日本歴史地名大系 「光村」の解説 光村ひかるむら 長野県:南安曇郡豊科町光村[現在地名]豊科町大字光近世は松本領麻績(おみ)組、のちに川手(かわて)組に属す。松本の城山(じようやま)丘陵の北に続く山地を背景にし、西に犀(さい)川をのぞむ細長い村。村内を松本からの川手道が貫通する。北は塔(とう)ノ原(はら)(現明科町)に接し、南は島内(しまうち)村(現松本市)に接する。滋野氏系図によれば、鎌倉時代の初め会田(あいだ)に進出した海野氏の一族光氏の所領するところと伝える。応永七年(一四〇〇)の大塔合戦に飛賀留氏の名がみえる(大塔物語)。 光村みつむら 鳥取県:東伯郡赤碕町光村[現在地名]赤碕町光湯坂(ゆざか)村の南、勝田(かつた)川が形成した沖積平野の南端に位置する。拝領高は二五九石余、本免は六ツ一分。藪役銀一五匁を課されており(藩史)、佐藤氏・大竹氏・吉岡氏・安養寺氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高三〇一石余、竈数四六。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では家数四七・人数一九九、林野四二町七反余。享保六年(一七二一)、下市(しもいち)村などとともに中山谷(なかやまだに)一二ヵ村(現中山町)と船上(せんじよう)山の草刈場をめぐって相論を起こしている(在方諸事控)。 光村ひかりむら 福岡県:八女市光村[現在地名]八女市光酒井田(さかいだ)村の南西、矢部(やべ)川が形成した扇状地に立地する。建武元年(一三三四)少弐・大友両氏とともに足利尊氏から鎮西警固を命じられた島津貞久は、「ひかり」「かうつま」などを拝領したが、恩賞を不満として薩摩国に帰ったため、不知行となった(「山田聖栄自記」など)。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「ひかり村」とみえ、酒井田村・矢原(やばら)村と合せて高六九九石余。本高は一七四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三六五石・役高二九二石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二九三石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一四町七反余・開田一反余・畑田一町五反余・畑一町三反余・居屋敷二反余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by