神泉苑(読み)シンセンエン

デジタル大辞泉 「神泉苑」の意味・読み・例文・類語

しんせん‐えん〔‐ヱン〕【神泉苑】

平安京大内裏造営の際に設けられた天皇の遊覧用庭園。のち、空海善女竜王をまつってから雨乞い修法の場ともなった。現在、京都市中京区に苑池の一部が残る。

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精選版 日本国語大辞典 「神泉苑」の意味・読み・例文・類語

しんぜん‐えん‥ヱン【神泉苑】

  1. ( 「しんせんえん」とも ) 平安京造都の時、大内裏の南に接して営まれた禁苑。南北四町、東西二町の地を占めて造り、池や林などの自然の景観を取りこみ、乾臨閣などの楼閣を配したもので、平安初期しばしば行幸があり、遊宴、遊猟などが行なわれた。天長元年(八二四)、空海がここで請雨法を修したとの伝承もあり、そのころから善女龍王がまつられて、祈雨または止雨の霊場となった。また、御霊会(ごりょうえ)も行なわれた。平安末期から次第に荒廃し、現在は中京区門前町に苑池の一部を存し、真言宗教王護国寺(東寺)に属する寺院となり、近年、乾臨閣や池の跡が発掘されている。京都の訛(なま)りで、「ひぜんさん」「ひでいさん」ともいう。国史跡。しせんえん。神泉。

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日本歴史地名大系 「神泉苑」の解説

神泉苑
しんせんえん

[現在地名]中京区門前町

二条城の南、押小路おしこうじ(旧押小路)御池おいけ(旧三条坊門小路)の間に位置。苑内中央放生池ほうじよういけの池中の島に善女竜王を祀る。西岸の本堂に聖観音を安置。平安京造営に伴って設けられた禁苑。平安中期には御霊会や請雨法などの行われる宗教霊場となり、現在は真言宗教王護国きようおうごこく(東寺)の管轄。

当初は、「拾芥抄」によれば「二条南、大宮西八町(三条北壬生東)」とあり、東西二町、南北四町に及び、これは現二条城にじようじよう町南西一部、門前もんぜん町・神泉苑町・姉西あねにし町・瓦師かわらし町・姉大宮町西側あねおおみやちようにしがわの全域。西ノ京職司しよくし町・西ノ京池ノ内にしのきよういけのうち町の東側、市之いちの町・三坊大宮さんぼうおおみや町の西側の地域にあたる。

「日本紀略」延暦一九年(八〇〇)七月一九日条の桓武天皇神泉苑行幸記事を初見として、桓武帝在位六年間に二七回の行幸を数える(日本紀略・日本後紀)。続く平城天皇は一三回(類聚国史)嵯峨天皇四三回(類聚国史・日本後紀・日本紀略)、淳和天皇二三回(類聚国史)と、平安初期には神泉苑行幸が頻繁に行われている。これら行幸は、天皇を中心とした皇族・貴族たちの遊宴で、曲宴・観射・花宴・琴歌挿菊・避暑・七夕相撲・賦詩などで、殊に弘仁三年(八一二)二月一二日、嵯峨天皇は観花の宴を催し、文人に詩を賦さしめたが、「日本後紀」がこれをもって「花宴之節始於此矣」と記すように、平安京における観桜の節会の先駆けとなっている。神泉苑は、本来森林地帯であった地に自然の森や池沼を利用して作ったと思われ、苑の正殿として乾臨閣という、左右に閣を配した三棟からなる建物を設け、東西の釣殿・滝殿・橋などを配し、池を法成就池とよんだ。

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改訂新版 世界大百科事典 「神泉苑」の意味・わかりやすい解説

神泉苑 (しんせんえん)

平安初期庭園の遺跡。京都市中京区門前町に所在。平安京選定と同時に計画された禁苑で,大内裏の南東に隣接し,北は二条,南は三条,東は大宮,西は壬生の大路に囲まれた南北4町,東西2町の広大な地を占め,周囲に築地をめぐらし六つの門を開いていた。苑内北東部に神の泉の名のとおり水量豊富な湧泉があり中央部の大池にたたえられ,池には大きな中島があった。池に南面して正殿(乾臨閣)があり屋根には鴟尾(しび)を上げた。正殿の左右に閣が,池に臨んで東西に釣台があり,これらは廊でつながれていた。湧泉から池までの流れは,滝とも呼ばれる瀑流をなし,小橋を架け,滝殿を構えた。池の北岸には神泉苑監で画家として著名な巨勢金岡(こせのかなおか)が立てた庭石が数多くあった。神泉苑は立地がよく,豊富な水をもつ大規模な自然園に近い園池に人工的な部分を加えたもので,池に南面して左右対称の堂々たる建築をもっており,まもなく寝殿造浄土庭園として形を整えてゆく前駆をなすものであった。

 《日本紀略》の800年(延暦19)桓武天皇の行幸記事が初見で,802年2月には早くも舟を浮かべ,この月は4度の行幸があった。3月には観花,5月には競馬,7月には納涼,七夕,相撲,9月には射術,琴歌,挿菊の遊びがあった。また詩賦吟詠,狩猟,釣魚などが行われた。これら恒例儀式のだいたいは《内裏式》等によって知られる。神泉苑でのこれら宴遊は桓武天皇末年から平城・嵯峨両天皇の間が最盛期であり,天長年間(824-834)以降は,神泉苑は信仰の浄地とされ,祈雨,止雨の霊場とされた。空海の祈雨修法の伝説は名高い。天慶年間(938-947)以降神泉苑の水は灌漑用水としても利用された。平安時代末期には池水も汚濁し,池水の掃除が行事の一つとなり東寺がもっぱらこれに当たった。鎌倉・室町時代には何度か補修されたが荒廃の一途をたどり,慶長年間(1596-1615)の二条城造営により北部4分の1が城内にとりこまれ,江戸時代には民家に侵食された。現存する部分は,かつての苑地北東の一部であり,旧規の6%ほどにすぎない。
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国指定史跡ガイド 「神泉苑」の解説

しんせんえん【神泉苑】


京都府京都市中京区門前町にある庭園。794年(延暦13)の平安京造営の際に、桓武(かんむ)天皇が大内裏(だいだいり)南の沼沢に設けた禁苑(天皇の庭)である。つねに清泉が湧き出すことから神泉苑と名づけられ、12万m2もの広さの苑内には大池や泉、森林などの自然を取り入れた庭が造られて、敷地の北部には宮殿が建てられた。天皇や貴族はここで舟遊びや観花、弓射、相撲などの宴を催し、御池通(おいけどおり)の名の由来にもなった。1602年(慶長7)の徳川家康による二条城築城の際に敷地が削減されたが、現在も平安の面影を残している。境内には願いが叶う法成橋(ほうじょうばし)や、年の恵方(えほう)を祀る歳徳神(としとくじん)がある。また、神泉苑は霊場としても知られ、824年(天長1)に大干ばつに悩む淳和(じゅんな)天皇の勅命により、弘法大師(空海)が神泉苑に善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請して雨乞いの修法をほどこすと、法成就池(ほうじょうじゅいけ)から龍が天に昇り、雨が降ったという伝説が残っている。863年(貞観5)には御霊会(ごりょうえ)が行われ、祇園祭山鉾(ぎおんまつりやまぼこ)巡行の起源となった。源義経静御前(しずかごぜん)の出会いの場としても有名である。1935年(昭和10)に国の史跡に指定された。地下鉄東西線二条城前駅から徒歩約4分。

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百科事典マイペディア 「神泉苑」の意味・わかりやすい解説

神泉苑【しんせんえん】

平安遷都の際に大内裏の南に接して造営された皇居内庭園で,国の史跡。南北4町(516m)・東西2町(252m)の広大な敷地を有していた。池を中心とした大庭園で池の周囲には乾臨閣,楼閣,釣殿,滝殿などの殿舎が並び,天皇や廷臣の宴遊の場として用いられた。863年に都に疫病が流行り,869年には神泉苑の南端に66本の鉾を立てて祇園社から神輿を出し,疫病退散を祈願したことが現在の祇園祭の元となったと言われている。中世以降は荒廃し,規模を縮小した。1607年再興された寺となり,聖観音を本尊とする護国寺となっている。地下鉄東西線建設に伴って,苑の東限と西限の築地塀や,船着き場と考えられる遺構が発見された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神泉苑」の意味・わかりやすい解説

神泉苑
しんせんえん

「しんぜんえん」とも読む。平安京の禁苑。二条南大宮西(京都市中京区)に、東西2町、南北4町の地を占めた。泉、池、森林などの自然の景観を利用し、正殿の乾臨閣、左閣、右閣、東西の釣台(つりだい)などの建物があり、寝殿造の先駆といえる。桓武(かんむ)天皇以来、天皇の行幸・遊宴がしばしば行われた。9世紀の中ごろ以後になると宗教的性格が強まり、雨乞(あまご)いの祈祷(きとう)や御霊会(ごりょうえ)を行う霊場となった。中世以降は荒廃し、現在は池を中心としたごく一部が、東寺(とうじ)に属する寺院として残っている。

[吉田早苗]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「神泉苑」の解説

神泉苑
しんせんえん

平安宮左京3条1坊の東半8町にあった庭園。泉・池水・林丘のほか,乾臨閣(けんりんかく)などの建物があった。800年(延暦19)以降,天皇の臨席のもと7月7日の相撲(すまい),9月9日の菊花宴をはじめ,さまざまな宴が催され,船遊びも行われた。863年(貞観5)には御霊会(ごりょうえ)が行われ,王卿以下京の住民も許されて参観した。この池に住む竜は降雨の力があるとされ,真言宗の請雨経法がたびたび行われた。中世以後荒廃し,現在は一部を残すのみ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「神泉苑」の解説

神泉苑
しんせんえん

平安京内に設けられた池泉式庭園
池・樹木・滝・流れなどがあり,岸辺に豪華な建物をつくった。平安初期の漢詩の題材となった。

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世界大百科事典(旧版)内の神泉苑の言及

【京都[市]】より

…記録の上では,9世紀半ばすぎ,貞観年間(859‐877)あたりから顕著となる。とくに863年5月,流行する咳逆(がいぎやく)病を鎮めるため,神泉苑で催した御霊会(ごりようえ)は,その後に展開する各所の御霊会の最初となったが,その一つ祇園社の御霊会がもっとも典型的な都市型祭礼として発展し,今日に及んでいる。生活基盤の弱体であった京中住民の救済のために,水旱損のおこるたびに米塩を放出支給する賑給(しんごう)がしばしば行われ,のちには年中行事化した。…

※「神泉苑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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