粟原村(読み)おうばらむら

日本歴史地名大系 「粟原村」の解説

粟原村
おうばらむら

[現在地名]桜井市大字粟原おうはら

女寄めより峠西方、忍坂おつさか村東南方の渓谷村落。「続日本紀」文武天皇四年三月一〇日条に「道照和尚物化、(中略)時年七十有二、弟子等奉遺教、火葬於粟原、天下火葬従此而始也」とある。

文禄四年(一五九五)の和州十市郡粟原村御検地(生田の高瀬家文書)の奥書には「あわはら村」、元和郷帳には「大原村」とある。文禄検地帳では田畠合計八一町八反六畝一五歩、分米七六七・五石(うち三二・二石荒)からなる。検地奉行石田正澄慶長郷帳では旗本伊藤治明領。


粟原村
あわらむら

[現在地名]氷見市粟原

十二町じゆうにちよう方面では最も奥の谷間にある。北東中谷内なかやち村、南東上久津呂かみくづろ村。西側に延びる谷は先で二手に分れ、北の谷に本村集落があり、南の谷に垣内の谷内がある。「増補大路水経」に万尾もお川の「水源ハ粟原村山ヨリ一水流出テ粟原村中ヲ流レ」とあり、川は本村集落の南側を流れる。上久津呂方面からの道も谷に沿って二手に分れ、北西の道は本村集落を通り早借はやかし村方面、南西は谷内の際を通り桑院くわのいん村方面に向かう。


粟原村
あわらむら

[現在地名]羽咋市粟原町

粟生あお村の東、邑知おうち平野南部の低平地に立地。集落東縁を子浦しお川が北流。正保郷帳に村名がみえ、高二三五石余、田方一五町五反余・畑方二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二四〇石、免四ツ五歩、小物成は山役四五匁、鳥役一匁余(出来)であった(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると高一六三石余、免は同じ、家数二四・人数一〇九、馬二、稼は木綿・苧、用水は子浦川から取水


粟原村
あわばらむら

[現在地名]常陸太田市粟原町

久慈川に支流山田川が合流する地点の西側にあり、北はしま村。寛永一二年(一六三五)水戸領郷高帳先高に「粟原村」とあり、「新編常陸国誌」によると文化二年(一八〇五)の戸数六八、天保一三年(一八四二)の検地では田畠六二町余、分米五五〇石余、新田田畠一反余、分米三石余であった。


粟原村
あわらむら

[現在地名]大原町粟野あわの

野時のとき村の西に位置し、同村より分村したというが(東作誌)、その時期は未詳。正保郷帳に村名がみえ、田二八石余・畑一七石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高七石余・開高一石余、村位は中。津山藩森氏断絶後は幕府領、天明七年(一七八七)下総佐倉藩領、寛政一一年(一七九九)幕府領、天保一三年(一八四二)播磨明石藩領(美作国郷村支配記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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