ロマン主義(読み)ろまんしゅぎ(英語表記)romanticism 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロマン主義」の意味・わかりやすい解説

ロマン主義
ろまんしゅぎ
romanticism 英語
romantisme フランス語
Romantik ドイツ語

ロマン主義ということばには、時代や地域を超える「永遠のロマン主義」と、ある時代に限定される「歴史的ロマン主義」が含まれる。しかし、前者は後者の派生概念にすぎず、正確には、後者すなわち18世紀末葉に西欧に生じ19世紀中葉までほぼヨーロッパ全域およびその文化圏である南北アメリカに波及した、文芸・芸術運動ないし現象を意味する。ロマン主義という語のもとをなす形容詞ロマンチックromantic(英語)、romantique(フランス語)はもともと俗化したラテン語を、ついでその言語によって書かれたすべての作物をさしたフランス語のロマンromanに由来するが、時代が下るにしたがってロマンは初め韻文で、のちには散文でも書かれた騎士道物語に対して用いられ、とくにイギリスではロマンスromanceとよばれるようになった。ロマンチックの初出は17世紀中葉のイギリスであり、すこし後れてほぼ同時期にドイツ、フランスに入り、主として小説的で幻想的な印象を与える風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、やがて18世紀最末葉から19世紀初頭にかけて文学・芸術の革新が叫ばれるに及んで、伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として定着するに至った。

[加藤民男]

プレ・ロマン主義の時代

18世紀の主要なヨーロッパ諸国は17世紀フランスに確立された古典主義をおおむね継承すると同時に、理性を認識の唯一至上の手段とする啓蒙(けいもう)主義に支配されていた。古典主義は普遍絶対的な美の観念に立脚し、すべて良識にあわぬものを退け、厳しい規則を設けて、複雑より簡明を、動より静を、土俗性より都会性を、露骨より優雅さを、破格より均斉を重視する貴族的文化であった。しかし18世紀も中ごろになると、絶対王政の弛緩(しかん)やブルジョアジーの勃興(ぼっこう)とともに人間をありのままにとらえようとする欲求が生じ、一方、啓蒙主義そのもののなかから理性による非合理の発見がなされると、それまで軽視されてきた感覚の諸現象に人間性の真実を探り、同時に古典主義が範としてきたギリシア・ラテンの古典古代から自国の過去へと目を転じて、そこに新たな文化の源泉をみようとする気運が高まってきた。イギリスではヤング、グレーらが夜や墓地を歌う一方、古ケルトの吟遊詩人オシアンの翻訳と称するマクファーソンの詩が流行し、フランスではディドロ、とりわけルソーが自然感情や社会と対立する個人の内面を赤裸に告白し、ドイツではクロプシュトック、ヘルダー、若い時代のゲーテ、シラー、それに「シュトゥルム・ウント・ドラング」の作家たちが、フランス伝来の文化を排して自国の歴史・伝説に立ち返るとともに、自然感情や個人の叙情性を称揚し、ディドロの影響を受けて演劇の刷新も行われた。

 18世紀中葉から末にかけてのこのような感性の風土を一般にプレ(前)・ロマン主義とよんでいるが、要するにそれは個人のレベルでも民族のレベルでも個の独自性の認識への目覚めといってよく、時代・風土に応じて文化が異なるように各人それぞれに独自の価値があるとする相対性の確認であって、一見逆説的に聞こえるが経験にたつ啓蒙主義の一側面から必然的に導出された結果ということができる。そしてこのプレ・ロマンチスムを本来のロマン主義に転化せしめたものがフランス革命であった。1789年のこの革命は革命戦争、ナポレオン戦争を通じて各地に波及し、ヨーロッパ全土に未曽有(みぞう)の政治・社会・文化的大混乱を引き起こした。人心に与えたその最たる影響は深甚な幻滅感であった。啓蒙主義の最高の成果として理性による非合理な政治体制の打破であったはずのものが、恐怖政治のような人間の醜悪面を露呈させるのを目の当たりにして、初めこの革命に賛同した多くの青年たちは絶望に陥らざるをえなかった。彼らは四囲のめまぐるしい変化にとまどい、あらゆる原理の崩壊をみていっさいに対する不信感を植え付けられた。この精神の廃墟(はいきょ)のうえに自らの心性に即した文化を築こうとするのがロマン主義精神の本質であり、それはなによりもまず唯一確かなものとしての自我の確認とその内部への沈潜に始まる。内面にこそ真実があると主張して、1798年ドイツのイエナでウィルヘルムフリードリヒシュレーゲル兄弟が『アテネーウム』誌を創刊し、同年にイギリスでワーズワースコールリッジが自然の観照のうちに想像力によって宇宙との霊的合一感を歌う『叙情民謡集』を刊行して、それぞれ自国の、と同時にヨーロッパのロマン主義の嚆矢(こうし)となったのは、こうした事情に基づいている。

[加藤民男]

欧米諸国のロマン主義

ドイツ

ドイツはもともと形而上(けいじじょう)学的思考を好む国民性があるだけに、ロマン主義はいっさいを自我の所産とするフィヒテの絶対的観念論やシェリングの神秘的な自然哲学に大きく影響されながら深化し、芸術家の自己創出であるとともに自己超克でもある「ロマン的イロニー」の概念を中心に絶対・無限なるものへの憧憬(しょうけい)を難解な詩(ポエジー)理論、というより一種の哲学に結晶させた。ノバーリス、ティーク、ついでブレンターノ、アルニム、クライストヘルダーリン、ジャン・パウル、それにアイヒェンドルフ、ホフマン、シャミッソーなどの幻想作家や若きハイネなどがロマン派に数えられる。

[加藤民男]

イギリス

イギリスではシェークスピアを生んだ国柄から想像力の文学は特別な運動も理論化もなく自然に開花し、シェリーとキーツにおいて叙情性と理想主義と、それにロマン主義の一性格たる社会不正の告発が斬新(ざんしん)なイメージに表現されて至純な詩世界を結実させ、バイロンは近代社会に反抗して不安と絶望にさいなまれる魂を激烈に描出してその生き方ともどもまさしく反逆的ロマン主義の化身となった。他のロマン派としては、中世を舞台とする歴史小説を開拓したスコット、ブレイクとバーンズの両詩人、ラム、ハズリット、ディ・クウィンシーなどの散文家がいる。

[加藤民男]

フランス

フランスでは早くスタール夫人が北方のロマン主義文学の移入を説き、シャトーブリアンセナンクールコンスタンによって革命後の社会に生きる青年の苦悩が深刻に表現されながら、古典主義の牙城(がじょう)であったために、ラマルチーヌは別にして、ユゴー、ビニー、ミュッセ、デュマ、ネルバルらのロマン主義が勝利を収めるには約20年にわたる闘争を必要とした。戦いは詩歌、とくに演劇の革新をめぐって展開され、世界を全的に表現しようとするロマン主義劇の成立をみた。さらに芸術の自由は政治の自由と結び付き、七月革命以後はブルジョア体制批判の姿勢を強めてロマン主義的社会主義を生み出すに至る。特筆すべきは、スコットの影響を受けて歴史小説が流行すると同時に、その手法で人間を社会との関連において描写する発想が生じ、ノディエ、ゴーチエらの幻想作家とは対照的にスタンダールバルザック、メリメら現実を直視する小説家が、後の写実主義への道を切り開いたことである。これはイギリスのディケンズにもまた当てはまるであろう。

[加藤民男]

南ヨーロッパ

南ヨーロッパにもフランスを媒介にしてロマン主義は伝播(でんぱ)し、とくにイタリアではオーストリアからの独立・国家統一運動(リソルジメント)と一体となって強い政治色を帯び、自由主義とキリスト教に裏打ちされた愛国的文学の確立へと高揚した。マンゾーニの歴史小説はその頂点である。ほかにペッリコを中心とするミラノの『調停者(コンチリアトーレ)』誌に拠(よ)るブレーメ、ビスコンティなどがあげられるが、レオパルディも手法こそ古典的ではあるが、感情の深さによってロマン主義の先駆者と考えてよい。

[加藤民男]

北ヨーロッパ

北ヨーロッパのロマン主義はオランダでは低調であったが、スカンジナビア諸国において概して活発に展開され、ロシアではプーシキン、レールモントフを生み出すことによってこの国に近代文学の誕生をもたらした。ミツキェビッチに代表されるポーランドのロマン主義は、列強による国土分割、さらにはロシアの支配という悲運を直接に反映して、イタリアの場合同様、民族主義的で愛国的な政治色を帯びている。

[加藤民男]

南北アメリカ

最後に南北アメリカに目を転じると、南米ではそれぞれの宗主国からの旅行者や亡命者によってロマン主義がもたらされ、とりわけアルゼンチンとブラジルにおいては先住民インディオを正しく理解しその習俗を描出しようとしたところに特徴をもつが、北米のアメリカ合衆国では反逆すべき既成の芸術原理に欠けていたうえに、ピューリタニズムと功利精神に阻まれて開花が遅れた。しかしスコット流のクーパーの小説やエマソンの超絶主義のほかに、アービング、ロングフェロー、ホーソン、ホイットマン、メルビルらに独特のロマン主義的傾向を認めることができる。ポーはロマン主義的というより、むしろボードレールに先行する近代性(モデルニテ)の詩人である。

[加藤民男]

ロマン主義の本質

このように、それぞれの国ないし民族の事情に応じて多種多彩に花咲いたロマン主義の本質を、明確に定義することは容易ではない。むしろ定義しえぬところにその最大の特徴があるとさえいわれるほどである。しかし、ただ一つ確言できるのは、それがフランス革命直後の西欧の市民社会形成期に発生した文学・芸術であるという事実である。この革命は自由と平等を高く掲げて非合理な秩序を打破し、生の深い現実に根ざした真実を希求する理想主義を高揚させた。ところが、その理想主義がたちまち直面したのは、出生による不平等にとってかわった富による不平等であり、その結果、解放されながら抑圧された自我は、精神の尊厳をかざして功利主義的体制に反逆するのでなければ、いたずらに不安、倦怠(けんたい)、無為、焦燥を徴候とする「世紀病」に冒され、あるいは想像力を無限に発動させて現実のかなたに自己充足しうる絶対境を打ち立てようとした。ロマン主義に感情の過多や表現の誇張と同時に、超越ないし逃避的性格が生じたゆえんである。したがって、自ら生み出した抑圧的な市民社会の真っただなかで、なお自由を希求する個的精神の苦闘というのがロマン主義の根幹といってよく、まさしくその自己矛盾ゆえに、逆にこの運動は近代文明に対する鋭い批判の刃(やいば)になりうるのである。

[加藤民男]

日本

日本のロマン主義(浪漫主義)は、封建的社会から近代市民社会への転換期を背景に生まれた。それゆえ、自我の確立と拡充、思想と感情の自由を急進的に求めたところに特色をもつ。それは、西欧文化とキリスト教思想の受容による、前近代的な儒教倫理や封建的習俗への反逆となって現れた。また伝統的な美意識による、西欧的な合理思想・功利主義への抵抗となって現れた。この二つの相反する動きのはざまを母胎として、日本の浪漫主義は成立している。

 その先駆けは、森鴎外(おうがい)『舞姫(まいひめ)』(1890)などの三部作や、『文学界』(1893~98)に拠(よ)った北村透谷(とうこく)の評論、島崎藤村の詩である。彼らは美と自由を主張し、人間性の解放と主情的真実を探り、自我の確立を目ざした。ついで明治20年代末に登場した高山樗牛(ちょぎゅう)は自我の充足と拡大を唱え、浪漫主義の理論的裏づけを行った。

 本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花する。主流となったのは、与謝野鉄幹(よさのてっかん)・晶子(あきこ)夫妻を中心とする『明星(みょうじょう)』(1900~08)である。好んで星と菫(すみれ)を歌い星菫(せいきん)派と称された。その本質は、奔放な情熱による自我の解放と恋愛至上と空想的唯美の世界への陶酔にあった。藤村の『若菜集』(1897)の流れをくむ薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、蒲原有明(かんばらありあけ)、伊良子清白(いらこせいはく)らの浪漫(ろうまん)的情緒がそれに続いた。小説では、幻想と神秘の泉鏡花(きょうか)、自然の永遠性を渇望する国木田独歩(どっぽ)、翻訳では、鴎外の『即興詩人』(1892~1901)、評論では綱島梁川(つなじまりょうせん)の神秘的宗教論などがその実質を形成している。このロマン主義の流れは、明治40年代に入って、異国情緒とデカダンスを重んじる傾向へと変質していく。この傾向を新ロマン主義とも、耽美(たんび)派とも称する。

[浅井 清]

『H・G・シェンク著、生松敬三・塚本明子訳『ロマン主義の精神』(1975・みすず書房)』『小浜俊郎・後藤信幸訳『アルベール・ベガン著作集1 ロマン的魂と夢』(1972・国文社)』『C・シュミット著、橋川文三訳『政治的ロマン主義』(1982・未来社)』『F・O・シュレーゲル著、山本定裕訳『ロマン派文学論』(1980・冨山房百科文庫)』『加藤民男著『大革命以後――ロマン主義の精神』(1981・小沢書店)』『吉田精一著『浪漫主義の研究』(1970・東京堂出版)』『日夏耿之介著『明治浪漫文学史』(1951・中央公論社)』『笹淵友一著『浪漫主義文学の誕生』(1958・明治書院)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロマン主義」の意味・わかりやすい解説

ロマン主義
ロマンしゅぎ
romanticism

18世紀後半から 19世紀前半にヨーロッパで興った文学,哲学,芸術上の理念や運動。ルソーの思想や「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動に端を発し,17世紀以来の古典主義を人間精神の内奥の力を否定したものとして攻撃,なによりも個性や自我の自由な表現を尊重し,知性よりも情緒を,理性よりも想像力を,形式よりも内容を重んじた。そして古典主義の時代をこえて中世とルネサンスの精神に,また自然との直接的な接触に霊感を求めた。ロマン主義は政治的理想と結ばれて,19世紀の多くの革命運動の指導原理ともなった。また精神分析学への道を開くなど現代の思想に与えた影響はきわめて大きい。表現主義シュルレアリスムもロマン主義の発展形態である。

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