塩沢新田(読み)しおざわしんでん

日本歴史地名大系 「塩沢新田」の解説

塩沢新田
しおざわしんでん

[現在地名]立科町塩沢

塩沢村内に成立した新田村。当初新田開発者六川長三郎の名を冠して長三郎ちようざぶろう新田と称し、寛文一〇年(一六七〇)以前本郷から独立、宝暦年中(一七五一―六四)に塩沢新田と改める。正保三年(一六四六)六川長三郎の手により塩沢堰が完成するや、村高は正保二年の五二石が、同四年五五石、承応二年(一六五三)一六九石、明暦元年(一六五五)三九五石、更に寛文一二年は六六二石余と飛躍的に増加してほぼ限界に達する(北佐久郡志)

新田は全部六川家の高請地として開発され、寛文一〇年の時点で、本郷・細谷新田ほそやしんでん観音寺新田かんのんじしんでん分も含めて九五八石余に及ぶ。


塩沢新田
しおざわしんでん

[現在地名]大間々町塩沢

塩沢村の北、下田しもだ(塩沢川)の上流両岸に位置し、勢多せた郡に属する。現在の字いりやまにあたる。銅山あかがね街道が南北に通り、北へ八木原やぎはら峠を越えると八木原村(現勢多郡黒保根村)。江戸時代名主を勤めた星野家の墓地に慶安五年(一六五二)銘の墓石があり、開発はその頃と推定される。元禄郷帳では高二一石余、幕府領。江戸後期の御改革組合村高帳では高四九石余、幕府領、家数四。


塩沢新田
しおざわしんでん

[現在地名]軽井沢町長倉 塩沢

油井ゆい村東方の原野にひらかれた借宿かりやど村の新田で、慶安年中(一六四八―五二)の開発といわれている(軽井沢町志)が、文禄四年(一五九五)の御郡中永楽高辻(大井文書)には「塩沢・大まりめ・朝沢 六貫六四文」、慶長一五年(一六一〇)佐久郡諸村貫高帳(竹内文書)には「塩沢村 二貫文」とみえて、それ以前から開拓の進んでいたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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