八幡浜浦(読み)やわたはまうら

日本歴史地名大系 「八幡浜浦」の解説

八幡浜浦
やわたはまうら

古藪ふるやぶの山中から流れ出て八幡浜港に注ぐ千丈せんじよう(河口は新川)右岸の漁村で、港を中心とする在町に発展した。東は南茅みなみかや村、南は矢野やの町に接する。宇和島藩領。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「八幡浜浦 岩山有、小川有、水損所」とある。暦応四年(一三四一)の摂津親秀譲状(士林証文)に「伊予国矢野保内八幡浜」とあるのが初見。「愛媛面影」は「八幡大神立せるによりて八幡浜と名く」といい、村名は当浦の八幡神社によるとする。

太閤検地(天正一五年―文禄三年)石高は二〇八石三斗八合、耕地面積の比率は田六三パーセント、畑三七パーセントであったが、寛文検地(寛文一〇―一二年)では石高が一・五倍に増加し、田三八パーセント、畑六二パーセントに変化している。貞享元年(一六八四)の「墅截」によると村柄は「中」、耕地は田「中ノ下」、畑「下ノ上」、水掛り「吉」。鬮持制実施期(寛文一三年―寛保三年)の本百姓一人前耕地は田一反七畝二八歩、畑二反八畝二歩であり、百姓数は七五人、うち本百姓五六人、半百姓一一人、四半百姓七人、庄屋一人に分れている。本百姓の耕地面積がきわめて少ないが、漁業ないし雑業に従事する者の多いことを示している。鰯網は二帖あり、うち一帖は庄屋浅井宇右衛門が所有していた。

寛文七年(一六六七)の「西海巡見志」によると、家数九九軒、高札場があり、「何風にもよし、百石以上之船八十艘かかる」良港をもち、対岸の向灘むかいなだ浦と港湾をともにしている。また、宝永三年(一七〇六)の戸数八八、人口六六二、鰯網一帖、鮗網一帖、荷船六艘、網船二艘、小船二二艘、宝暦七年(一七五七)の戸数一一一、人口七〇八、鰯網一帖、荷船三艘、網船二艘、小船一八艘となっている(大成郡録)

以上により江戸時代前期の八幡浜浦は漁業と海運業に依存する街村であったと考えられる。

江戸時代後期に入り、宝暦七年頃から港の整備が始まり、造船業も起こり(八幡浜市誌)、八幡浜浦・向灘浦と古くからの在町矢野町を中核とする八幡浜湊が、四国・九州諸方面への海運基地・商港としての歩みを始める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報