日本歴史地名大系 「田代村」の解説
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 岩手県:宮古市
- 田代村
田代村
たしろむら
中央を
幕府直轄領、下総関宿藩領を経て宝永四年(一七〇七)旗本太田領となる。検地は慶長・寛文・元禄の三回実施され、元禄一三年(一七〇〇)田畑合計四九町四反余(田一三町七反余・畑三五町六反余)である(「田代村検地帳」大矢文書)。宝永三年の村明細帳(同文書)によれば、中津川鮎漁(鵜・網漁)運上二貫文と、幕府直轄領期に江戸本丸御用御茶事炭六〇俵を伝馬御免で上納し、元禄一一年の藩領期以降は代永二貫四〇〇文を納める。
田代村
たしろむら
元和四年(一六二七)の知行目録に「弐百八拾三石五斗壱升弐合 田代廻」とあり、藩政当初は盛岡藩に属し、根城南部氏に給されていた。雑書の正保二年(一六四五)四月二〇日条に「八戸之内田代、武部と申者□□熊之皮六枚、四枚ハ小熊皮、野田内匠、工藤主膳今日上ル」とみえる。同四年の南部領内総絵図には田代村、三七石余とあり、同年の郷村帳によれば三七・四五八石のうち三四・六八七石が畑であった。
寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入され、延宝六年(一六七八)打直検地が実施されている(「八戸藩日記」同年二月一七日条)。
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
平安時代後期から戦国期の村。
建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)では、禰寝南俣四一町五段のうちに田代一〇町がみえ、領主は御家人七郎助友とあり、禰寝氏(建部氏)庶流田代氏の領有となっている。正応二年(一二八九)八月二一日の守護狩踏馬役注文(旧記雑録)によると、田代七郎入道は馬五疋を負担している。
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
でんだいむら
田代村
たしろむら
- 福岡県:甘木市
- 田代村
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 佐賀県:伊万里市
- 田代村
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 長崎県:松浦市
- 田代村
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 熊本県:人吉市
- 田代村
人吉城の南東方向にあり、
田代村
たしろむら
- 鹿児島県:大口市
- 田代村
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 山形県:寒河江市
- 田代村
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
東は
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 静岡県:掛川市
- 田代村
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 大分県:竹田市
- 田代村
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たじろむら
- 佐賀県:鳥栖市
- 田代村
現鳥栖市の東北部、村域には洪積台地(中位段丘)が広がり、その間に平地がある。集落は台地に立地する。近世は対馬藩領。文禄四年(一五九五)の検地帳写(基養精細録)に村名がみえる。近世の田代町は当村の枝町である。
西部の
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 新潟県:長岡市
- 田代村
西山丘陵の脊梁に近く、
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
田代村
たしろむら
- 佐賀県:伊万里市
- 田代村
標高二〇〇メートル足らずの丘陵地帯で、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報