矢谷村(読み)やたにむら

日本歴史地名大系 「矢谷村」の解説

矢谷村
やたにむら

[現在地名]菊鹿町矢谷

内田うちだ川の最上流域に位置し、南東八方やほうヶ岳(一〇五一・八メートル)北東には国見くにみ(一〇一八・一メートル)三国みくに(九九三・八メートル)がそびえる。国見山・三国山の尾根を境に筑後国矢部やべ(現福岡県八女郡矢部村)、三国山から宿しゆく峰尾みねお(矢谷越)を境に豊後国合瀬ごうせ(現大分県日田郡中津江村)と接する国境の村で、西は相良あいら村、南は内田川を境に上内田かみうちだ村、北は多久たく(現鹿北町)と接する。近世にはすでに山越えの往還があった。

近世は山鹿やまが郡中村手永に属した。元禄国絵図に「多久村之内矢谷村」とあり、もとは多久村の枝村であったが、寛永一二年(一六三五)の地撫帳があることから同年までには独立分村したと思われる。「一統志」にも「矢谷 阿蘇十二社地蔵ニ阿弥陀天神森」とある。


矢谷村
やだにむら

[現在地名]福部村箭渓やだに

高江たかえ村の南に位置する。南は八重原やえばら村。正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に「矢谷之内八重原村」とみえ、同村を内村として含んでいたことが知られるが、元禄七年(一六九四)の下札では別村扱いになっているという(安政五年村々生高竈数取調帳)。享保元年(一七一六)郷村高辻帳には「古ハ矢谷八重原村」と注記され高六二七石余(拝領高相当分)。本免は五ツ。


矢谷村
やたにむら

[現在地名]京北町大字下弓削しもゆげ 矢谷

弓削一一ヵ村の一。大堰おおい川の支流弓削川右岸に開けた山間集落。川の上流は下中しもなか村、下流は塩田しおた村、東は川を挟んで清田せいだ村。集落西方の山麓にいわたに古墳群、その山中に矢谷奥やたにおく古墳群などがある。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より丹波篠山藩領となる。太閤検地延宝検地は実施されたと推定されるが史料はない。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、「沢・矢谷村」として高一六三石余。幕末・明治初期には一村として独立していたと考えられ、旧高旧領取調帳では「矢谷村」一三四・三五五石とみえる。


矢谷村
やだにむら

[現在地名]仁多町三成みなり

広瀬ひろせ村の東、斐伊川南岸の河岸段丘上に位置する。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一三六石余、寛文四年(一六六四)の本田高一二八石余。「雲陽大数録」では高一〇〇石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android