日本歴史地名大系 「加太村」の解説
加太村
かだむら
〔古代〕
当地は古代から水陸交通の要衝であり、大宝二年(七〇二)正月、駅家が置かれている(「続日本紀」同月一〇日条)。古代の於
海部郡賀多村伴島上
」とみえる。「伴島」は友ヶ島のこと。また「延喜式」(「神祇」践祚大嘗祭由加物条)に「賀多潜女十人」の記載がある。天暦四年(九五〇)一一月二〇日付東大寺封戸荘園并寺用帳(東南院文書)によれば、当時の「賀田村」に東大寺の塩山二〇〇町があった。
〔中世〕
賀太庄(本庄)として推移し、依然として交通の要地であったとみられ、「続風土記」は「中古猶四国の大名渡海には皆加太に到りしといふ、今猶村中童謡にも加太は千軒七浦在所の語あり、(中略)今猶近郷に比すれは頗大村なり、村中に北町・北中町・平井町・南中町・蛭子町・馬場町・堤町・向井町・新出等の小名あり」と記す。戦国時代には町場の形成がみられ、天正一一年(一五八三)三月二六日付の四郎兵衛借銭証文(向井家文書)に「向いの町人左大夫殿」とあり、「町人」の存在が知られる。また「続風土記」が近世の小名としてあげる地名の多くが戦国時代の文書にみられる。すなわち、同九年の公文方月々帳(同文書)に「向ノ丁」、同一〇年六月二二日付の公文方ふのり・十文銭日記(同文書)に「向之丁」「みなミ中丁」「ゑひすの丁」「北之町」「北之中丁」、同一二年四月一八日付のふのり・十文銭日記(同文書)に「向之町」「ゑひすの丁」「南之中丁」「北之中丁」「北之丁」がみえる。
加太村
かぶとむら
鈴鹿川支流加太川沿いにあり、大和街道が東西に通る。東は
応永元年(一三九四)三月一二日の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報