兵庫宿(読み)ひようごしゆく

日本歴史地名大系 「兵庫宿」の解説

兵庫宿
ひようごしゆく

[現在地名]兵庫区南仲町・西仲町・北逆瀬川町・西宮内町など

近世山陽道の宿駅。東は西宮宿へ五里、西は大蔵谷おおくらだに宿(現明石市)へ五里として賃銭が定められていた。山陽道はみなと川河口の堤を越えて兵庫津の北の入口である湊町惣門に至り、市中を真っ直ぐ南下して南中みなみなか町の高札場に突き当たって西へ折れ、神明しんめい町・逆瀬川さかせがわ町の旅宿街を通って柳原やなぎわら惣門から津外へ出て須磨方面へと向かった。しかし山陽道が兵庫津を経由するのは江戸時代前期に宿駅制が整備されてからで、それまでは慶長国絵図が示すように走水はしうど(現中央区)から兵庫津を経由することなく西進し、西須磨村の海岸沿いに播磨へ入っていた。中世には兵庫津に近接して湊川宿があったようで、暦応元年(一三三八)一〇月一六日の沙弥円道施行状案(東寺百合文書)によると、大嘗会米として段別三〇文の段銭を徴収し、同月二三日までに湊川宿に運ぶよう摂津守護代が各庄園領主に命じており、なんらかの駅所機能があったとみられる。建武三年(一三三六)京都ただす河原(現京都市左京区)での合戦で敗れ、丹波に逃れた足利尊氏は、二月三日湊川宿に到着して三日間逗留したという(「太平記」巻一六)。応安四年(一三七一)九州へ下向した今川了俊も湊川で一泊しているが(道ゆきぶり)、湊川宿については詳細は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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