日本歴史地名大系 「八重原村」の解説 八重原村やえばらむら 長野県:北佐久郡北御牧村八重原村[現在地名]北御牧村八重原佐久平(さくだいら)の西北端、八重原(やえばら)台地上の約一方里の新田村。西は藤原田(ふじわらだ)村(現小県郡丸子町藤原田)、南は藤沢(ふじさわ)・塩沢新田(しおざわしんでん)(ともに現立科町)等の新田地帯に接し、東は鹿曲(かくま)川の谷、北は断崖をなして羽毛山(はけやま)村に下る。平安時代に成立したと考えられる塩河牧(勅旨牧、現小県郡丸子町)の放牧地と推考されている地帯である。小諸(こもろ)城主青山因幡守宗俊の許可を得て、黒沢加兵衛が承応二年(一六五三)に着手、寛文二年(一六六二)に完成した延長一四里に及ぶ用水路によって開墾が可能となり、寛文四年に八重原村を称した。 八重原村はえばるむら 宮崎県:東臼杵郡東郷町八重原村[現在地名]東郷町八重原迫野内(はえばるさこのうち)山陰(やまげ)村の北にあり、西は田代(たしろ)村(現西郷村)。耳川が南東流する。領知目録では山陰村に含まれ、天保郷帳の山陰村には「本者山陰村・八重原村二ケ村」と注記されている。旧高旧領取調帳では山陰村とは別に八重原迫野内村が記され、高二三三石余。元禄五年(一六九二)三浦氏の延岡入封に伴って当地でも境改が行われたが、立会いの住民の肩書に公領迫野内、延岡領迫野内・八重原とあり、迫野内の一部は幕府領となったとみられる(「境目改帳写」東郷町教育委員会蔵)。正徳三年(一七一三)の境書出シ帳(同委員会蔵)では迫野内は八重原村内と記され、南・北・西隣の山陰村、宇納間(うなま)村(現北郷村)、田代村との境と山鹿倉一〇ヵ所の名をあげ八重原村庄屋が印を押している。 八重原村やえばらむら 鳥取県:岩美郡福部村八重原村[現在地名]福部村八重原矢谷(やだに)村の南の谷詰りに位置し、南の法美(ほうみ)郡境に榎(えのき)峠がある。正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に「矢谷之内」として村名がみえ、もとは矢谷村の内村であったが、元禄七年(一六九四)の下札は分離しているといい(安政五年村々生高竈数取調帳)、享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によれば高四二〇石、竈数三六。本免は四ツ。藪役銀二二匁九分余・山役米四石余を課されており、天保三年(一八三二)の山林は四町二反余(藩史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by