改訂新版 世界大百科事典 「分離派建築会」の意味・わかりやすい解説
分離派建築会 (ぶんりはけんちくかい)
日本における建築文化運動の先駆。略して分離派とも呼ぶ。内容はアカデミズム内の若手建築家によるロマン主義的な造反運動であるが,ジャーナリズム,商業資本の好意的支援が論争を誘発し,西欧近代建築が日本に流入する思想的土壌を準備させた。1920年,東京帝国大学建築学科を同期卒業の堀口捨己ら6名で同会結成。目的は会員の〈建築は一つの芸術である〉という言葉に示されるように,建築構造主導の当時の建築界に対して,創作行為としての建築のあり方を訴えるものだった。会名は西欧建築運動の鼻祖とされたゼツェッシオンにちなむが,思想作風上の影響はない。活動は展覧会と図録の刊行が中心で,28年まで7回の展覧会活動では欧米の直接的影響よりは各自の柔軟な造型感覚が呈示された。企画実現の機会にも早くから恵まれ,平和記念東京博覧会の諸建築(1922),東京中央電話局(山田守,1925),東京朝日新聞社(石本喜久治,1927)などの会員作品がある。
執筆者:丸山 茂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報