日本歴史地名大系 「免田村」の解説 免田村めんだむら 熊本県:球磨郡免田町免田村[現在地名]免田町 築地(ついじ)・吉井(よしい)・久鹿(くしか)・二子(ふたご)・黒田(くろだ)・永才(ながさい)・八幡(はちまん)町・大正(たいしよう)町・本(ほん)町・下乙(しもうと)球磨川の南、多良木(たらき)(現多良木町)への往還に沿う南北に細長い村で、目田とも面田とも書く。古くは永吉(ながよし)庄に属し、建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内目田之村十四町五反三十九石 十貫」とある。平安時代後期には平河氏の所領であったが、鎌倉期には鎌倉殿御領で預所は大江広元、平河氏は地頭・名主職を有した(弘安六年七月三日「関東下知状案」同文書)。応永七年(一四〇〇)一一月二五日の免田坪付帳(免田文書)によれば、「具志賀帳」二町七反三丈、「徳長」三町二反、「かとりその門」八反、「いちそのゝ門」一町三反四丈、「井の上の門」一町六反一丈、「さしそのゝ門」一町六反、「平河ノ門」三町三丈、「平上之門」二町二丈、「権現のめん」一町八反、「八王子めん」七反、「しものもとのへう(別府)」一町五反、「めんたさた人」五町四反からなっていた。 免田村めんでんむら 石川県:羽咋郡押水町免田村[現在地名]押水町免田大海川尻(おおみかわしり)村の南東、前田(まえだ)川北岸に位置する砂丘上の村。村名について「能登志徴」は「免田は社領等諸役免許のよしならんか」と記す。永禄二年(一五五九)五月一五日、三宅慶甫が「押水免田村年貢之内」より御供米一二俵を気多社に寄進している(「三宅慶甫寄進状」気多神社文書)。正保郷帳の高六三二石余、田方三六町余・畑方六町一反、免二ツ九歩、寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると高六六一石、免四ツ七歩、新田高四石、小物成は山役八八匁・苦竹役二匁、鳥役八匁(出来)、猟船櫂役一五匁(出来)、引網役二三匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。 免田村めんでんむら 石川県:鹿島郡中島町免田村[現在地名]中島町北免田(きためんでん)熊木(くまき)川の右岸、羽咋(はくい)郡に属し、虫(むし)ヶ峰(二九五・九メートル)の東麓に位置する。東は鹿島郡山戸田(やまとだ)村、西は山地を隔て羽咋郡日用(ひよう)村(現富来町)。永禄二年(一五五九)九月二五日の釶打熊野権現奉加札(藤津比古神社蔵)に「一斗、免田村ヨリ」とみえる。正保郷帳によると免田村・上畠(うわばたけ)村で六九六石余、田方三五町九反余・畑方一〇町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(北免田区有文書)の高三八〇石、免四ツ三歩、小物成は山役九五匁・苦竹役一二匁、鳥役二匁(出来)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by