加太村(読み)かだむら

日本歴史地名大系 「加太村」の解説

加太村
かだむら

[現在地名]和歌山市加太

日野ひの村・磯脇いそわき浦の西に位置し、西および南は海に面する。沿岸部北端、南半部西方および南端田倉たくら崎の海は荒磯だが、北半部は湾入して砂浜をなす。西方海上にノ島・おきノ島などからなるともヶ島が浮び、紀淡海峡(友ヶ島水道)を挟んで淡路島由良ゆらに対する。天保郷帳には加太浦とあるが、「続風土記」は加太村とする。「賀太」とも記す。

〔古代〕

当地は古代から水陸交通の要衝であり、大宝二年(七〇二)正月、駅家が置かれている(「続日本紀」同月一〇日条)。古代の賀太かだ(和名抄)に属し、式内社加太神社(現淡嶋神社)がある。このほか古代の加太については、「日本霊異記」下巻の「網を用ゐて漁夫、海中の難に値ひて、妙見菩薩に憑り願ひ、命を全くすることを得る縁」に、延暦二年(七八三)秋八月、大和国高市郡波多里の呉原忌寸名妹丸が「紀伊の国海部の郡の内の伊波多岐島と淡路の国との間の海」で漁猟中、大風で舟が難破、三艘に分れて乗組んでいた九人のうち八人は溺れ死んだが、名妹丸だけは海に漂い、やがて「蚊田の浦浜」に打上げられて助かったという話がある。また「類聚国史」の天長三年(八二六)一二月二七日の記事に「去八月廿八日、慶雲見海部郡賀多村伴島上」とみえる。「伴島」は友ヶ島のこと。また「延喜式」(「神祇」践祚大嘗祭由加物条)に「賀多潜女十人」の記載がある。天暦四年(九五〇)一一月二〇日付東大寺封戸荘園并寺用帳(東南院文書)によれば、当時の「賀田村」に東大寺の塩山二〇〇町があった。

〔中世〕

賀太庄(本庄)として推移し、依然として交通の要地であったとみられ、「続風土記」は「中古猶四国の大名渡海には皆加太に到りしといふ、今猶村中童謡にも加太は千軒七浦在所の語あり、(中略)今猶近郷に比すれは頗大村なり、村中に北町・北中町・平井町・南中町・蛭子町・馬場町・堤町・向井町・新出等の小名あり」と記す。戦国時代には町場の形成がみられ、天正一一年(一五八三)三月二六日付の四郎兵衛借銭証文(向井家文書)に「向いの町人左大夫殿」とあり、「町人」の存在が知られる。また「続風土記」が近世の小名としてあげる地名の多くが戦国時代の文書にみられる。すなわち、同九年の公文方月々帳(同文書)に「向ノ丁」、同一〇年六月二二日付の公文方ふのり・十文銭日記(同文書)に「向之丁」「みなミ中丁」「ゑひすの丁」「北之町」「北之中丁」、同一二年四月一八日付のふのり・十文銭日記(同文書)に「向之町」「ゑひすの丁」「南之中丁」「北之中丁」「北之丁」がみえる。


加太村
かぶとむら

[現在地名]関町加太〈板屋いたや市場いちば越川えちがわかじさか金場かねば北在家きたざいけ神武じんぶ中在家なかざいけ向井むかい〉、阿山郡伊賀いが一ッ家ひとつや

鈴鹿川支流加太川沿いにあり、大和街道が東西に通る。東は久我くが村に接し、西は伊賀国である。仁和二年(八八六)鈴鹿峠越が開かれる以前の加太越(大和街道)は、東海道の本道筋であった。「源平盛衰記」によれば、源義経は伊賀路を通って木曾義仲討伐に向かい、「加太山にぞ懸ける」とある。

応永元年(一三九四)三月一二日の新福しんぷく(現神福寺)棟札に「勢州路鈴鹿郡賀太 薬王山新福禅寺」とある。「満済准后日記」正長二年(一四二九)三月二日条には「自伊勢守護方注進到来、一昨日廿九日、関在所三町許ノ所ヘ指寄陣取了、次加太降参事申間、先令免許了、為得御意注進申入云々」と加太氏の降参を記している。加太氏は関一族で、鹿伏兎氏とも書き、盛宗は室町初期に鹿伏兎かぶと谷を領し、子の定俊がこの地に牛谷うしたに城を築いたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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