オーストラリア(読み)おーすとらりあ(英語表記)Australia

翻訳|Australia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
おーすとらりあ
Australia

オーストラリア大陸およびタスマニア島を主要領域とし、6州2直轄地区からなる連邦。面積769万2024平方キロメートル、人口2074万3000(2007推計)、2371万7421(2016センサス)。「オーストラリア」の呼称は、古代からの言い伝えによる未知の南方大陸を意味するラテン語名「テラ・アウストラリス」Terra Australisに由来する。大陸沿岸の航海で知られる探検家フリンダーズや当時の植民地総督マコーリーの提唱で、1817年ごろから使われ始め、連邦結成(1901)によって正式国名となった。国旗は、青地に白い南十字星などを配したもので、この国の労働運動と民主化の原点とされる「ユーリカEureka砦(とりで)事件」(1854)の際の反乱側の旗に由来する。国歌は1974年に定められた「アドバンス・オーストラリア・フェア」と伝統的なイギリス国歌「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン(キング)」の二つが事実上用いられてきたが、1984年4月、正式に前者に閣議決定。イギリス連邦加盟国。豪州ともいう。

 オーストラリアは南半球にあり、日本のほぼ真南に位置する。三つの標準時帯に分かれ、東部標準時(日本より1時間早い)に対して、中部では30分、西部では2時間の時差がある。

 オーストラリアにとってイギリスは、旧植民地本国であり、イギリス連邦の中心であり、また多くの移住者の出身国であった。しかし、イギリスとの歴史的、伝統的な関係には、単なる本国への忠誠や母国志向にとどまらず、本国の社会に対する抵抗、批判の面も含まれていた。基本的にはイギリスの諸制度、文化、生活様式を継承しながらも、オーストラリア独自の社会的、文化的特色を形成してきた。とくに第二次世界大戦後は、相対的にイギリス離れが進むとともに、アメリカ合衆国、日本、東南アジアとの結び付きが強まり、アジア太平洋国家群の一つとしての性格を強めてきている。国内的にも、非イギリス系住民の割合が高まり、生活様式や意識のうえでも独自の性格が形成されつつある。

[谷内 達]

自然

地形・地質

オーストラリアの地形的特徴は、きわめて低平で起伏に乏しいことである。ユーラシア、アフリカ、南北両アメリカ、南極大陸と比較すると、面積は最小、平均高度330メートルは最低、標高200メートル未満の低地の占める割合39%は最大、標高1000メートル以上の高地の占める割合2%は最小である。海岸線も単調で、その延長3万6700キロメートルは日本の約1.1倍にすぎない。

 オーストラリア大陸は、一般に西部台地、中央低地、東部高地の三つの大地形区に分けられる。西部台地の大部分は平坦(へいたん)な台地、砂漠、平原であり、山地や高原は大陸中央部や北西部のごく一部に限られる。地質的には、オーストラリア楯状地(たてじょうち)あるいは西部楯状地とよばれる先カンブリア層のきわめて古い岩石からなり、地域によってその上に古生代以降の堆積(たいせき)層がのっている。この先カンブリア層は金属鉱物資源の宝庫であり、代表的な鉱床は北西部の鉄鉱石鉱床である。また、マウント・アイザおよびブロークン・ヒルの非鉄金属鉱床も、この先カンブリア層地域の東端にあたる。中央低地(中央東部低地あるいは内陸低地ともいう)の北半部の大半は、中生代以降の堆積層で、地下水利用で知られる大鑽井(だいさんせい)盆地にあたる。南半部は主として新生代第三紀の堆積層で、マリー・ダーリング水系の中・下流域にあたり、マリー・ダーリング盆地とよばれることもある。東部高地は、グレート・ディバイディング山脈を中心とした山地および高原地帯と、比較的狭い河谷平野や海岸平野からなる。地質的には、タスマン地向斜とよばれる古生代の堆積層が、中生代以降に隆起して形成されたものである。この古生層にも、西部台地の先カンブリア層に次いで、金属鉱床の発達がみられる。

 平坦な地形と乾燥した気候とにより、河川や湖沼はあまり発達していない。河川の多くは季節河川、間欠河川であり、湖のほとんども、干上がった塩湖の湖床(プラヤ)である。年間を通してつねに十分な水量のある大河や大湖が内陸にみられないことは、北アメリカ大陸との大きな相違点であり、開拓過程の差異に影響した。

[谷内 達]

気候

オーストラリア大陸の気候の特徴は温暖と乾燥の2点にある。大陸北岸(国土の17%)は熱帯気候、主たる居住地域である大陸の東岸、南岸、およびタスマニア島(国土の26%)は温帯気候に属する。

 オーストラリア大陸はもっとも乾燥した大陸である。内陸から北西部にかけて広がる乾燥気候地域(砂漠気候およびステップ気候)の占める割合(57%)は、全大陸中最大である。降水量は、一般に海岸から内陸に向かってしだいに減少する。年降水量が600ミリメートル以下の地域は国土の80%、さらにその50%の地域では300ミリメートル以下となっている。また、水の利用可能性の点からは、年降水量の分布に関して二つの制約を考慮しておかなければならない。第一は、降水量の変動の度合いが内陸ほど大きいので、年平均値の信頼度が低下することである。したがって、ほぼ毎年確実に期待される降水量は、年平均値よりはるかに低い。第二は、降水量の多くが蒸発によって失われることである。そこで、土壌からの蒸発量を上回る「有効な」降水量のある月が年間に何か月あるかを示した「作物生育期間」という指標が、しばしば用いられる。この期間が5か月以上なら農業が、1~5か月では粗放な牧畜のみが潜在的に可能とされている。いうまでもなく、これに土壌や気温など他の条件を加えると、自然条件の面から農業の可能な地域はさらに限定される。

[谷内 達]

生物相

オーストラリア大陸は、かつてはゴンドワナ大陸の一部で、新生代第三紀の前期ごろ南米と陸続きだった南極大陸から離れ、以来孤立してきたと考えられている。そのため、ゴンドワナ大陸系の原始的な動植物はもちろん、新生代にアジアから入った新しい系統のものも、その多くが独自に進化を遂げ、他の大陸と顕著に異なる生物相を形成している。したがって、この大陸を中心に、植物ではオーストラリア区系界、動物ではオーストラリア区とよばれる独特の生物分布区が設けられている。

 オーストラリアの植物研究は、キャプテン・クックの最初の世界周航の際、隊員のジョセフ・バンクスJoseph Banks(1743―1820)が1770年にボタニー湾に上陸したときに始まる。現在までに1万8000種以上の維管束植物が報告されており、そのうち少なくとも75%以上が固有と見積もられている。ビブリス科(食虫植物)など固有の科があるほか、イシモチソウ科(食虫植物)、エパクリス科、クサトベラ科、ディレニア科、クノニア科などの種類が多いのも特色である。バンクシア属、グレビラ属などヤマモガシ科の植物も種類が多い。これはレスティオ科とともに南アフリカの植物相との類縁を示すものといわれている。植物はいずれも乾燥気候に適応し、山火事に対して抵抗力の強い種類が多い。ユーカリとアカシアの種類の多いことはとくに著しく、ユーカリ(ユーカリプトゥスEucalyptus、オーストラリア人はガム・ツリーgum treeとよぶ)はオーストラリアの樹木のうち、固体数で9割を占めるといわれる。さまざまな環境に適応して進化を遂げたため、高さ1メートル足らずの低木から、高さ90メートル以上に達するマウンテン・アッシュまで、約500種に及ぶ。アカシア(オーストラリア人はワトルwattleとよぶ)もユーカリと並ぶ代表的樹木で、約600種以上がさまざまな環境にみられる。ユーカリは用材や製紙原料として有用である。

 北部から北東部にかけては比較的降水量が多く、ユーカリを主とした常緑広葉樹林があり、北東部の沿岸には熱帯降雨林が狭い幅でみられる。南西部は冬雨夏乾の地中海気候で硬葉樹林がみられ、植物の種類数が多く独特の一地域をなし、キサントロエアのような特殊な植物もみられる。内陸は乾燥しており、中心部は砂漠状である。その周辺は乾燥草原、草原に低木の疎生する群落などがあって、サバナ的植生のところが多い。全般にゴンドワナ大陸起源の乾燥適応の著しい植物が多いのが特色であるが、高山には北半球から由来したキンポウゲ属、スゲ属などもみられる。

 オーストラリアに生息する動物としては、魚類約2200種、両生類約70種、爬虫(はちゅう)類約360種、鳥類約800種、哺乳(ほにゅう)類約230種などが知られている。爬虫類の大部分は有鱗(ゆうりん)目のトカゲおよびヘビで、体長2メートル以上のオオトカゲ類(ゴアナ)、ニシキヘビ類を含む。毒ヘビが20種いるが人命にかかわるものはわずかである。鳥類のうち約530種が固有種である。ダチョウに似たエミューや長大な尾羽がハープに似たコトドリはそれぞれオーストラリア固有の科に属する。このほかコクチョウ、ワライカワセミ、ツカツクリなどが知られている。約60種に及ぶオウムが各地にみられ、住宅地の庭先に野生のオウムをみることも珍しくない。

 オーストラリアのカモノハシとハリモグラは、もっとも原始的な卵生の哺乳類すなわち単孔(たんこう)類で、オーストラリア以外ではニューギニアのナガハシハリモグラしか知られておらず、オーストラリアの動物のなかでももっとも珍しいものの一つである。カンガルーやコアラに代表される有袋(ゆうたい)類は、陸上に住む哺乳動物の過半を占める。有袋類は南アメリカ、オーストラリア、ニューギニアに固有の原始的な哺乳類で、今日ではオーストラリアでもっとも多様に進化しており、樹木におけるユーカリに相当する地位を占めている。一般の哺乳類(真獣類)と同様に、草食性ばかりでなく肉食性を含む多くの種類に分かれている。草食性有袋類のうち、種類数、個体数とも多いのは、カンガルーの仲間とクスクス(オポッサム。オーストラリアでは一般にポッサムとよび、大形の一部のポッサムをクスクスとよぶ)の仲間である。カンガルーは、体長30センチメートル足らずのものから、体長180センチメートル以上のものまで約40種に及び、そのほとんどが地上生活者である。なお、カンガルーという名が「私は知らない」という意味の先住民語に由来するという説には根拠がない。クスクス(ポッサム)は約40種に及び、その多くは樹上生活者で、木から木へと滑空できるものも数種ある。そのほかの草食性有袋類にはコアラやウォンバット、虫食を兼ねる雑食性有袋類としてはバンディクートがある。肉食性有袋類には、小形のフクロネズミなどや、大形のフクロオオカミタスマニアデビルなどがある。このうち、フクロオオカミはすでに絶滅したとされている。

 胎盤をもつ高等哺乳類(真獣類)は約100種であるが、ネズミやコウモリの仲間が多く、ヨーロッパ人が持ち込んで野生化したアナウサギやキツネ、そしてウシやヒツジなどの家畜を除けば、他の大陸で繁栄している真獣類はまったくみられない。有袋類以外の肉食獣としては、約9000年前に先住民の祖先とともにアジアから渡来し野生化したイヌといわれるディンゴがある。ディンゴは一度も人間に飼われたことがない真の野生種で、イヌとは別種であるとの説もある。

[今泉吉典・大場達之・谷内 達]

地誌


 オーストラリアの国土は、自然条件、土地利用、人口分布、都市の発達などを総合すると、大都市地域、人口稠密(ちゅうみつ)地域、人口希薄地域の三つの地帯に区分することができる。

[谷内 達]

大都市地域

州都・連邦首都および州都に隣接した11の都市圏、すなわちシドニー、メルボルン、ブリズベン、アデレード、パース、ニューカッスル、キャンベラ、ウロンゴング、ホバート、ジーロング、およびゴールド・コーストである。このうちキャンベラ以外の10都市圏はすべて海岸に位置している。この大都市地域には、全国の人口の約7割、工業労働力の8割余りが集中し、とくに二大都市シドニーおよびメルボルンだけで、全国の人口の約4割、工業労働力の約6割、銀行預金残高の約4分の3、主要100企業の本社の9割が集中している。大都市地域への集中の背景は、第一に、州都が州の行政中心地であるだけでなく、港湾都市および交通網の中心として、歴史的にもっとも早く開発され、奥地開発の拠点となったことである。とくに、各州が別個の植民地として発達し、現在の連邦制のもとでも、州の枠組みが行政的、経済的にきわめて重要であり、州内での中央集権的傾向が、各州都への機能集積と人口集中とをもたらした。第二に、大都市が、市場としての消費・流通機能だけでなく、工業都市としての生産機能をも兼ね備えていることである。第三に、移民の多くが、奥地へ向かわずに大都市に住み着いたことである。これは、奥地の人口収容力が限定されていたことと同時に、移民の多くが大都市居住を目的とした農村出身者であったためである。すなわち、農村から大都市への人口移動が国際的次元で進行したとみることができる。

[谷内 達]

人口稠密地域

土地利用が相対的に集約的で、中小都市および交通網が比較的発達している地域である。自然条件の点からは、作物生育期間が5か月以上の範囲から北部を除いた地域、土地利用の点からは、海岸地帯のサトウキビ、酪農、園芸などの集約的農業地帯から集約的牧畜地帯を経て、小麦・ヒツジ地帯に至る地域、そして人口分布の点からは、人口密度が1平方キロメートル当り1人以上の地域にほぼ相当する。この地域は、国土の約2割、人口の約3割を占める。人口稠密地域の成立には、相対的に集約的な土地利用を可能にした自然条件だけでなく、大都市地域への近接性(距離、輸送条件)が大きく影響している。

[谷内 達]

人口希薄地域

広大な無人地帯を含む文字どおりの人口希薄地域で、国土の約8割を占める。主たる経済基盤は粗放な牧畜と鉱産資源開発で、この地域の主要都市のほとんどは行政上の拠点あるいは鉱業関連都市である。なお、農牧土地利用区分のうえでは、この地域は「肉牛地帯」「ヒツジ地帯」とされており、あたかもこれらの地帯が肉牛あるいはヒツジの飼育に最適で同国の牛肉、羊毛の主産地であるかのような印象をもたれがちであるが、現実には人口稠密地帯のほうが肉牛やヒツジの飼育の点で適しており、生産性が高く生産量も多い。人口希薄地域での肉牛あるいはヒツジへの特化(優位にある商品生産に専門化すること)は、自然条件および市場からの遠隔性による制約から、ほかに選択の余地が乏しいことによる結果にすぎない。

[谷内 達]

中心州・周辺州・中間州

以上の3区分とは別に、各州の産業上の特色から、中心州、周辺州、中間州の三つに分けることができる。ニュー・サウス・ウェールズおよびビクトリア両州は、あわせて全国人口の約6割、農業生産額の約2分の1、工業生産額の約3分の2、そして輸入額の約4分の3を占め、相対的に工業に特化(専門化)した中心州である。これに対してクイーンズランド州、ウェスタン・オーストラリア州およびノーザン・テリトリーは、人口では全国の4分の1余りであるが、農業生産額の3分の1余り、鉱業生産額の6割余り、輸出額の4割余りを占めており、周辺州(資源州)としての性格が強い。サウス・オーストラリア州は農業および工業に、タスマニア州は農業にそれぞれやや特化し、中間州(準周辺州)として、中心州に強く結び付いている。なお、オーストラリアン・キャピタル・テリトリー(オーストラリア首都特別地域)は、ニュー・サウス・ウェールズ州内につくられた特別地域で、首都キャンベラを含む連邦政府直轄地区である。

[谷内 達]

歴史


 オーストラリアへの最初の移住者は、先住民アボリジニーの祖先であろう。その時期と経路は明らかではないが、3万8000年以上前に東南アジア方面から渡ってきたとされている。この人々は、農耕、家畜、金属を知らず、採集、狩猟、漁労に依存して、海岸地帯および一部の内陸河川沿いに生活していた。ヨーロッパ人入植以前の先住民人口は約30万人と推定されている。

[谷内 達]

ヨーロッパ人の来航

世界経済へのオーストラリアの関与は、インドネシアから大陸北岸への季節的往来によるナマコ漁を除けば、19世紀に入るまで皆無であった。ヤンス(来航1606年)からタスマン(同1642年、1644年)に至るオランダ人航海者やイギリス人ダンピア(同1688年)によって、大陸北岸、西部沿岸およびタスマニア島南岸の海岸線がヨーロッパ人に知られるようになったが、いずれもオーストラリアが不毛の地であるとの情報をもたらしたのみで、積極的な調査や植民には結び付かなかった。オーストラリアが植民可能な土地であるとの情報は、大陸東岸を1770年に調査したクックによって得られたが、イギリスがオーストラリアへの植民を決めたのは10年以上のちのことであり、しかもアメリカ合衆国の独立に伴う流刑先の代替地としてであったから、積極的な開発を企図していたとはいえない。

 1788年1月26日、「最初の船団」で到着した流刑者および軍人など約1000人が、現在のシドニーの地に上陸し、流刑植民地が発足した。この日は現在「オーストラリア・デー」とよばれる祝日になっている。東経135度以東の地域(タスマニア島を含む)がイギリスによって領有宣言され、ニュー・サウス・ウェールズ植民地となった。領有範囲は1825年に東経129度以東に拡大され、1827年に全大陸がイギリス領となった。

 1788年から1970年代に至るオーストラリアの歴史は、政治的、経済的に重要な三つの転換期(1850年代、1890年代および第二次世界大戦)を境に、四つの時期に分けることができる。

[谷内 達]

流刑植民地から自由植民地へ

第1期(1840年代まで)は、自由植民地への脱皮の時期であった。1820年代には軍政が終わり、自由移民の増加が顕著となった。流刑者受け入れも1840年から1853年にかけて次々に終了した。ただし、ウェスタン・オーストラリアのみは1849~1868年に流刑者を受け入れた。地理的には、フリンダーズの大陸一周航海(1802~1803)やウェントワースらによるブルー・マウンテンズ越え(1813)に代表されるように、沿岸各地および内陸の調査が進み、現在の各州都への入植が開始され、州の前身の植民地の基礎が築かれた。経済的にも、流刑植民地としての限定的自給方針から脱皮して、羊毛を中心とする植民地経済の基礎が形成された。羊毛の輸出は19世紀初頭に始まり、1830年代にはそれまでの捕鯨などの水産業にかわって主要輸出産業としての地位を獲得した。

[谷内 達]

植民地経済の自立

第2期(1850年代~1890年代)は、植民地経済の自立・発展期であった。1850年代には、東部5植民地が、また1890年にはウェスタン・オーストラリアも、選挙による議会と責任内閣制とを伴う自治植民地となった。一方、1850年代のゴールド・ラッシュは、人口の急増、農牧開拓の進展、交通の発達、都市化の進展、イギリス資本の流入など、大きな経済的、社会的影響を及ぼした。1870年代、1880年代には、内陸への粗放な放牧の拡大を含めて牧羊業が飛躍的に発展し、本国と植民地との国際分業の枠組みのなかで輸出産業としての重要性を著しく高めていった。この時期の鉄道網充実に象徴されるイギリスからの資本流入による公共投資と、冷凍船就航などの技術進歩によって、羊毛産業のほかにも小麦栽培、酪農、肉牛飼育が拡大し始めた。人口(先住民を除く)は1851年の44万から1861年には一挙に117万に急増し、1891年には324万に達したが、経済の実質成長率は人口増加率をさらに上回るものであった。しかし、イギリスからの投資とイギリスへの羊毛輸出に依存する植民地経済の弱点が、1890年代の大不況と干魃(かんばつ)によって露呈し、労働運動の高まりと労働党の結成、社会保障制度樹立などの動きを経て、連邦結成という新局面を迎えたのである。

[谷内 達]

連邦結成による自立と統一

第3期(1900年代~第二次世界大戦)には、連邦結成(1901)による政治的自立と国内統一とを背景に、移民、関税、労働、社会保障などに関する独自の政策、制度が形成されていった。経済的には、1890年代の苦い経験を踏まえた、経済的自立への構造調整期とみることができる。これは、国内産業構造および輸出構成における、羊毛依存からの脱却を意味した。小麦、酪製品、肉、砂糖など、羊毛以外の農牧産品が輸出品としての相対的重要性を高めた。また、鉄鋼や自動車をはじめとする本格的工業化が、第一次世界大戦後の1920年代に開始された。これらの構造調整過程の結実は、1930年代の大不況と第二次世界大戦を経て、戦後に持ち越された。

[谷内 達]

第二次世界大戦後

第4期の最大の特徴は、対外関係の変化であろう。第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国との対日共同行動を契機に、同国との結び付きが深まった。また、イギリスのEC(ヨーロッパ共同体、現EU=ヨーロッパ連合)加盟とともに、相対的なイギリス離れが進み、日本や東南アジアとの関係が重要な課題となった。経済的には、第3期からの構造調整の結実として、大量の資本および労働力の流入に支えられた、完全雇用を伴う経済発展期とみることができる。農牧産品のみならず、1960年代以降の鉱産資源開発の進展が、経済発展に大きく寄与した。このような、一次産品輸出に依存しつつ、国内的には産業保護、完全雇用、社会保障によって安定した高い生活水準を維持するという方式は、1970年代中葉に至って、そのままでは通用しなくなった。日本を含めた他の先進工業国と比べて、生活水準、社会保障水準はかならずしも著しく高いわけではなく、失業率と物価とがともに上昇するという、いわゆる先進国病的な悩みの点でも、他の先進工業国と共通である。したがって1970年代を境に、自由競争原理と経済効率を重視した新たな第5期に入ったとみることができる。

[谷内 達]

政治

政治制度

オーストラリアは、成文憲法をもつ議会制民主主義国家である。イギリス国王が同時にオーストラリア国王である形となっているが、実質的な国家元首は連邦総督であり、議会の招集・解散や閣僚の任免など最高の権限をもつ。ただし、その国事行為は通常慣例的に内閣の「助言」に従った名目的なものにすぎず、総督自身も、事実上内閣が人選し、通例オーストラリア人長老政治家が選ばれる。ただし最近では、このような形のうえでの君主制を廃止してカナダのように共和制に移行することも、現実の政治的課題として議論されている。1999年に実施された国民投票では共和制への移行は否決されたが、その後も議論は続いている。

 連邦議会は二院制である。下院は150議席で、人口分布に準拠した同数の小選挙区から選出され、任期3年である。上院は各州12、各直轄地区2、計76議席で、任期6年、3年ごとに半数改選(ただし直轄地区選出議員は任期3年)である。選挙区は、下院が1区1議席の小選挙区、上院は州あるいは直轄地区が1選挙区となっている。責任内閣制をとり、下院の多数党から首相が選出される。議会解散については、ときに上下両院の同時解散がある。

 主要政党は、労働党(1891結成)、国民党(旧地方党、1918)、自由党(1944)である。通常は自由党および国民党の保守連合と労働党との間で選挙が争われるので、事実上二大政党とみることもできる。オーストラリアでは、世界に先駆けて、1856~1879年に各植民地で記号式無記名投票制を採用した。現在もこの投票制は「オーストラリア式投票制」Australian ballotとよばれる。現在、18歳以上の男女に選挙権があり、あらかじめ候補者氏名が印刷された投票用紙に優先順位を最下位まで記入して投票する。投票は義務であり、棄権すると罰金が科せられる。

 連邦政府の権限は、憲法によって、外交、国防、移民、関税、所得税、外国貿易、州間通商、通信、貨幣、社会保障、2州以上にわたる労働仲裁など、特定の分野に限定されており、多くの行政分野は州政府の所管となっている。

 各州は自治植民地以来の長い伝統を背景に、連邦と同様、総督、議会、政府をもっている。州議会、州政府の権限と責任は、連邦議会、連邦政府に属さないすべての立法・行政機能に及ぶため、きわめて広い。たとえば、大学を含めて公立学校は州立であり、鉄道も原則として州営である。交通法規や酒類販売規制なども州によって異なる。地方自治体制度も州によって多少の差があるが、一般にその機能は日本の市町村に比べて著しく小さく、街路、公園、上下水道、保健衛生施設の維持を中心とした、基本的なコミュニティ・サービスに限られている。

[谷内 達]

外交・防衛

アメリカ合衆国、日本、EU諸国を中心とするいわゆる旧西側先進国との友好、協力関係と並んで、東南アジアをはじめとするアジア諸国との関係や、援助および核実験反対などを通じた南太平洋諸国との関係も緊密で、アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP(エスカップ))、太平洋共同体(旧南太平洋委員会)、太平洋諸島フォーラム(旧南太平洋フォーラム)などのメンバーであるとともに、東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))やアジア開発銀行との協力関係を維持している。また、イギリス連邦の一員として、イギリス連邦諸国との伝統的関係を維持している。

 国防政策の基本は、アンザス同盟によるアメリカ合衆国の安全保障体制のもとで一定の自主防衛努力を維持することにある。イギリス、ニュージーランド、マレーシア、シンガポールと五か国防衛協定を結んでおり、インドネシアおよびパプア・ニューギニアとも協力関係にある。2006年現在、常備兵力は陸軍約2万5300、海軍約1万2800、空軍約1万3100、合計約5万1200である。1964年に抽選式の徴兵制度が採用され、ベトナム戦争に兵力が投入されたが、1972年に廃止。現在はすべて志願制である。国家予算に占める国防支出の割合は約8.6%(2007)である。

[谷内 達]

経済・産業

構造的特徴

オーストラリア経済は、国内経済構造における工業国的な特徴と、輸出構成における一次産品輸出国的な特徴との、二つの顔をもっている。国内経済構造を国内総生産に占める各産業の構成比によって概観すると、その重点は農林水産業から工業へ、そして第三次産業へと移ってきている。労働力構成でもほぼ同様の傾向がみられ、農林水産業の就業者は約4.2%(2005)にすぎない。これは、都市部に人口の88%(2005)が集中しているという事実に対応している。輸出の産業別構成では、農林水産業の割合が低下し、鉱業および工業の割合が上昇してきているが、工業製品輸出においても農産・鉱産加工品への依存度が高い。

[谷内 達]

資源の開発・保全

国土の資源的価値は、水資源の不足、土壌条件、市場からの距離の制約により、その広大な面積に比べて著しく小さい。耕地(樹園地含む)はあわせて国土の6.4%(2005)にすぎず、土地生産性は日本に比べてきわめて低い。土地の資源的価値を高めるために、灌漑(かんがい)、土壌侵食対策、施肥(過リン酸肥料など)の努力が続けられている。水資源については、国内流水量は352立方キロメートルで、1人当り1万8351立方メートル。年間取水量は15.1平方キロメートルとなっており、水資源量に占める割合は4.3%である(2000)。森林(天然林)の面積は国土の5.4%(1995)であるが、そのうち経済的に開発可能な森林は約3分の1にとどまる。森林面積(人工林含む)は約1億6367万8000ヘクタールで国土の21.1%を占めている(2006)。

 土地、水、森林とは対照的に、鉱物やエネルギー資源は豊かである。19世紀以来の金、石炭、銅、鉛、亜鉛、鉄鉱石などに加えて、とくに1960年代以降、鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、ニッケル、原油、天然ガスなどが大規模に開発されてきている。原油の自給率が約71%(2005)であるほかは、多くの鉱産物が輸出されている。

 資源開発の一方で、資源保全、環境保護の問題があわせて考慮されている。水資源、森林資源の保全は政府の重要課題である。鉱産資源開発でも、グレート・バリア・リーフ(大堡礁(だいほしょう))の自然環境保護と石油探査との対立、ミネラル・サンド(ルチル、ジルコンなど)開発と海岸保全との調整、ボーキサイト採掘後の表土復原問題(ウェスタン・オーストラリア州)などの事例がある。ノーザン・テリトリーのウランおよびマンガン開発では、先住民の諸権利との調整が重要課題である。また、ウラン開発は国家的な環境監視体制のもとにある。

[谷内 達]

農林水産業

農林水産業の中心は、小麦、牛肉、羊毛などをはじめとする農業である。国土の約6割(4億4515万ヘクタール)が農用地であるが、耕地面積は農用地の約11%(4974万ヘクタール)で、大半は放牧地(牧場・牧草地)となっている(2005)。農場のほとんどが個人あるいは家族経営である。1農場当りの経営面積は、地域差、個別差が著しいが、経営類型別にきわめて大まかにいえば、果樹・野菜が20ヘクタール以下、サトウキビが40ヘクタール、酪農が80~200ヘクタール、小麦・ヒツジが800~1700ヘクタール、粗放な牧羊が平均4000ヘクタール、粗放な牧牛が平均1万5000ヘクタールといったところである。土地生産性の差が著しいので、経営面積と収益規模とは無関係である。

 農業を作物と畜産とに分けると、粗生産額による作物部門の割合が高まってきている。主要農畜産物は、小麦、牛肉、羊毛、果実・野菜、牛乳、サトウキビである。1950年代後半以来、小麦、牛肉、サトウキビの生産量が拡大してきたのに対して、羊毛は横ばい、牛乳は低下の傾向にある。ただし輸出面では、小麦および羊毛がもっとも重要で、牛肉および砂糖がこれに次ぐ。農業は、労働生産性が高く国際競争力のある輸出産業として、国民経済において重要な地位を占めている。しかし、酪農などの不振部門も抱えており、マーケティング・ボード(流通調整のための政府機関)による流通対策や、価格保証制度、生産割当てなど、直接間接に政府の政策的援助が重要な役割を果たしている。

 林業における木材伐採量は3387万3000立方メートル(2006)で、日本の約1.4倍にあたり、その約6割が広葉樹(おもにユーカリ)である。日本にチップを輸出しているが、これに対しては、国内の森林資源保護の点から一部に反対論もある。

 水産業の中心はクルマエビ、イセエビなどの甲殻類で、エビ類は水産業粗生産額の4割余り、輸出額の約7割を占める(2002)。そのほかには、マグロなどの魚類、カキなどの貝類、養殖真珠などがある。海洋水産物生産量は日本の約4.8%(2006)、食用水産物の1人当り消費量は22.3キログラムで、日本(66.3キログラム)の約3分の1である(2002)。1979年に200海里水域が設定され、日本とは日豪漁業協定が結ばれている。

[谷内 達]

鉱工業

鉱業は、未加工のまま鉱産物を輸出するだけでなく、国内での精錬・加工を通じて、工業の生産・輸出にも寄与している。とくに非鉄金属の多くは、国内で精錬・加工されてから工業製品として輸出される。日本への鉱産物輸出が著しく未加工鉱産物に偏っているために見落とされがちであるが、このような工業部門との関連における鉱業の重要性は、オーストラリアの工業化にとって欠かすことのできない要素であり、今後の国内精錬・加工の進展が課題となっている。

 工業は、資源加工・輸出型と、国内市場向け・輸入代替型との二つの性格をあわせもっている。前者の代表は食品および金属精錬で、輸出依存度が高く、工業製品輸出額の2分の1余を占める。後者は繊維、衣料品、製紙、金属加工、自動車、機械などで、一般に関税や補助金などによる保護水準が高いが、輸入依存度も高い。また、輸出型、輸入代替型を問わず、一般にオーストラリアの工業は、狭い国内市場規模を基盤に、保護政策と海外からの資本・労働力の流入に支えられながら、規模の経済(生産規模を拡大して収益の増大を保つ経済)を達成しようと努力してきたため、企業集中度が高く、外国資本の影響力が強い。企業集中度はとくに鉄鋼、非鉄金属、自動車などで高く、外資集中度はとくに自動車、化学、石油で高い。企業集中と外資進出とを伴う保護政策によって発達したオーストラリアの工業は、国内での直接的な雇用および付加価値の創出・維持と、第三次産業への産業連関効果とによって、国民経済に寄与している。

[谷内 達]

輸出入

貿易依存度は、輸出15.8%、輸入17.8%(2006)で、日本やアメリカ合衆国より高いが、先進工業国のなかでは低いほうである。貿易の第一の特徴は、基本的に食料・原料・鉱物を輸出し、工業製品を輸入していることである。輸出に関しては1960年代以降、羊毛の比重が低下し、鉱産物や製造加工品が急増するという変化はあったが、いまも食料、原料、燃料が輸出額の2分の1余を占めている。第二の特徴は、貿易相手国の変化であり、イギリスの地位が著しく低下し、日本、アメリカ合衆国、中国および東アジア、東南アジア、オセアニア諸国の割合が増加したことである。なかでも中国、日本、アメリカの割合が高く、この3国で輸出の38.1%、輸入の38.1%を占めている(2006)。

[谷内 達]

金融・財政

貿易収支は一貫して黒字であったが、1980年代初めに悪化した。さらに貿易外収支が赤字であるため、経常収支はおおむね赤字であり、これを外国資本流入などによる資本収支の黒字で埋めている。国別の経常収支は、日本に対して黒字で、中国、アメリカ合衆国およびイギリスに対しては赤字である。通貨(オーストラリア・ドル)は1970年代以降、米ドルや日本円に対して長期的に低落傾向にある。外国資本に対しては、国際収支均衡および国内経済の拡大と効率化への役割を評価して、一般に開放的である。外国資本の投資先は製造業や鉱業が多かったが、最近では金融、保険、不動産、観光、サービスなどへの投資が中心になってきている。

 金融では、銀行のほか保険会社、証券会社、各種金融会社(マーチャント・バンクなど)が重要な役割を果たしている。中央銀行であるオーストラリア準備銀行(RBA)やオーストラリア資源開発銀行、第一次産業銀行のような政策金融銀行を連邦政府が運営するとともに、一般の銀行業務を商業銀行(連邦政府出資の連邦商業銀行を含む)が担当している。このほか、貯蓄銀行および住宅貯蓄組合が住宅金融を行っている。

 財政の特色は、州政府の権限と責任が大きいのに比べて、歳入面では連邦政府が重要な役割を果たしていることである。これは、連邦政府が所得税(個人および法人)徴収や起債権限をもつことをはじめとして歳入基盤が強いのに対し、州政府の税収源が限られているためである。したがって連邦政府の総歳出の約4分の1が交付金および貸付として州政府に移転される。この移転額は州政府の歳入の約2分の1近くに相当する。交付金のかなりの部分は、面積、人口などの客観的指標による基準でなかば自動的に配分され、財政基盤の強い州から弱い州への再配分効果が強かったが、最近ではそれがやや薄れて実質的な目的、内容に則して配分されるようになってきている。

[谷内 達]

交通

国土の広いオーストラリアでは交通の役割はきわめて重要である。国内旅客輸送では、各都市を結ぶ航空路線網の発達と乗用車の利用の多いことが特色である。鉄道は、大都市圏の近距離大量輸送を除くと、乗用車や長距離バスに比べてもその役割は小さい。国内貨物輸送量(トンキロ)の内訳は、道路輸送が約44%、鉄道(鉄鉱石専用鉄道を含む)が約41%、海運が約14%(2003推定)で、1980年代以降、海運の役割が低下し、道路輸送の役割が強まってきている。

 航空は国内の都市間輸送の主役で、カンタス航空の国内部門(旧オーストラリア航空)とアンセット航空の二大航空会社およびこれら2社の系列の航空会社7社が各都市を結んでいた。しかし、2001年9月アンセット航空の経営悪化により親会社のニュージーランド航空が経営権を放棄、これによりアンセット航空および系列会社の運航が全線停止となり、これらの航空会社は事実上倒産した。その後、政府の援助を受け、アンセット航空はアンセットマーク2として一部国内線の運航を、さらに系列会社も州政府の援助を受けるなどして独自に運航を再開したが、2002年3月には国内線の運航も停止、約65年の歴史に終止符を打った。オーストラリアの国内線はバージンブルー航空、ジェットスター、リージョナル・エクスプレスなどが営業を行っている。なお2001年現在、オーストラリアとその領土内で認可されている空港の数は281あり、そのうち国際定期便の発着する国際空港は10ある。このほか小型機による地方航空会社が小都市や辺地を結んでおり、さらに自家用機の利用も発達している。国際定期旅客輸送はアンセット航空の国際線停止により、その9割をカンタス航空が占めることとなったが、2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件やその後の世界的な景気後退の影響を受け国際線市場は低迷している。

 鉄道(鉄鉱石専用鉄道を除く)の総延長3万9844キロメートル(2001)のうち、ニュー・サウス・ウェールズ州(大部分)、ビクトリア州、クイーンズランド州、サウス・オーストラリア州(州都圏のみ)、ウェスタン・オーストラリア州(大部分)については各州政府が運営し、その他は連邦政府が運営する。また州間貨物輸送は連邦政府、州政府の共同出資による別の機関が運営している。

 道路の総延長は約91万3000キロメートルで、舗装率は38.7%(日本の道路舗装率79.3%の約2分の1)である(2005)。都市間の高速道路は無料で、都市部以外の幹線道路では速度制限が100キロメートル前後であり、時間距離では日本の高速道路並みである。

[谷内 達]

社会

住民

オーストラリアの社会は、第二次世界大戦後の移民政策の結果、南欧・東欧系やアジア系の住民が増加して著しく多様化し、イギリス系住民の割合は4分の3足らずへと低下した。現行移民政策では、一定の客観的条件に合致する限り、いっさいの人種、国籍などによる区別をしないことが明確に規定されている。1980年代の移民流入のほぼ半数が東南アジア系を中心とするアジア系移民で、総人口に占めるアジア系住民の割合は約7%(2005推定)に達し、北米やブラジルなどを上回る。ヨーロッパ系住民に限ってみても、南欧・東欧系住民によって多様化が進み、アメリカ合衆国に準じた複合社会的性格が強まっている。英語以外の言語による新聞・雑誌も売られ、テレビ放送も行われている。先住民に対しては、現在では法律上、制度上の差別はなくなり、実質的な地位向上対策が課題である。すでに伝統的な採集狩猟生活者は皆無というべきで、約半数が都市生活者である。

[谷内 達]

国民生活

人口増加率は移民流入の動向に左右される。たとえば1970年代には経済情勢や生活水準の伸び悩みを反映して移民流入が減少し、人口増加率が低下した。

 1人当り国内総生産(GDP)は日本のほぼ90%(2005)であるが、物価水準などを考慮すると実質的には大きな差はない。また賃金水準も日本とほぼ同水準であり、男女間の格差は日本よりもはるかに小さい。オーストラリアの生活水準が世界的に高水準であることは事実であるが、日本を含めた先進国のなかでとくに高いわけではない。たとえば住宅については、持ち家が3分の2を占め、床面積が広いなど、日本に比べると高水準であるが、アメリカ合衆国ほどではない。とくに大都市地域では、所得に対する住宅の相対価格が、地価上昇も含めて上昇しており、集合住宅が増え、床面積が小さくなる傾向にある。

 1960年代まで2~3%であった消費者物価上昇率は、1970年代、1980年代には5~10%へと上昇し、ようやく1990年代に入って2%台に戻った。2000年代に入って以降は2~4%台で推移している。また失業率は1970年代前半までの完全雇用に近い水準(2%以下)から、その後は8%前後の高率が続き、1990年代にはさらに悪化した。しかし2000年代に入ると6%台となり、2007年現在では4.3%と低下している。

 労働組合は、主として職能別組合で、長い歴史的伝統を誇るが、組織率は1980年代の55%から33%(1995)、23%(2002)へと低下してきている。労働運動の伝統を反映して、最低賃金制、週5日・40時間制、年次有給休暇(3~4週間)制などの諸制度が早くから発達してきた。また、ストライキに至らずに労使紛争を解決するために、強い権限をもつ調停仲裁制度が設けられている。多くの労使紛争がこれによって解決されているが、日本に比べてストライキが多いことも事実である。しかしこれは、先進工業国のなかで日本がストライキのきわめて少ない国であるためで、他の先進工業国に比べて、とくにオーストラリアでストライキが多いわけではない。

[谷内 達]

教育

教育は原則的に州政府の責任であり、教育制度は州によって多少異なる。小学校は6~7年制、中等学校は5~6年制、あわせて12年間で、義務教育期間は6~15歳の10年である(タスマニア州は16歳まで)。高等教育機関としては、大学(3~6年制)と専門学校(半年~3年制)がある。39校ある大学(総合大学)のほとんどが国公立(国立および州立)である。大学への進学率は日本よりやや低いが、大学と専門学校とをあわせると日本の大学や短大への進学率と大差ない。

[谷内 達]

福祉

1909年の老齢年金発足以来、オーストラリアは、世界でもいち早く多種多様の社会保障、福祉制度を発達させてきた。その中心は政府の財源に依存した無醵出(むきょしゅつ)・直接支給方式による年金・手当である。しかし、このような手厚い制度は高水準の税負担を伴うものであり、高福祉、高負担社会の問題を避けることはできない。また諸制度がすでにほぼ完備してしまったことと、財源上の制約とによって、今後の大幅な福祉政策の拡大は期待しにくくなっており、受益者負担のような側面を加味せざるをえなくなっている。たとえば、1975年7月に発足した医療費無料化(国庫負担)制度は、財源難でたちまち実行不可能となり、1976年10月に醵出制の一般的な健康保険制度に切り換えられた。

 政府による直接的な社会保障、福祉行政のほかに、政府からの補助を受けながらも、民間団体による事業も発達している。高齢者への食事配達サービスや、奥地のフライング・ドクター・サービス(航空機利用の往診)なども、民間団体の事業である。

[谷内 達]

文化

国民性

オーストラリア人の国民性に関連してしばしば用いられることばは、「平等主義」あるいは「仲間意識(マイトシップ=メイトシップmateshipのなまり)」であろう。これらは、反エリート的、反権力的、弱者保護的な相互扶助精神ともいうべきもので、この国の民主政治、労働組合運動、社会保障制度などの発達も、このような平等主義的伝統に裏づけられたものであるといわれている。また日常生活においても、少なくとも表面上は、社会的な階層や立場の差を感じさせない習慣がみられる。ホテルやレストランで原則としてチップが不要なことや、タクシーの乗客が助手席に座ることなどが、身近な例としてしばしば指摘される。さらに、オーストラリア人の気質が一般に気さくで人なつこいといわれることも、このような平等主義的伝統に関係しているといわれている。

 また、オーストラリア人の特徴として、開拓者的、農民的な、荒削りの「たくましさ」がしばしば指摘されている。シドニーのような大都市をも含め、「農業祭」が地域社会での重要な年中行事であることや、キャンプ、バーベキュー、各種スポーツのような、体力、時間、空間を多く要する野外活動が盛んであることも、この点に関連して理解されることが多い。

 オーストラリア人の国民性に関するこれらの特徴は、主としてイギリス系オーストラリア人によって歴史的に形成されてきたものであり、あくまでイギリス人との比較のうえでの相対的なものにすぎない。したがって、すでに工業化、都市化が進み、また非イギリス系オーストラリア人の影響が増しつつある今日において、額面どおり通用するわけではない。オーストラリア人の大部分は、他の先進国の多くの人々と同様に、冷暖房設備と電気製品のある家に住み、自動車を乗り回し、肥満を気にする都市生活者であり、もはや往時の「たくましさ」からは縁遠い、とするほうが現実に近いであろう。

[谷内 達]

文化・芸術

オーストラリアの文化は、先住民起源のものを別にすれば、イギリス文化を基盤にして、これにオーストラリア独自の要素が加わって発達してきたものである。アメリカ文化の影響は、開拓時代の駅馬車、現代の自動車、ハンバーガーやコーンフレークなど、生活文化の物質面にみられるが、全体的には予想外に小さい。オーストラリアの文化が、とくに第二次世界大戦後、イギリス的要素を弱めつつあることは事実としても、単なるアメリカ化ではなく、移民構成の変化に伴う南欧などの諸文化の影響を含めて、多様化の道をたどっているとみるべきであり、新しいオーストラリア文化が形成途上にあるといえる。

 オーストラリアの都市には、文化・芸術関係の施設がよく整っている。各州都に、かなりの規模と水準とを誇る博物館、図書館、美術館、植物園、音楽堂およびオーケストラなどがそろっており、中小都市にも図書館やスポーツ施設がそろっている。また、オーストラリアの歴史を見直す動きが活発で、各地に郷土歴史資料館がある。さらに歴史的に重要な建造物や景観を維持管理、復原、保全するための財団(ナショナル・トラスト)が活躍している。

 音楽、美術、文学、映画などの芸術活動の多くは西欧諸国一般と共通で、音楽家のネリ・メルバのようにオーストラリア出身で国際的に活躍している芸術家も少なくない。これらの一般的な芸術活動のほかに、オーストラリア独自の風土、歴史、社会に題材を求めた芸術活動も評価が高まってきており、ノーベル賞作家ホワイトPatrick White(1912―1990)のように国際的に評価される者も登場している。

[谷内 達]

日本との関係


 日本人とオーストラリア人との接触の記録は、日本では1831年(オーストラリア捕鯨船の北海道上陸)、オーストラリアでは1867年(日本人芸人の興行)にそれぞれさかのぼることができるが、実質的な日豪関係は、真珠貝採取のための日本人労働者の渡豪の始まった1870年代からといえる。日本人の渡豪は、真珠貝採取やサトウキビ農園労働の労働者が中心で、1880年代以後本格化したが、まもなくオーストラリアの移民政策のもとで衰微していった。

 羊毛貿易は1879年に始まり、1890年の兼松(かねまつ)商店進出(シドニー)による直接買付けで本格化し、その後長い間、日豪貿易の中心となった。第二次世界大戦後の日豪貿易再開時にも羊毛が中心であったが、1960年代以降、肉類、砂糖、鉄鉱石、石炭など品目が多様化してきている。オーストラリアは、日本にとってこれらの商品の重要な供給国であり、日本はオーストラリアにとって、これらの商品を中心に、輸出全体においても最大の市場になっている。また日本はオーストラリアに自動車、自動車部品、映像機器などを輸出しており、オーストラリアにとってこれら商品の対日輸入依存度はきわめて高い。このような貿易の拡大に伴い、砂糖、牛肉、自動車などの輸入規制や価格をめぐって、ときにトラブルも生じる。

 両国間の外交関係は、19世紀末のタウンズビルやシドニーへの日本領事館設置を経て、通商協定(1936年)、公使館開設(1940年東京、1941年キャンベラ)へと進展したが、太平洋戦争により中断した。なお日本は、オーストラリア本土を攻撃した唯一の国である。戦後は、1952年東京、1953年キャンベラにそれぞれ大使館が置かれて外交関係が再開され、1957年の通商協定を経て、1976年には経済関係の枠を越えた包括的な友好を目ざして友好協力基本条約が結ばれるに至った。同年発足した豪日交流基金による事業をはじめ、文化交流も活発になりつつある。なお、友好協力基本条約署名30周年にあたる2006年(平成18)は日豪交流年とされた。また、名古屋市(対シドニー)など6都府県99市区町村6港(2005)が、オーストラリアの州、都市、港と姉妹関係にある。2007年現在の在豪日本人は約6万3500人、在日オーストラリア人は約1万1400人である。このほかに2007年には年間約57万人の日本人がオーストラリアを訪れ、約22万3000人のオーストラリア人が日本を訪れている。

 オーストラリアでの日本語教育は1917年にさかのぼることができるが、とくに最近の進展は著しく、2003年現在、高等教育機関61、初等・中等教育機関2081、学校教育以外の機関67において日本語教育が行われ、約38万1000人が学んでいる。日本語学習者数は韓国(89万4000人)、中国(38万7000人)に次いで世界第3位となっている。またオーストラリア国立大学をはじめいくつかの大学では、日本語のみならず、日本の歴史、政治、経済、文化など幅広い高水準の日本研究が進められている。

[谷内 達]

『M・クラーク著、竹下美保子訳『オーストラリアの歴史――距離の暴虐を越えて』(1978・サイマル出版会)』『J・ブレイニー著、長坂寿久・小林宏訳『距離の暴虐』(1980・サイマル出版会)』『橋爪若子著『オーストラリア入門』(1985・古今書院)』『金田章裕著『オーストラリア歴史地理』(1985・地人書房)』『C・マクグレガー著、穐田照子訳『オーストラリアの人々』(1987・PMC出版)』『関根政美他著『概説オーストラリア史』(1988・有斐閣)』『堀武昭著『オーストラリアの日々――複合多文化国家の現在』(1988・日本放送出版協会)』『川口浩・渡辺昭夫編『太平洋国家オーストラリア』(1988・東京大学出版会)』『L・キルマーチン他著、吉井弘訳『オーストラリアの社会構造』(1988・勁草書房)』『R・テリル著、田村泉訳『オーストラリア人』(1989・時事通信社)』『中野不二男編『もっと知りたいオーストラリア』(1990・弘文堂)』『藤川隆男著『オーストラリア歴史の旅』(1990・朝日新聞社)』『竹田いさみ著『移民・難民・援助の政治学――オーストラリアと国際社会』(1991・勁草書房)』『岩本祐二郎著『オーストラリアの内政と外交・防衛政策』(1993・日本評論社)』『V・カラン著、関根政美・関根薫訳『オーストラリア社会問題入門』(1994・慶應通信)』『P・ハゲット他編、谷内達訳『図説大百科世界の地理23 オセアニア・南極』(1997・朝倉書店)』『ジェフリー・ブレイニー著、加藤めぐみ・鎌田真弓訳『オーストラリア歴史物語』(2000・明石書店)』『河合利光編著『オセアニアの現在――持続と変容の民族誌』(2002・人文書院)』『小山修三・窪田幸子編『多文化国家の先住民――オーストラリア・アボリジニの現在』(2002・世界思想社)』『島崎博著『オーストラリア――未来への歴史』(2004・古今書院)』『藤川隆男編『オーストラリアの歴史――多文化社会の歴史の可能性を探る 世界に出会う各国=地域史』(2004・有斐閣)』『石田高生著『オーストラリアの金融・経済の発展』(2005・日本経済評論社)』『竹田いさみ・森健・永野隆行編『オーストラリア入門 第2版』(2007・東京大学出版会)』『社本一夫著『オーストラリア歴史と自然の紀行』(2008・西田書店)』『ウォーレン・リード著、田中昌太郎訳『オーストラリアと日本――新しいアジア世界を目指して』(中公新書)』『遠藤雅子著『オーストラリア物語――歴史と日豪交流10話』(平凡社新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
Australia

正式名称 オーストラリア連邦 Commonwealth of Australia。
面積 768万8126km2
人口 2589万2000(2021推計)。
首都 キャンベラ

オーストラリア大陸およびタスマニア島などからなる国。イギリス連邦の構成国。国名はラテン語のテラ・アウストラリス(南方の大陸の意)に由来。17世紀のオランダ人航海家アベル・J.タスマンの来航,1770年のジェームズ・クックの東海岸上陸ののち,1788年のニューサウスウェールズ植民地発足がこの国の起源。その後 19世紀前半にタスマニア,ビクトリア,クイーンズランドの各植民地が分離し,サウスオーストラリア,ウェスタンオーストラリの両植民地が建設され,今日の州の原型が成立した(→ニューサウスウェールズ州タスマニア州ビクトリア州クイーンズランド州サウスオーストラリア州ウェスタンオーストラリア州)。1901年に連邦を結成。植民地の後身である 6州と,ノーザンテリトリーと呼ばれる准州,オーストラリアンキャピタルテリトリーと呼ばれる連邦政府直轄地区により構成される。連邦が外交,軍事,貿易などかぎられた権限を州から委譲されているほかは,州政府が広い権限をもち,政治的経済的社会的には州が重要な地域単位である。住民のうちオーストラリア先住民は全人口の 2.5%にすぎない。ほかはイギリス系やアイルランド系が多いが,特に第2次世界大戦後は南ヨーロッパ系や東ヨーロッパ系の住民が増え,大都市にこの傾向が著しい。1979年に「白豪主義」を制度上撤廃し,アジアからの移民も増加,今日では約 7%に達している。都市人口は全人口の 85%を占め,州都およびキャンベラなど 10万以上の都市に 70%以上が集中している。これは大陸の自然条件および交通条件により,居住適地が東部,南東部,南西部の狭い海岸にかぎられることと,州経済の中心としての州都の重要性が高いことのためである。高い生活水準と進んだ社会福祉制度を支える経済は,農牧業および鉱業に依存してきた。農牧業従事者は少ないが,関連する 2次産業,3次産業への波及や輸出において重要。羊毛,肉,コムギ,酪製品など農牧産品は,1990年代初めには輸出額の約 40%を占めていたが,2010年には約 10%まで減少している。鉱業は 19世紀以来の金,石炭,非鉄金属(銅,鉛,亜鉛)に加え,第2次世界大戦後,特に 1960年代以降,鉄鉱石,原料炭,ボーキサイト,ニッケル,ウランなどの大規模な開発により,輸出においても関連工業への波及や辺地の開発の点からも重要性が増大し,2010年には輸出額の約 70%を占めた。工業は鉄鋼,自動車をはじめ国内市場向けの諸製品の生産と,農牧業,鉱業,エネルギー資源を背景とした資源関連工業に特色がある。非イギリス系住民の増加,アメリカ合衆国や日本,東南アジアとの経済関係の強化により,イギリスとの関係は相対的に弱まってきている。公用語は英語。(→オーストラリア史

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