兼山湊(読み)かねやまみなと

日本歴史地名大系 「兼山湊」の解説

兼山湊
かねやまみなと

[現在地名]兼山町 下町

兼山町北西部、現した町西部にあった木曾川の川湊。近世わたり町・ふる町が湊付の町で、湊町ともよばれた。対岸和知わち(現加茂郡八百津町)との間は渡船で結ばれている。湊としての起源は不明だが、貴船きふね神社の創建が大治二年(一一二七)と伝えられることなどから、中世初めには木曾川舟運とかかわっていたとも考えられる。天文六年(一五三七)斎藤正義が湊としての整備を行ったとされる。同八年八月付の浄音じようおん寺蔵斎藤正義画像の賛并序には「天与水連、岸下舟之往還」とあり、城から木曾川を見下ろした様子が記される。天正一二年(一五八四)三月二〇日、小牧長久手の合戦を前に羽柴秀吉から「金山より犬山之間」の船すべてを犬山渡へ集めるよう命じられており(「羽柴秀吉書状写」池田文書)、当地が木曾川筋舟運の重要拠点の一つで最上流に位置していたことを示す。当湊の本格的な整備は金山城主森長可によって行われたとされる。長可は二人の有力町人をのちの古町から東部に住まわせ、塩・海魚などの専売権を与えて市場を開かせたといい、これが魚屋うおや町の起源となった(天正元年一一月「定」藤掛文書)。また湊の近くに免租地を設け船問屋屋敷・蔵・船頭屋敷を建設させたという。

元和元年(一六一五)尾張藩編入後は船役銀の取立てを行った。明暦覚書には船荷物は当湊喜左衛門と下渡しもわたり(現八百津町)の次郎左衛門・才市郎が立会いで改め、犬山まで連判の送状を出し、役銀は喜左衛門が請取り錦織にしこおり(現同上)の役所へ渡したとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の兼山湊の言及

【木曾川】より

…夏冬両度の運材が寛文(1661‐73)以降冬1回になると,その合間を利用しての舟運が発達した。すでに天文(1532‐55)のころ,斎藤正義の金山(かねやま)城下に船の往来が盛んとなっており,その後,江戸中期まで,この兼山湊が広い後背地を擁して木曾川上流の商業の中心地として発展し,ことに下流から上せる塩の販売拠点となった。後期になると,細目村の黒瀬湊が木曾川遡航(そこう)の終着地として商業の中心地となった。…

※「兼山湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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