日本歴史地名大系 「助沢村」の解説 助沢村すけさわむら 鳥取県:日野郡江府町助沢村[現在地名]江府町助沢伯耆・美作の国境にある三平(みひら)山(一〇〇九・八メートル)の北西麓、西流から南流に流れを変える俣野(またの)川上流域にある山間の村。南は俣野村、北は無用(むよう)村。村名はスゲの自生する谷間、すなわち菅沢の転訛といわれ(江府町史)、江尾(えび)村などでは菅笠が産物となっていた。東の国境内海(うつみ)乢(内海峠)を越え、美作国大庭(おおば)郡延助(のぶすけ)宿(現岡山県川上村)に至る延助越の道があった。拝領高は八石余、本免は五ツ八分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三七石余、竈数一二。「伯耆志」では林九七町二反余、家数一三・人数六〇。 助沢村すけざわむら 千葉県:香取郡栗源町助沢村[現在地名]栗源町助沢岩部(いわべ)村の北に位置する。東は同村の東野(ひがしの)、西は同村西野、北は九美上(くみあげ)原(現佐原市)と、三方を牧で囲まれていた。慶長四年(一五九九)の矢作縄では高一三六石(「部冊帳」伊能家文書)。寛永二年(一六二五)の知行宛行状に「助沢之村」とみえ、同村の一三六石などが旗本江原氏に与えられている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分には岩部村枝郷と注記され、江原氏の知行は幕末まで続いた(文政五年「油田牧村高帳」佐伯家文書など)。江戸時代後期には幕府領との相給となっている(弘化二年関東取締出役控帳など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報