八幡製鉄所(読み)ヤハタセイテツジョ

デジタル大辞泉 「八幡製鉄所」の意味・読み・例文・類語

やはた‐せいてつじょ【八幡製鉄所】

明治34年(1901)日本初の銑鋼一貫操業を開始した官営製鉄所。昭和9年(1934)半官半民日本にほん製鉄となり、第二次大戦後、過度経済力集中排除法などに基づき八幡製鉄富士製鉄など4社に分割、昭和45年(1970)に富士製鉄と合併して新日本製鉄となる。平成27年(2015)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の名で、旧本事務所・旧鍛冶工場・修繕工場・遠賀川水源地ポンプ室の四つの関連施設が世界遺産文化遺産)に登録された。

やわた‐せいてつじょ〔やはた‐〕【八幡製鉄所】

やはたせいてつじょ

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精選版 日本国語大辞典 「八幡製鉄所」の意味・読み・例文・類語

やはた‐せいてつじょ【八幡製鉄所】

  1. 明治三四年(一九〇一)、福岡県の八幡[ 一 ]で日本初の高炉による銑鋼一貫生産を開始した官営製鉄所。軍需産業の基幹として政府と軍の管轄下におかれ、日本鉄鋼業の発達を主導した。昭和九年(一九三四)半官半民の日本製鉄株式会社となり、第二次世界大戦後は、富士製鉄、八幡製鉄などに分割解体したが、昭和四五年に再合併して新日本製鉄となる。

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日本歴史地名大系 「八幡製鉄所」の解説

八幡製鉄所
やはたせいてつじよ

明治三四年(一九〇一)に官営製鉄所として操業を開始した日本初の近代的な銑鋼一貫製鉄所。第二次世界大戦前における日本鉄鋼業の発展過程において、つねに中心的な役割を果した。なお官営製鉄所時代、正式には八幡製鐵所と記し、その後の合併による日本製鉄、第二次世界大戦後の分割による八幡製鉄、現在の新日本製鉄も社名はいずれも「鐵」の字を用いている。

製鉄所の設立構想は、明治二四年に松方正義内閣が第二回帝国議会に提出した海軍省所管製鋼所案が最初である。しかし民党の民力休養論により第二・第三回議会で二度にわたって否決された。代わって第三回議会で貴族院建議案として農商務省所管の製鉄所建設案が提出され、製鋼事業調査委員会が設置された。日清戦争後の第八回議会で製鉄所設置建議案は可決される。この可決と農省務大臣の官設案をふまえて同二九年の第九回議会で四ヵ年事業として予算化され、製鉄所官制が公布された。建設地は東京・横浜、大阪・神戸、尾道おのみち三原みはら海峡、広島ひろしまくれ海峡、門司もじ馬関ばかん海峡が第一次候補となったが、近傍に産炭地があることから北部九州地方に絞られた。福岡市や糟屋かすや多々良たたら(現福岡市東区)なども誘致に動いていたが、遠賀おんが川の舟運により筑豊炭田の石炭積出しの恩恵にあずかれる遠賀郡八幡村(現八幡東区)企救きくやなぎうら(現門司区)大里だいり、同郡板櫃いたびつ村から選択することとなった。しかし鉄道しか輸送手段のない板櫃村は候補から落ち、最終的には八幡村と大里との争いとなった。

内湾である洞海どうかい湾の南岸に位置する八幡村は、艦砲の直接射撃を受ける可能性は低く、地盤は花崗岩質で堅く、比較的広大な土地が確保でき、かつ自然傾斜を利用して大蔵おおくら(板櫃川の上流)の水を導水できるなどの利点をもっていた。また石炭輸送の面でも洞海湾がほり川を経由して遠賀川とつながっていることから、筑豊炭田の石炭を鉄道だけではなく川によって製鉄所に直接搬入することが可能であった。ただし洞海湾は水深が浅く大型船が入港できないため、鉄鉱石の移入・輸入、製品の移出・輸出に困難が予想された。これに対して大里は、関門海峡に面しているため艦砲の直接射撃を受ける可能性が高く、水源・土地に乏しく、かつ石炭の搬入においても、鉄道では八幡より遠距離となり、舟運利用の場合は芦屋あしや(現芦屋町)、もしくは若松わかまつ(現若松区)で川からより大型の船への積替えが不可欠となるなど、八幡と比較すると不利な点が多かった。

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改訂新版 世界大百科事典 「八幡製鉄所」の意味・わかりやすい解説

八幡製鉄所 (やはたせいてつじょ)

〈やわたせいてつじょ〉とも呼ぶ。1901年(明治34)に官営製鉄所として操業を開始して以降,第2次大戦前の日本鉄鋼業の発展過程において一貫して中心的役割を果たした近代的な銑鋼一貫製鉄所。設立当初は,正称ではあるが,名なしにも等しい〈製鉄所〉(農商務省所管,1925年以降は商工省所管)という呼名しかなかったが,しだいに八幡製鉄所と呼ばれるようになっていった。1925年以降日本の近代化・資本主義化を推進するうえで鉄鋼業の保護・育成は軍事上・経済上不可欠であったが,とくに日清戦争の勃発(1894)により,官営製鉄所の建設が急務となり,1896年第9回帝国議会において農商務省所管の製鉄所建設案が可決成立し,同年3月製鉄所官制が公布された(4月1日施行)。製鉄所の所在地に福岡県遠賀郡八幡村が選ばれ,設備・技術面ではドイツに依存し,建設資金の一部には日清戦争の賠償金があてられた。原料の鉄鉱石については,当初国産鉱石の使用も考慮されたが,中国の大冶鉄鉱石を主として使用(朝鮮鉄鉱石も利用)することになった(〈漢冶萍煤鉄公司(かんやひようばいてつコンス)〉の項参照)。操業開始直後は高炉(溶鉱炉)の故障等により不振であったが,日露戦争中の拡張により生産は軌道に乗り,以後3期にわたる大拡張工事を経て,1929年度には銑鉄78万t,鋼材106万tを生産するに至った。この間,設備建設面で膨大な国家資金投資がなされただけでなく,原料確保に際しても国家資金が投入された。1904年から27年に至る大蔵省預金部資金融通による大冶鉄鉱石確保である(大冶借款または漢冶萍借款)。同様の方式は,中国桃冲鉄鉱石およびイギリス領マレーのジョホール鉄鉱石の確保に際しても適用された。さらに,製品販売面においても,当初は軍・官庁需要(国家市場)が中心であったが,1920年代には一般民需が過半を占め,欧米輸入鋼材を防ぐうえで同所は中心的役割を果たした。33年3月に日本製鉄株式会社法案が成立,翌34年1月日本製鉄(株)設立により,同所は日本製鉄(株)の八幡製鉄所となった。また同所は戦後の50年,日本製鉄解体・分割により八幡製鉄(株)八幡製鉄所となり,70年の八幡製鉄(株)・富士製鉄(株)合併による新日本製鉄(株)成立以降は同社八幡製鉄所として今日に至っている。最新鋭設備を備え,現在においても同社の主力製鉄所の一つとなっている。
鉄鋼業
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八幡製鉄所」の意味・わかりやすい解説

八幡製鉄所
やわたせいてつじょ

かつての日本最大の鉄鋼会社。明治中頃,特に日清戦争を契機として鉄鋼の需要が増え,また軍備増強および産業資材用鉄鋼の生産増大をはかるため,1896年の第9回帝国議会で官営製鉄所建設案が可決,翌 1897年筑豊炭田を後背に抱える福岡県八幡村枝光(今日の北九州市八幡東区)で建設が開始された。設計から建設までをドイツのグーテホフヌングスヒュッテが担当。1899年中国湖北省ターイエ(大冶)鉄鉱山の鉄鉱を原料とする長期契約が結ばれ,1901年2月5日,日本初の銑鋼一貫製鉄所(→銑鋼一貫作業)として操業を開始。設立当初は農商務省の管轄であったが,1925年商工省の所管となった。日露戦争後は飛躍的発展を遂げて北九州工業地域の主要工場となり,当初 6万tの生産を目標にしていたが,操業十数年後には全国生産の 7~8割を占めた。1934年製鉄大合同により日本製鉄所属となり,第2次世界大戦後の 1950年,日本製鉄が過度経済力集中排除法の適用を受けて分割されたことにより,富士製鉄とともにその第二会社,八幡製鉄として発足。1970年再び富士製鉄と合併して新日本製鐵となった。戦前日本の近代化を推進する重工業の発展過程において中心的役割を果たした存在であるとして,2015年,官営八幡製鉄所関連施設が「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録された。(→鉄鋼業

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八幡製鉄所」の意味・わかりやすい解説

八幡製鉄所
やはたせいてつしょ

第二次世界大戦前、日本の鉄鋼業において中心的役割を担った官営製鉄所。明治20年代の近代工業の発達と日清(にっしん)戦争を契機とする鉄鋼需要に応じるため1896年(明治29)に公布された「製鉄所官製」に基づき、日清戦争による賠償金の一部を使用しドイツ人技師の指導を受けて福岡県八幡村に建設された。1901年(明治34)に第一高炉に火入れし、わが国初の近代的銑鋼一貫工場として操業を開始した。日露戦争後の鉄鋼需要の急増に対して相次ぎ拡張計画を実施、第一次世界大戦による鉄鋼ブームのもとで1916年(大正5)に粗鋼年産100万トンを目標とする第三次拡張計画に着手した。しかし、大戦後の慢性的な不況と外国鋼材のダンピング攻勢によって日本の鉄鋼業は大きな打撃を受け、官営製鉄所も厳しい合理化を迫られた。そうした状況下で鋼材の安定自給を目ざして官営製鉄所は民間製鉄5社と合併、1934年(昭和9)に日本製鉄となった。これに伴い「製鉄所」は正式名称を「八幡製鉄所」と改めた。

[中村清司]

『八幡製鉄株式会社編・刊『八幡製鉄所五十年史』(1950)』『新日本製鉄株式会社編・刊『八幡製鉄所八十年史』(1980)』

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百科事典マイペディア 「八幡製鉄所」の意味・わかりやすい解説

八幡製鉄所【やはたせいてつしょ】

日本最初の一貫製鉄所。主として軍事的要請から官営製鉄所設置がきまり,1896年官制公布,現在の北九州市八幡東区枝光に建設開始,1901年一貫全工程が操業された。以後,中国大陸の原料(おもに漢治萍煤鉄公司による)と結合して拡大,1934年年産能力銑鉄140万t,粗鋼170万tに達した。同年日本製鉄に大合同,その中核事業所となり,第2次大戦後の1950年八幡製鉄(株)の主工場となる。1970年八幡製鉄が富士製鉄と合併して新日本製鐵(株)が設立され,同社に所属。2015年,旧本事務所,修繕工場,旧鍛冶工場,遠賀川水源地ポンプ室の各施設が,〈明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業〉の構成資産として世界文化遺産に登録。
→関連項目漢冶萍煤鉄公司北九州工業地帯佐木隆三鉄鋼業八幡製鉄所争議

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「八幡製鉄所」の解説

八幡製鉄所
やはたせいてつじょ

北九州市にある製鉄所。日本を代表する最初の本格的な官営の近代的銑鋼一貫製鉄所。松方内閣は1891年(明治24)官営の製鋼所設立計画を第2議会に上程したが,民党の反対にあって否決された。日清戦争を契機に96年第9議会で農商務省所管製鉄所の設立が可決され,同年3月製鉄所官制が発布された。1901年操業を開始。原料の鉄鉱石は大蔵省預金部資金による借款契約により,中国の大冶(たいや)鉱山からの安定的供給が可能となった。34年(昭和9)官営八幡製鉄所と民間鉄鋼企業が合同して半官半民の日本製鉄が成立し,その八幡製鉄所となる。50年日本製鉄解体とともに八幡製鉄傘下の主力事業所となった。70年八幡製鉄と富士製鉄の合併で成立した新日本製鉄の一事業所となり,2012(平成24)に住友金属と合併し,新日鐵住金となったのちは,旧住金の小倉製鉄所と統合された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「八幡製鉄所」の解説

八幡製鉄所
やはたせいてつじょ

1897年,福岡県八幡(現北九州市)に設置された,日本最初の本格的官営製鉄所
明治政府の富国強兵政策,特に日清戦争(1894〜95)後の軍部の重工業に対する強い関心により日清戦争の賠償金などをもとに'97年着工。中国湖北省の大冶鉄山の鉄鉱を原料とし,1901年操業開始。重工業部門の産業革命の中心的位置を占める。当初は農商務省,'25年以後商工省へ所属。6万tの生産を目標としたが,数次の拡張により'15年には銑鉄25万t,粗鋼38万t,鋼材26万5000tで,国内生産の80%を占めた。'34年民間の主要製鉄会社を合併して日本製鉄株式会社(日鉄)となったが,敗戦後日鉄が解体し,八幡製鉄と富士製鉄に分離。'70年3月,再び合併して新日本製鉄となった。

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世界大百科事典(旧版)内の八幡製鉄所の言及

【八幡製鉄所】より

…1901年(明治34)に官営製鉄所として操業を開始して以降,第2次大戦前の日本鉄鋼業の発展過程において一貫して中心的役割を果たした近代的な銑鋼一貫製鉄所。設立当初は,正称ではあるが,名なしにも等しい〈製鉄所〉(農商務省所管,1925年以降は商工省所管)という呼名しかなかったが,しだいに八幡製鉄所と呼ばれるようになっていった。1925年以降日本の近代化・資本主義化を推進するうえで鉄鋼業の保護・育成は軍事上・経済上不可欠であったが,とくに日清戦争の勃発(1894)により,官営製鉄所の建設が急務となり,1896年第9回帝国議会において農商務省所管の製鉄所建設案が可決成立し,同年3月製鉄所官制が公布された(4月1日施行)。…

【漢冶萍煤鉄公司】より

…日本の国内生産のうち銑鉄で73.8%,鋼材で83.5%を占めていた(1913)。八幡製鉄所の原料鉄鉱石は,中国からの輸入分が1901‐28年まで39~100%を占めていたが,そのうち,大冶鉱が1918年までは100%,以後も半数前後を占めつづけた。このように日本鉄鋼に不可欠の公司への支配を確実にすべく,1915年の対華二十一ヵ条要求では日中合弁が要求されたが,中国側官民の抵抗で実現しなかった。…

【公害】より

…大阪市の公害対策は戦争によって中断するが,戦前の先駆的な公共部門による公害対策といえよう。 第3の典型例は,八幡における八幡製鉄所の公害であろう。八幡製鉄所は官営であり,その公共性からいって,民間企業に比べてより進んだ公害対策をとらねばならぬはずであるが,実際には反対で,お上の権力で,〈企業城下町〉ともいうべき市民の発言が困難な都市をつくり上げた。…

【産業革命】より


[重工業]
 日本の産業革命においては,機械・金属工業などの重工業は,生産技術の世界的水準との極端な格差のために発展がきわめて困難で,重工業製品の多くを先進国からの輸入に頼らなければならなかった。そうしたなかで,官営の〈軍事工場〉八幡製鉄所および財閥傘下の大規模造船所だけが,軍事的・政治的必要から国家資金を集中的に投下されて突出的に発展した。殖産興業期に創設された陸・海軍工廠を中心とする官営軍事工場は,軍艦・兵器生産の自立を課題に日清・日露戦争を通じて拡充され,小銃などの自給を達成するとともに,その生産技術も著しい躍進を遂げて,日露戦争前後に世界的水準に到達する。…

【盛宣懐】より

…盛宣懐の鉄道国有化策は大きな反発を招き,さらに辛亥革命の導火線となったため失脚,以前訪れたことのある日本に亡命したが,まもなく帰国した。日本の官営製鉄所が九州の八幡につくられたのは(八幡製鉄所),盛宣懐の経営する大冶鉄山をあてにしたからである。61年,東京芝公園に豪華な中華料理店〈留園〉をつくった盛毓度(1913‐ )は,盛宣懐の孫。…

【鉄鋼業】より

…また同年にはベルギー,ドイツ,フランス,ルクセンブルクおよびザールの鉄鋼業者グループにより国際粗鋼組合が結成され,鉄鋼輸出価格の安定化が企図され,さらに32年には,ドイツ,フランス,ベルギー,ルクセンブルクの4国間で国際粗鋼輸出組合が結成され,のちにイギリス,アメリカの鉄鋼企業も参加して文字どおり国際鉄鋼カルテルに発展した。
【日本の歴史】
 日本における近代的鉄鋼業は,釜石(岩手県)の洋式高炉の操業(1857)に始まるが,本格的には官営の八幡製鉄所の設立(1896年製鉄所官制公布)によってもたらされた。釜石の製鉄所は,技術的失敗を繰り返しつつ,明治政府の官営を経て,民間の釜石鉱山田中製鉄所となり,その銑鉄生産高は1894年以降,旧来の砂鉄銑を上回った。…

※「八幡製鉄所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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