日本歴史地名大系 「円光寺跡」の解説 円光寺跡えんこうじあと 兵庫県:佐用郡上月町円光寺村円光寺跡[現在地名]上月町円光寺中世に佐用(さよ)庄太田(おおた)にあった臨済宗の寺。建武元年(一三三四)八月二二日の赤松円心安堵状(古文書纂)によれば、赤松円心は佐用庄内時沢(ときざわ)名を円光寺に安堵している。同名は点定されて数十年にわたって不知行だったという。円心は年貢だけでなく同名の下地そのものを当寺に管領させ、寺の興隆を図るようにと述べている。翌二年八月一六日、円心の三男則祐が平瀬(ひらせ)淵より太田の逆巻(さかまき)の下までの佐用川での魚殺生を禁じる禁制を円光寺に与えている(「赤松則祐禁制写」宮内庁書陵部蔵赤松家文書)。 円光寺跡えんこうじあと 熊本県:熊本市熊本城下京町懸円光寺跡[現在地名]熊本市京町一丁目近世には岩立(いわだて)口の西方(せいほう)寺の西隣にあり、万松山と号し、天台宗、熊本神護(じんご)寺末寺。「国誌」によれば、神護寺の開山秀舜の開基で、神護寺代々の住職の墓がある。藤崎宮社家・社職も当寺の檀家で、宮域内は死穢気を禁ずるため、病にかかって快気の見込がなくなると、当寺に連れて来て療治し、本復せず亡くなれば当寺に葬ったといわれ、社家代々の墓もある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by