎌倉北条氏2代義時の法名に由来し,その嫡流の家督をさすようになり,さかのぼって初代時政のほか,夭折して家督を継がなかった時氏も含めて,いわゆる〈北条九代〉(時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時)を総称する語になった。初代時政は将軍源頼朝の外舅として一般御家人とは別格の地位を与えられていたが,頼朝没後,御家人の列に下り,1203年(建仁3)9月比企能員一族を攻め滅ぼして2代将軍頼家を追放し,政所別当に就任,幕政を執権した。…

【比企能員】より

…能員の妻(渋河兼忠女)や義妹(平賀義信妻,河越重頼妻)はいずれも頼朝の長子頼家の乳母で,能員の娘若狭局は頼家の妻であり,かつ長子一幡を生んでいた。頼朝の死後,2代将軍頼家の外祖父として勢力の伸張をはかる北条時政らに対し,頼家は比企氏と結んでこれに対抗しようとした。1203年頼家が病に倒れると,つぎの将軍に頼家の弟千幡(実朝)を擁立しようとする北条氏と,頼家の長子一幡につがせようとする頼家・比企氏との対立は頂点に達し,ついに能員は北条時政によって謀殺された(比企氏の乱)。…

【北条義時】より

…99年(正治1)頼朝が没し,子の頼家があとをつぐと,頼家の外家である比企能員の勢力が台頭した。義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,13人の有力御家人の合議によることとした。義時は時政や能員らとともに13名のメンバーに加えられている。…

【牧氏】より

…平安末期大岡宗親が平頼盛に仕えて大岡牧を支配した。頼盛は平家一族の中で源氏と親しい関係にあり,その因縁からか宗親は鎌倉御家人となり,宗親の娘(一説に姉妹)が北条時政の後妻に迎えられた。この時政の後妻は牧の方と呼ばれ,時政との間に生まれた娘を平賀朝雅の妻としたが,1205年(元久2)閏7月牧氏の変により朝雅は殺され,牧の方は時政とともに伊豆の北条へ隠退させられた。…

【牧氏の変】より

…1205年(元久2)鎌倉幕府初代執権北条時政の後妻牧の方が,夫と謀って将軍源実朝を殺害,女婿で頼朝の猶子となっていた平賀朝雅を将軍に立てようとして失敗した事件。牧の方は,長年平頼盛に仕えて駿河国大岡牧を預けられた大岡(牧)宗親の娘で,時政との結婚は1182年(寿永1)以前にさかのぼる。…

【山城国】より

…応仁・文明の乱後,諸国の荘園からの年貢が納まらなくなると膝下荘園への依存度が高まり,室町幕府が全国への段銭(たんせん)などが賦課できなくなると,山城国への臨時課税が増加するなど,中世末の山城国は都市京都を支える重要な基盤となった。
[支配機構]
 1185年(文治1)11月,源頼朝は北条時政を京都に送り,洛中の守護と近国の管轄にあたらせた。これ以降,承久の乱(1221)までは北条時政,平賀朝雅,伊賀光季が京都守護として山城国の支配にあたったが,鎌倉幕府の山城・京都への支配力は十分に浸透していなかった。…

※「北条時政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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