加喜ノ浦(読み)かきのうら

日本歴史地名大系 「加喜ノ浦」の解説

加喜ノ浦
かきのうら

[現在地名]崎戸町蠣浦郷かきのうらごう

五島灘にある蠣浦島を村域とする。北東中戸なかと瀬戸を隔てておお(現大島町)、南西は崎戸島と対し、西側に深い入江が形成される。蠣浦・嘉喜浦・加木浦などと記される。大村領の外海そとめに属する。江戸時代は崎戸村が当村の小村として扱われることが多かったが、慶長年間(一五九六―一六一五)当浦が崎戸村から分立したともいう(郡村誌)。慶長高帳では嘉喜浦村として外浦衆の知行となっている。慶長一〇年の大村領内高目録に加喜ノ浦とみえ、高一八石余で、田八反余・畠一町四反余、物成一〇石余。同一七年の総検地では加喜浦として高三〇石を打出すが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は一八石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図では蠣浦として高一八石余。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中キリシタン連判書付に「かきの浦」の「佐藤惣左衛門尉しるべすてれ」らキリシタンの代表とみられる三人が署名している。正保国絵図では加喜浦村として高一八石余。正保郷帳(大村見聞集)では加木浦として田八石余・畠九石余。寛文四年(一六六四)の大村純長領知目録(寛文朱印留)では加喜浦とあり、元禄国絵図でも高一八石余。

寛永年間(一六二四―四四)に鯨組が進出、西海捕鯨の基地として賑いをみせた。延宝元年(一六七三)深沢儀平次重昌は鯨組の居浦とすることを大村藩から許され、貞享二年(一六八五)まで六年にわたって当浦など四ヵ浦の鯨運上を年三〇貫目ずつ納めたという(九葉実録)。これより先平戸藩領や肥前唐津藩領および紀伊和歌山藩領の鯨組一〇組の居浦となっており、元禄四年(一六九一)の由緒書上(大村見聞集)には鯨組として長崎九左衛門組・藤城与兵衛組・平戸松長吉左衛門組・平戸領大島又兵衛組・唐津名護屋庄兵衛組・先深沢儀太夫組など一四組がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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