加賀屋町
かがやちよう
津知橋筋が西へ延びて鳥羽口となる辺りと、竹田街道が直角に交差する地点の西側に南北に長く延びる。棒鼻を挟んで深草加賀屋敷町と一帯の地であり、江戸時代には総称して加賀屋町とよばれた。町名は加賀藩前田氏の邸宅が設けられていたことによる。「豊公伏見城ノ図」・伏見城下総絵図によれば、加賀屋町及び深草加賀屋敷町一帯に前田利家の下屋敷をはじめ、一族の邸地がいくつかある。近辺には、会津中納言上杉景勝や毛利輝元・吉川広元・井伊兵部・石田治部などの有力大名の広大な屋敷地があり、伏見城下の西端にあたる。
加賀屋町
かがやちよう
東西に通る中立売通を挟む両側町。町の東は浄福寺通。平安京大内裏「大蔵省」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。
近世初期、聚楽第が造営された時、この付近に加賀守(前田直茂)の邸宅があり、町名はこれによるという(坊目誌)が、前田家家譜には直茂なる人物は存在しない。聚楽第復原図によるとこの付近は加賀少将前田利家の邸宅跡で秀吉の側室となった利家の息女麻阿の邸宅跡かもしれない。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「加賀屋殿丁」とあって町屋がみられるが、中立売通はここで行きどまり、その西は広い野畑が広がっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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