江戸幕府が密貿易やキリスト教の伝播防止の目的で,長崎に来航する中国人を収容した施設。長崎町年寄に命じて,1689年(元禄2)長崎郊外の官有地十善寺村に竣工。工費は銀634貫余。竣工当時の敷地面積8015坪余(2万6449m2ほど),居住の建物は2階造りの19棟,部屋数50。各棟を来航船の出航地別に区分して入居させ,階上は商人用,階下は船員用とした。家賃は年額銀160貫,借地料3貫970匁余で,ともに唐人側の負担。1701年の記録によれば,館内常置の役人は乙名(おとな)(諸事の総支配管理役)3名,組頭(乙名の助役)4名,唐人番19名,探(さぐり)番(探偵)4名で,ほかに医師が内科10名,外科3名,眼科2名,牢屋医師が8名置かれている。一般日本人で出入りできる者は遊女,禿(かむろ)のほかは指定された商人のみ。1689年の入居唐人数4888名。1738年(元文3)の遊女入館数は延べ1万6913名で,同年の来航唐船は5艘である。
執筆者:山脇 悌二郎
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江戸幕府が密貿易の防止、キリスト教の伝播(でんぱ)抑圧の目的で、来航唐人(中国人)を収容した施設。唐館ともいう。長崎郊外の官有地、十善寺村御薬園(長崎市館内(かんない)町)に1689年(元禄2)公費で開設した。同年の収容者数、4888名。1694年ごろの敷地面積8015坪余(約2万6450平方メートル)。家賃(初め年額、銀160貫、のち商売銀高100貫につき2貫119匆)、借地料(年額、銀3貫余)は唐人側の負担。竣工(しゅんこう)当時、唐人居住の建物は二階造りの長屋19棟。階上階下を50の部屋に割り、階上の20部屋を船頭(来航商人の代表者)、客商らの部屋、階下を乗組員の部屋とした。ただし各部屋は起帆地別の使用とし、起帆地を異にする者たちがこみで泊まることはなかった。食事は自分賄いで、起帆地別にそれぞれの飯団(はんだん)をつくった。唐人屋敷乙名(おとな)(3名)が館内取締りの責任者。ほかに組頭、唐人番、探番(さぐりばん)、辻番(つじばん)、杖突(つえつき)らの役人が置かれた。その数は時代により差があるが、100名内外。1701年(元禄14)の記録によれば、医師15名(内科10、外科3、眼科2)、牢屋(ろうや)医師8名も置かれている。一般日本人で出入りできた者は、指定商人のほかは遊女、禿(かむろ)のみ。1738年(元文3)の呼入れ遊女数は延べ1万6913名。
[山脇悌二郎]
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江戸時代,長崎に来航した唐人を隔離収容した施設。1689年(元禄2)幕府はキリスト教の禁止と密貿易の防止を目的として郊外の薬園に屋敷地をつくり,長崎市中に宿泊していた唐船の乗組員・客商を収容した。面積は竣工当時は6900坪余であったという。その後しだいに拡張され,宝暦期には9373坪あった。大門・二の門により外部と隔てられ,内部には住宅・風呂屋・関帝堂・観音堂・土神堂などがあった。また大門と二の門との間には輸出入品取引のための札場や日本商人の出店のほか,通事部屋・乙名(おとな)部屋・辻番所・探(さぐり)番所などがおかれ,役人が交代で詰めていた。唐人は許可なくしては外出を許されず,日本人も役人以外は許可された商人と遊女だけが出入りできた。
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