日本大百科全書(ニッポニカ) 「八幡製鉄」の意味・わかりやすい解説
八幡製鉄(やはたせいてつ)
やはたせいてつ
第二次世界大戦直後、占領政策に基づく過度経済力集中排除法の適用を受けた日本製鉄が4社(八幡製鉄、富士製鉄、日鉄汽船、播磨(はりま)耐火煉瓦(れんが))に分割された結果、1950年(昭和25)4月、八幡製鉄所1か所をもって設立された。同年10月、第一次設備合理化計画を発表、圧延部門を中心に近代化を進め、アメリカのアームコ社(現、クリーブランド・クリブス社)から技術を導入してストリップ工場を整備するとともに、第二製鉄所として1955年、山口県光(ひかり)市に線材、特殊鋼の光製鉄所を新設した。ついで1956年、第二次設備合理化計画を決定し、福岡県戸畑(とばた)(現、北九州市)に新しい銑鋼一貫製鉄所を建設、同年、化学部門を分離して八幡化学工業(現、日鉄ケミカル&マテリアル)を設立。また、スイスのアルピネ社の特許を日本鋼管(現、JFEスチール)を通じて導入して1957年に八幡(現、北九州市)に日本初の純酸素上吹転炉を稼働させた。さらに日本経済の高度成長のもとで増大する鉄鋼需要にこたえるため1959年12月、第三次設備合理化計画を決定し、1961年に大阪の堺(さかい)製鉄所、1965年に千葉の君津製鉄所と、大型の臨海型銑鋼一貫製鉄所を建設した。
この間、一貫して日本における粗鋼シェアの1位を維持した同社は、1958年の「公開販売制度」の発足やその後再三実施された設備投資の自主調整においても指導的役割を果たすとともに、オーストラリアをはじめとする鉄鉱石の確保、アメリカを中心とした鉄鋼輸出、ブラジルのウジミナス製鉄所などへの海外技術協力においても重要な役割を果たした。しかし昭和40年代に入り国際競争力の強化を迫られた同社は、1970年、富士製鉄と合併、新日本製鉄(現、日本製鉄)に生まれ変わった。合併直前の八幡製鉄は、資本金1273億6000万円、4製鉄所、粗鋼生産年1626万トン(シェア18.7%)であった。
[中村清司]
『八幡製鉄株式会社編・刊『炎とともに』(1981)』