兼山村(読み)かねやまむら

日本歴史地名大系 「兼山村」の解説

兼山村
かねやまむら

[現在地名]兼山町 魚屋町うおやちよう本町ほんまち常盤町ときわちよう盛住町もりずみちよう宮町みやまち柳栄町りゆうえいちよう下町したまち

北東から南西へ流れる木曾川南岸に細長く延びる村で、可児郡北端にあたり、東は伊岐津志いぎつし(現加茂郡八百津町)、北は木曾川を隔てて加茂郡和知わち(現同上)、南は古城こじよう山のある丘陵を境にして伏見ふしみ(現御嵩町)。天文六年(一五三七)烏峰うほう(金山城)が築かれると、その城下町となったようである。同八年八月付の斎藤正義画像の賛并序(浄音寺蔵)には「上城之一楼而坐、則一日千里、天与水連、岸下舟之往還、市中人之聚散、一日朝午晩之異、一年春夏変、千態万貌、皆几案間一物也」と城下の様子を記している。永禄七年(一五六四)と推定される九月九日付直江景綱宛織田信長書状案(歴代古案)に「金山」とみえる。翌年頃森氏が金山かねやま城に入り、天正五年(一五七七)には兼山湊の塩問屋を東部に移転させて魚屋町とし、戸立とたて町・そと町・本町・しも町・殿との町・ふる町・わたり町・うえだん江畠えばた町と町立てを改めるなど城下町の整備を行ったという(「黒瀬湊留書」佐藤文書など)。慶長五年(一六〇〇)森忠政は信濃川中島へ移封となり、金山の城下町としての性格は失われた。

慶長郷帳では金山村とみえ高一四九石余、幕府領。元和元年(一六一五)尾張藩領となる。正保郷帳では兼山村とあり、田二五石余・畑一二四石余、新開田八〇石余・新開畑一九二石余。大川船渡・松山があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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