利田村(読み)かがたむら

日本歴史地名大系 「利田村」の解説

利田村
かがたむら

[現在地名]高郷村揚津あがつ

吹屋ふきや村の西、阿賀川の右岸に位置する。大谷組に属し、東は大蘆おおあし村・中山なかやま村・赤岩あかいわ村、対岸南方河沼郡の利田村。東の清水しみず(清水利田)、西の関野せきや、関野の南西の滝下たきした(滝下利田)の三集落がある。古くは蔭田かげたと称していたが、永正年中(一五〇四―二一)「かがた」に改めたという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には加賀田とみえ、高四五〇石余。元禄二年(一六八九)には三集落のほかに下川原しもがわら沢向さわむかい加和屋かわや下村しもむらの合せて七集落に分れ、家数は計六三(高郷村史)

阿賀川には利田滝がかかる。この滝は元和六年(一六二〇)の大風雨で大黒だいこく岩とよぶ大岩が川に落ち、流れをふさいで生じたもので、大黒岩は慶長一六年(一六一一)の会津大地震の折に当地の山が崩れて現れたという(貞享二年「野沢組風俗帳」)。近世に入ると阿賀川の舟運路開発が幾度となく企てられたが、利田滝は下流にある難所銚子ちようしくち(現西会津町)とともに水路開削最大の障害となった。正保二年(一六四五)会津藩塩川しおかわ(現塩川町)―越後津川つがわ(現新潟県津川町)間の水路開削を試みているが、利田滝および下流の悪瀬で工事は難航し、洪水も度重なったため慶安二年(一六四九)に断念した(「家世実紀」など)

利田村
かがたむら

[現在地名]高郷村みね

阿賀川を挟んで耶麻郡利田村の対岸南方に位置し、河沼郡野沢組に属した。加賀田などとも記した。越後街道の脇道勝負沢しようぶざわ越に沿う本村松原利田まつばらかがた、本村の北東の阿賀川沿いに端村合瀬あいのせ(相ノ瀬利田)がある。南東漆窪うるしくぼ村。合瀬の北方に阿賀川舟運の障害となった利田滝がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちで加々田とみえ、高一二二石余。寛文一〇年(一六七〇)の万覚帳(高郷村史)では高九六石余、反別は田方三町余・畑方一二町一反余、免五ツ一分八厘五毛、家数一二(竈数一六)・人数一〇八。

利田村
りたむら

[現在地名]立山町利田

常願寺川中流右岸、利田上野りたうわの村の北に位置。南方の日置ひおき村から五町、西の常願寺川から三町(三州測量図籍)。古くは粟原あわら村と称したといい、深見六郎右衛門により開拓されたと伝える。のち上利田・下利田に分れ、粟原村の名は廃されたという(五百石地方郷土史要)。「三州地理志稿」には垣内として安和良あわら・下利田・金屋かなやがみえる。金屋は北六町に、安和良は金屋の北四町にある(三州測量図籍)

利田村
かがたむら

[現在地名]行田市利田

北から西は渡柳わたりやなぎ村、東は埼玉さきたま村に接し、洪積層微高地上にある。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に「加賀田」とみえ、役高三五八石余で旗本高木九助領。同人はかつておし城番を勤めていた。田園簿によれば田高一九〇石余・畑高一六九石余、高木領。元禄一二年(一六九九)忍藩領となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書)、幕末まで同藩領。一七世紀後半、当村の名主が年貢納に差詰まって、田畑山屋敷に名主役目も加えて埼玉村の農民に売渡している(延宝四年「田畑山屋敷売渡証文」太田家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報