神護寺(読み)じんごじ

精選版 日本国語大辞典 「神護寺」の意味・読み・例文・類語

じんご‐じ【神護寺】

[2] 京都市右京区梅ケ畑高雄町にある高野山真言宗の別格本山。山号は高雄山。延暦年間(七八二‐八〇六和気清麻呂が河内国(大阪府)に建立した神願寺を、天長元年(八二四)この地に移し、すでにあった高雄山寺(高雄寺とも)と併せて、寺号を神護国祚真言寺と改めた。これより前、弘仁三年(八一二)空海はここを真言の道場とし、その弟子真済(しんぜい)が住持して大いに栄えた。その後、火災により衰微したが、仁安三年(一一六八)文覚によって再興された。その後、仁和寺宮性仁法親王が住持して高尾御室といわれた。平安初期の密教美術をはじめ、鎌倉初期の作品など多くの寺宝(国宝九点ほか)を有する洛西の名刹。紅葉の名所。

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デジタル大辞泉 「神護寺」の意味・読み・例文・類語

じんご‐じ【神護寺】

京都市右京区にある高野山真言宗の別格本山。山号は高雄山。創立年代は未詳であるが、空海が真言道場とした高雄山寺に、河内かわちにある和気氏の氏寺神願寺を天長元年(824)に合併し、神護国祚じんごこくさ真言寺と改めた。鎌倉初期、文覚が復興。寺宝に、薬師如来像・五大虚空蔵菩薩像など多数。高雄山寺。高尾寺。
神宮寺じんぐうじ

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日本歴史地名大系 「神護寺」の解説

神護寺
じんごじ

[現在地名]右京区梅ヶ畑高雄町

清滝きよたき川の北西にそびえる高雄たかお山の山腹に位置する。高雄山と号し、高野山真言宗別格本山。本尊薬師如来。神護国祚真言寺という。北東の栂尾とがのおには明恵中興の高山こうざん寺、槇尾まきのおには空海(弘法大師)の弟子智泉開基の西明さいみよう寺がある。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔高雄寺と和気氏〕

天長元年(八二四)九月二七日の太政官符(類聚三代格)によれば、神護景雲三年(七六九)の道鏡事件の際に、和気清麻呂は豊前宇佐うさ(現大分県宇佐市)に赴き、宇佐八幡の神託を受けて道鏡の天皇位継承を阻止した。その際の宇佐八幡の神願を果すため、宝亀一一年(七八〇)光仁天皇に一寺建立を奏請したが成就せず、天応二年(七八二)再度桓武天皇に奏し、延暦年中(七八二―八〇六)に至って神願寺を建立、同寺は定額寺に列せられた。しかし同寺の立地が密教壇場に適さなかったため、天長元年清麻呂の子真綱らが上奏して神願寺に替えて高雄寺を定額寺とし、神護国祚真言寺と改称したという。なお神願寺の所在は不詳であるが、「神皇正統記」に河内国に寺を建て神願寺というとあり、河内に建立されたとする説が強い。延暦一三年には能登国墾田五八町が施入されている(類聚国史)

高雄寺は愛宕あたご山塊の支峰にあり、天応元年光仁天皇の勅願により大安だいあん(現奈良市)慶俊を本願として、和気清麻呂が建立したという愛宕五山寺の一(「白雲寺縁起」山城名勝志)。貞観一七年(八七五)銘の銅鐘(寺蔵)に「愛当之山神護之寺」と刻まれている。延暦一三年平安京遷都後、清麻呂は遷都事業の功により同一五年に山背国葛野かどの郡公田二町を与えられた(「日本後紀」同年九月二〇日条)。これにより清麻呂は平安京の北西隅に位置し、王城鎮護の要地である同郡内高雄山に注目したと考えられる。同一八年に清麻呂の墓所が高雄山に造られてからは、和気氏の氏寺的性格を強め、同二一年正月、清麻呂の子広世は高雄寺へ最澄を招請して、法華会を修し、善議・勤操ら南都高僧一〇名に天台の法門を説いている(叡山大師伝)。同二三年最澄は渡唐、翌年帰国して高雄寺で密教による仏位授与の儀式である灌頂法を修し、大安寺僧広円ら八名に真言教を伝授した(顕戒論縁起)

〔神護寺の成立〕

一方、唐から帰った空海は高雄に入寺し、弘仁元年(八一〇)高雄寺で国家鎮護のため修法した(性霊集)。同二年空海は高雄寺を「不便」として乙訓おとくに(現京都府長岡京市)に移ったが(高野大師御広伝)、翌三年に還寺(東寺長者次第)、金剛界灌頂を当寺に始修し、最澄・和気真綱・仲世ら四名に伝授。

神護寺
じんごじ

[現在地名]平生町大字大野南

大星おおぼし(四三八メートル)の西北麓、神領じんりようの地にあり、真言宗御室派。岩城山と号し、本尊は千手観音。明治四年(一八七一)この地にあった真言宗の松蓮しようれん寺と、石城いわき山にある石城神社(現大和町)の別当寺であった神護寺が移転、合併した寺で、松蓮寺の寺号は廃された。

松蓮寺は、推古天皇の時、唐僧恵窓の開基といい、中世大内氏の時には寺領五〇〇石を与えられ、末寺七二坊を数えたと伝える(注進案)

神護寺
じんごじ

[現在地名]三光村田口

田口たぐちの南、八面はちめん山の中腹にあり、八面山と号し、高野山真言宗。本尊不動明王。大日だいにち寺とよぶのが一般的である。「太宰管内志」に「大日寺は下毛郡田口村にあり今は嵯峨宮末院なり真言宗妻帯則弥山聖母宮ノ社僧なり、寺は上宮より三十町東南の間下にあり、其処に観音堂もあり」とみえ、また「八面山天和縁起ノ序」に「昔此山盛而堂社仏閣数十宇、寺僧社官夥矣、天正年中兵火至坊舎、神殿梵刹咸灰燼云々、彼山座主兼大日寺猪山神護寺」とある。

神護寺
じんごじ

[現在地名]赤穂市周世

周世すせ西部の高雄たかお山上にあり、見下ろせば千種ちくさ川の眺望絶佳。天台宗、高雄山と号し、本尊は薬師如来。「播磨鑑」によると当時は真言宗であった。開基は文覚と伝えるほか、山号・寺号、峰に阿弥陀を安置し麓に豊前宇佐から八幡神を勧請して鎮守とする点も、山城の高雄山神護寺と同じという。開基について延享四年(一七四七)の「赤穂郡志」は文治年間(一一八五―九〇)とし、宝暦七年(一七五七)の播州赤穂郡志(智恵袋)は明応年間(一四九二―一五〇一)に長慶が再興し、のち寛純が再復したとする。

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改訂新版 世界大百科事典 「神護寺」の意味・わかりやすい解説

神護寺 (じんごじ)

京都市右京区にある高野山真言宗別格本山。高雄山と号する。和気真綱が824年(天長1)奏上して,父清麻呂が創建した河内の神願寺を,現寺地にあった和気氏の氏寺高雄寺(高雄山寺ともいう)と合併,神護国祚真言寺と改称して勅願寺となし,この寺名の上2字をとって神護寺と号したのが,当寺の起源である。高雄寺の時代,唐から帰朝した空海は807年(大同2)勅によって当寺に入り,以後ここを本拠に真言密教の興隆につとめた。有名な空海自筆の《灌頂歴名》(国宝)は,812年(弘仁3)空海が当寺で最澄,真綱,泰範,円澄ら190余人に両部灌頂を伝授したときの記録である。神護寺への改称を契機に,空海は当寺を去り,弟子の真済があとをついだが,この2人の時代に根本堂以下の諸堂の建立,その堂内に安置する諸仏の造立など,寺観が整備され,朝廷の厚い保護のもと,国家鎮護の法会に専念する真言密教寺院の基礎を固めた。だが,1149年(久安5)金堂,真言堂以下諸堂が炎上,そののち平安末まで衰退の一途をたどった。この荒廃した神護寺の復興は鎌倉初頭,文覚の手で行われた。文覚は後白河法皇に当寺復興を強訴し,また諸国を勧進して浄財をつのった。1182年(寿永1)法皇に荘園寄進を願い出て初めて許され,その後法皇や源頼朝から多くの荘園の寄進をうけ,諸堂復興の工事もほぼ完成した。だが,頼朝死後の99年(正治1)文覚の佐渡流罪を契機に東寺の管下に移されることとなった。応仁の乱後,寺領も退転,金堂などいくつかの諸堂も兵火で焼失,寺運は衰えた。近世の寺領350石余。江戸初期,幕命によって讃岐屋島の竜厳が諸国を勧進し,金堂,五大堂,仁王門など諸堂を復興,ほぼ今日の寺観を整えた。明治維新後,寺領山林等が上地され,塔頭(たつちゆう)などの廃合が続いたが復興につとめ,明治末年には寺基もようやく安定した。

 現在の神護寺は密教美術の宝庫であり,また神護寺といえば高尾(高雄)として,また高尾は栂尾,槙尾とともに洛西の三尾として有名で,紅葉の名所である。足利義政は応仁の乱中も毎年当寺に紅葉狩りに出向いたといわれ,紅葉の名所としての歴史は中世にさかのぼる。また,大師堂西方の地蔵院から錦雲渓を眼下に望んだ紅葉の美しさは,江戸時代から都鄙参詣人のあいだで有名で,ここで行う〈かわらけ投げ〉がさらに興趣をそえた。なお境内に,和気清麻呂と文覚の墓がある。
執筆者:

境内堂舎のうち大師堂(重要文化財)は住宅風の建築で桃山時代の再建だが,他は比較的新しい。貞観17年(875)の銘をもつ梵鐘(国宝)は序詞を橘広相,銘文を菅原是善,揮毫は藤原敏行の手になり,古来〈三絶の鐘〉と称され日本三名鐘の一つ。本堂安置の木造薬師如来立像(国宝,平安初期)は当寺の前身である神願寺以来の本尊で,重厚で神秘的な造形は貞観彫刻のなかでも特異な存在である。多宝塔安置の五大虚空蔵菩薩座像(国宝,平安初期)は肉身部を白,黄,青,赤,黒に彩色した5体からなり,一木造で量感豊かな造形は平安初期密教彫刻の頂点に位置する作。大阪府河内長野市観心寺の如意輪観音像(国宝)に酷似する。絵画では現存曼荼羅中最古でしかも空海在世時の唯一の作例である《両界曼荼羅図(高雄曼荼羅)》(平安時代),《釈迦如来像》(同),藤原隆信の筆とされ大和絵肖像画の白眉である《源頼朝・平重盛・藤原光能像》(鎌倉時代),平安後期に流行した大和絵屛風の姿を伝える《山水屛風(せんずいびようぶ)》(鎌倉時代),書跡では前述の《灌頂歴名》のほか藤原忠親筆《文覚四十五箇条起請文》(鎌倉時代)がいずれも国宝に指定されており,他にも寺宝は多い。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神護寺」の意味・わかりやすい解説

神護寺
じんごじ

京都市右京区梅ヶ畑高雄(たかお)町にある高野山真言(こうやさんしんごん)宗の別格本山。高雄山と号する。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。創立年代は明らかでないが、もと和気(わけ)氏の氏寺として高雄山寺あるいは高尾山寺という古刹(こさつ)がここにあり、別に延暦(えんりゃく)年中(782~806)和気清麻呂(わけのきよまろ)が河内(かわち)国(大阪府)に創建した神願寺をその子真綱(まつな)らが824年(天長1)に当地に移して高雄山寺と合併し、寺号を神護国祚(じんごこくさ)真言寺と改めた。これより前の802年(延暦21)南都の高僧と最澄(さいちょう)を当山に招いて法華会(ほっけえ)を催し、805年唐から帰朝した最澄はわが国最初の結縁灌頂(けちえんかんじょう)を当寺で行った。809年(大同4)空海が勅によって入寺。翌810年(弘仁1)空海は上表して唐から将来した経軌(きょうき)により仁王経(にんのうきょう)大法などを修した。812年(弘仁3)空海は最澄、和気真綱ら190余人に金剛界・胎蔵界の両部の灌頂を授け、真言宗に改めた。このときの名簿を『灌頂歴名(れきめい)』(灌頂記、国宝)といい、書道史のうえでも有名なものである。824年和気氏は定額(じょうがく)寺として年分度者(ねんぶんどしゃ)1名を賜り、備前(びぜん)国(岡山県)の水田20町を寄進したので、空海は灌頂堂、護摩(ごま)堂などを建てた。空海が高野山に移ったあとは高弟の真済(しんぜい)が継ぎ、寺観の整備に努めた。朝廷の尊崇を得て寺領も40か所を有して興隆したが、994年(正暦5)、1149年(久安5)に火災にあい、しだいに荒廃した。1168年(仁安3)文覚上人(もんがくしょうにん)が再興の誓願を発し、後白河(ごしらかわ)法皇、源頼朝(よりとも)、その他の武将から多くの荘園(しょうえん)を寄進され、伽藍(がらん)は徐々に復興した。このことは『平家物語』に詳しい。鎌倉・南北朝時代には、大ぜいの僧兵を擁して京都北方の一大勢力となり、南北朝の内乱では南朝の一拠点となった。そのときの戦乱で急速に勢力を失い、後の応仁(おうにん)の乱(1467~77)後も寺領を失って衰退、文明(ぶんめい)年間(1469~87)には京都仁和寺(にんなじ)末寺となった。大永(だいえい)年中(1521~28)慶真が堂宇を修復したが、1547年(天文16)には兵火により諸堂を全焼。豊臣(とよとみ)秀吉は23町余の寺領を寄せ、保全を図ったが復興できず、ついで徳川家康は寺領260石余を寄進し、晋海(しんかい)、竜巌(りゅうがん)両上人の尽力によって諸堂宇が整備され、ようやく旧観に復した。1871年(明治4)寺領山林上地(あげち)となり、一山維持の資を失ったが、1886年讃岐(さぬき)(香川県)八栗(やぐり)寺の高憧(こうとう)・竜暢(りゅうよう)が堂宇を修理し、のち山林も返却されて復興した。

[祖父江章子]

建造物・寺宝

現在、山門、金堂、大師堂、多宝塔、毘沙門(びしゃもん)堂などが建つが、大師堂のほかは江戸時代以後の再建。大師堂は納涼房ともいい、桃山時代の建築で国重要文化財に指定されている。

 所蔵の文化財は多く、弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)様式の典型といわれる薬師如来立像、五大虚空蔵菩薩坐像(こくうぞうぼさつざぞう)、三絶(さんぜい)の鐘といわれる貞観17年銘梵鐘(ぼんしょう)、両界曼荼羅(まんだら)、空海筆の『灌頂歴名』、文覚四十五箇条起請文(きしょうもん)、鎌倉初期の大和絵(やまとえ)系肖像画の白眉(はくび)とされる平重盛(しげもり)像・源頼朝(よりとも)像・藤原光能(みつよし)像などの国宝のほか、絹本着色十二天像(六曲屏風(びょうぶ))、木造毘沙門天立像など国重要文化財の彫像、絵画、書、密教法具などが多数ある。なお当山は栂尾(とがのお)、槇尾(まきのお)とともに三尾(さんび)といわれる紅葉の名勝で、錦雲(きんうん)渓に臨む地蔵院からは「かわらけ投げ」が行われ、素焼の皿に願いを書いて渓谷へ投げる。

[祖父江章子]

『『古寺巡礼 京都5 神護寺』(1976・淡交社)』『久野健著『神護寺』(1964・中央公論美術出版)』

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百科事典マイペディア 「神護寺」の意味・わかりやすい解説

神護寺【じんごじ】

京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある高野山真言宗の別格本山。山号は高雄山。和気清麻呂の創建により高雄寺と称していたものに,同じ清麻呂の創建になる河内の神願寺を824年合併して神護寺と称し,のち1166年文覚(もんがく)が再興した。寺宝は多く,建築では大師堂(桃山時代),彫刻では金堂の本尊薬師如来立像,多宝塔内の五大虚空蔵菩薩像(いずれも平安初期)などがあり,絵画に藤原隆信作と伝える源頼朝・平重盛らの大和絵肖像画,平安後期の仏画を代表する釈迦如来像,両界曼荼羅(まんだら)(《高雄曼荼羅》とも),書に空海の〈灌頂歴名〉等がある。洛西の三尾(さんび)の一つとして紅葉の名所。
→関連項目一木造氏寺【かせ】田荘京都[市]康円神野真国荘三尾高雄(京都)多烏浦宅磨勝賀西津荘両界曼荼羅

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神護寺」の意味・わかりやすい解説

神護寺
じんごじ

京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある古義真言宗の別格本山。山号を高雄山という。延暦年間 (782~806) に和気清麻呂が河内に建てた神願寺を,天長1 (824) 年和気仲世が現在地に移し,空海を住持とし,神護国祚真言寺とし,真言密教の道場として著名となった。平安時代後期寺運は衰微したが,鎌倉時代初期,文覚上人により再建され,紅葉の名所としても知られている。『薬師如来立像』『五大虚空蔵菩薩坐像』など平安時代初期の彫刻,絵画では平安時代の『紫綾金銀泥絵両界曼荼羅図』『釈迦如来像』,似絵の名手藤原隆信筆と伝える『源頼朝像』『平重盛像』『藤原光能像』などの肖像画,書籍では空海筆の『灌頂歴名』,『文覚四十五箇条起請文』など多くの国宝を蔵している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「神護寺」の解説

神護寺
じんごじ

古くは高雄寺・高雄山寺とも。京都市右京区にある真言宗の寺。高雄山と号す。和気氏の氏寺。最澄や空海がここで法会を開いた。824年(天長元)河内国神願寺と合併して神護国祚(こくそ)真言寺と改称,勅願寺となる。一時衰えたが,後白河上皇や源頼朝の保護を得た文覚(もんがく)が復興。応仁・文明の乱で兵火にあうが江戸時代に再び整備された。薬師如来立像・五大虚空蔵菩薩像・空海筆「灌頂(かんじょう)歴名」・梵鐘「三絶の鐘」はいずれも国宝。

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旺文社日本史事典 三訂版 「神護寺」の解説

神護寺
じんごじ

京都市右京区にある真言宗の寺
高雄山寺ともいう。和気清麻呂が河内国に創建した神願寺を,その子真綱 (まつな) がこの地に移した。最澄や空海も一時入寺し,空海の弟子が伽藍 (がらん) を造営し真言密教の寺院となった。鎌倉時代に文覚上人が中興。たびたび兵火にあい,現在の建物はほとんど江戸時代の建築であるが,『薬師如来像』『両界曼荼羅図』『平重盛像』『源頼朝像』をはじめ平安・鎌倉時代の文化財を多く蔵する。

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デジタル大辞泉プラス 「神護寺」の解説

神護寺

京都府京都市右京区にある寺院。高野山真言宗。山号は高雄山。創建年代不詳。本尊の木造薬師如来立像は国宝に指定。

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世界大百科事典(旧版)内の神護寺の言及

【桛田荘】より

…ついで12世紀後半に平清盛が造進した後白河上皇の御願寺,京の蓮華王院(三十三間堂)領となっている。83年(寿永2)神護寺再興に奔走した文覚(もんがく)の強い要請によって,後白河上皇から神護寺に寄進され,翌84年(元暦1)立券された。以後,中世を通じて神護寺領と思われ,神護寺には立券の際に作成されたと推定される著名な桛田荘絵図が伝来する。…

【護王神社】より

和気清麻呂と姉広虫を主神とし,藤原百川(ももかわ),路豊永を配祀する。清麻呂は藤原仲麻呂の乱平定,道鏡追放,平安遷都などで功をあげたが,そのゆかりの神護寺に,平安末期文覚(もんがく)がその霊社を建ててまつっていた。1851年(嘉永4)になり正一位護王大明神の神号が宣下され,さらに明治になり,74年護王神社と改称,別格官幣社となった。…

【西津荘】より

…現在の福井県小浜市西津を主とし田烏を含む。山城神護寺領。平安末期,開発領主安倍資長が同寺(文覚上人)に寄進してこれを領家と仰ぎ,自身は預所となることにより立荘したと考えられる。…

【密教美術】より

…これに対して空海の請来品には,《真言五祖像》,密教法具,犍陀穀糸(けんだこくし)袈裟(すべて教王護国寺),木造諸尊仏龕(金剛峯寺)等があり,それぞれに唐朝様の特色がよく現れている。また空海は帰国後高雄山寺(神護寺)を拠点としたが,天長年間(824‐834)淳和天皇の発願により,灌頂堂のために,請来の〈両界曼荼羅〉をもとに金銀泥絵でこれを描かせた。これは現存最古の現図曼荼羅で,中唐様式の画風をよく伝えている。…

【文覚】より

…出家して,諸国の霊山を巡って修行し,その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが,法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得,彼に挙兵をすすめたといわれている。…

【和気真綱】より

…若くして大学寮に学び,文章生に補せられ,803年(延暦22)内舎人(うどねり)に任ぜられ,その後蔵人,内蔵頭,国守などを歴任した。兄広世は父の志をつぎ大学別曹弘文院をたてたが,同じころ真綱と広世は父の事業をつぎ高雄山に神護寺を建立し,最澄の法会を設け,その唐より帰朝後は灌頂の法壇を設立した。つづいて真綱は弟仲世とともに,空海の帰朝後〈金剛灌頂〉の法会を設け,進んでこれをうけた。…

※「神護寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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