北佐久郡(読み)きたさくぐん

日本歴史地名大系 「北佐久郡」の解説

北佐久郡
きたさくぐん

面積:四五六平方キロ
軽井沢かるいざわ町・御代田みよた町・浅科あさしな村・望月もちづき町・立科たてしな町・北御牧きたみまき

県の東部。小諸こもろ市と佐久市の成立によって旧北佐久郡が両断され、軽井沢町と御代田町は浅間山南麓の火山灰地帯に、浅科村・望月町・立科町・北御牧村は主として千曲川西岸のローム性台地川西かわにし地方に分立する。軽井沢町・御代田町は浅間山から碓氷うすい峠・和美わみ峠に続く線で群馬県に接する高原地帯である。浅科村以下四ヵ町村のある川西地方は、南は蓼科たてしな山を境にして諏訪郡に、西は小県ちいさがた郡に接し、台地は蓼科山から流出する鹿曲かくま川によって二分されて御牧原みまきがはら台地と八重原やえばら台地とになる。佐久の名は諏訪国から地を割いて分国した意味、あるいは外敵を防ぐために柵が築かれたところの意であろうとも伝える(北佐久郡志)

〔原始〕

縄文時代の遺跡は、宮平みやだいら(現御代田町豊昇ほうしようをはじめ、千曲川水系の川・香坂こうさか川・志賀しが川の流域と、上吹上かみふきあげ(現望月町高呂たかろ金塚かなづか(現望月町春日かすが等鹿曲川水系沿いに分布する。弥生時代に入ると、各水系の支流沿いに拡大し、湯川上流の茂沢もざわ(現軽井沢町)布施ふせ川沿いの式部しきぶ(現望月町布施)天神平てんじんだいら(現浅科村蓬田よもぎだ八丁地はつちようじ川沿いの鳶岩とびいわ(現望月町協和きようわ芦田あした川沿いの古町ふるまち(現立科町芦田)等があり、その他塩野しおの(現御代田町)等にも分布する。

佐久の古墳は円墳に限られ、郡域における分布は多くないが、御牧原南斜面に比較的濃密で、土合どあい古墳(現浅科村下原しもはら)からは遺体とともに円筒埴輪・馬具・装身具など多数発掘された。なお入山いりやま(現軽井沢町、群馬県碓氷郡松井田町)雨境あまざかい(現立科町)からは古代の祭祀用石造模造品が発掘されている。

〔古代〕

大和朝廷の東国経営について、「日本書紀」景行天皇四〇年の条に、「唯信濃国・越国頗る未だみおもむけ に従はず、即ち甲斐より北にめぐり、武蔵・上野を歴て、西のかた碓氷坂にいたります」と日、同書が上野国から碓氷坂を経て信濃国に入ったことを、また景行天皇五五年の条に「彦狭島王を以ちて、東山道十五国の都督かみけたまふ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報