デジタル大辞泉 「仮名」の意味・読み・例文・類語
か‐な【仮名/仮▽字】
[類語]文字・
け‐みょう〔‐ミヤウ〕【仮名】
2 元服のときに
「其の―実名分明ならず」〈平家・一一〉
3 仏語。実体のないものに、仮に名づけること。また、仮に名づけられたもの。
かり‐な【仮名】
2 仮につけた呼び名。
( 1 )①は、元服の際につけられる名で、「ロドリゲス日本大文典」には、名づけた人を「烏帽子親(えぼしおや)」、名づけてもらった子を「烏帽子児(えぼしご)」というとある。
( 2 )近代以降、もっぱら④の意で用いられるようになり、語形も呉音読みから漢音読みのカメイとなった。
日本で漢字を一部分省略するか,極度に草書化するかによって作り出した文字。片仮名と平仮名との2種がある。他に,漢字の意義を考えずにその音のみをそのまま用いるものを万葉仮名という。日本には古来文字がなかったので,漢字が最初の文字であった。したがって漢字を真名(まな)(ほんとうの文字の意)と呼び,真名を省略するか,草書化して作り出した簡略な文字を〈仮り名(かりな)〉と呼んだ。その音便形が〈かんな〉で,それのつまった形が〈かな〉である。仮名創成以前に日本にも文字があったという説が鎌倉時代以降に現れ,江戸時代には,その実例と称するものも提出された。それを神代文字(じんだいもじ)という。しかし,その大部分は,朝鮮の京城で1443年に創案された朝鮮語の表音文字であるハングルに類似するものか,あるいは空想的な創作であるものが多い。神代文字は多く47字か50字から成っており,それが〈いろは歌〉や五十音図の影響下にあることを示している。しかし奈良朝以前の日本語の音韻体系は47音,または50音とは関係がないので,神代文字はすべて後世の偽作である。日本は朝鮮や中国との交渉によって文字を学んだのであり,最初に知った文字は漢字であった。
漢字は中国語を書くための文字で,言語の基本的構造の異なる日本語を表記するのには不便であった。ことに,地名・人名のごときを書くに困難だったので,中国でサンスクリットの固有名詞を書くに用いた方法,すなわち漢字の意味を捨てて音のみを用いて固有名詞を表記する方法を日本でも用いた。たとえば,《魏志倭人伝(ぎしわじんでん)》にかかげられている日本の地名・国名のごときである。日本側の資料で今日知られている最古のものは,5~6世紀ころの金石文であり,熊本県江田船山古墳の刀身銘や,埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘,和歌山県隅田(すだ)八幡宮の仿製鏡(ほうせいきよう)の〈意柴沙加宮(おしさかのみや)〉という銘などがそれである。それに次いで,漢字の訓を用いて尾治(をはり),小治田(をはりだ)などと表音的に書くくふうも成立した。これを字訓仮名という。また漢字1字で2音を表すもの,たとえば徳太理(とこたり)の徳(とこ)のようなものも用いられた。このような仮名は,推古朝以降ひじょうに多くの例が残存するが,とくに《万葉集》の表記に用いられたので世に万葉仮名という。推古朝のころには宜(が),已(よ),至(ち),移(や),居(け),奇(が),里(ろ)など,後世の漢字の字音と異なる音で用いられた万葉仮名が多いが,それらは漢・魏のころの字音によったものである。約100年後には万葉仮名は大いに広まり,全国で用いられるようになった。大宝2年(702)の戸籍帳によれば,そのころはおもに中国の長江(揚子江)下流地方の呉音(ごおん)を用いており,《古事記》《万葉集》もほぼ同じ字音を用いている。《万葉集》では字音仮名のほかに字訓仮名も多く用いられたが,その中には,恋水(なみだ),山上復有山(出づ),八十一(くく),十六(しし),義之(てし)などのいわゆる戯訓という遊戯的な用字法さえある。《日本書紀》は国威を中国に向かって発揚しようとして編修されたので,《古事記》に比較すると,同時代の著作でありながら,用いる万葉仮名の種類がひじょうに異なり,字画の複雑な文字が多い。その字音は唐の都,長安地方のいわゆる北方音によったものが多く,《古事記》《万葉集》と同じ字を用いた場合でも,別の音を表わしているものが少なくない。《古事記》は用いる仮名の種類165種,《日本書紀》は527種,《万葉集》は580種である。《万葉集》の防人歌(さきもりうた)では,各国別に用いる仮名字母が相違しているから,全国では地方地方で仮名の種類が異なり,また個人的にも山上憶良,大伴池主など相違があったらしい。万葉仮名は,多くは《法華経》などの陀羅尼(だらに)や,《切韻(せついん)》の中で反切(はんせつ)を示す文字から選ばれている。
記紀万葉では原則的には音の清濁をよく書き分けており,その用字法の細密な研究から,奈良時代には87の音節が区別されていたことが明らかにされ(橋本進吉の研究),《古事記》では88の区別があったことも知られた。万葉仮名はしだいに簡略な字体が用いられるようになり,大宝2年の戸籍帳にはすでに(部),(川),(牟)などの略字がある。奈良時代末期の手紙などに用いられた万葉仮名の状態は,正倉院に残存する762年(天平宝字6)ころの文書2通(《南京遺文(なんきよういぶん)》所収)によってうかがわれる。そこでは,すでにかなりくずれた字形が用いられている。万葉仮名は平安時代に入ると,宣命(せんみよう)や,辞書の注などには用いられたが,しだいに用途がせまくなり,片仮名と平仮名とによって取って代わられた。万葉仮名は奈良時代を通じて識字階級の用字で,一般の用いるところとはならなかったようである。
平安時代に入ってから,古経巻や漢文に訓点を書き込むことが始まり,極度に省略した万葉仮名が用いられた。年代の知られる最古の例は,天長5年(828)点の《成実論(じようじつろん)》であり,承和元年(834)点の《大乗掌珍論(だいじようしようちんろん)》,承和8年(841)点の《大乗広百論釈論》,天安2年(858)点の《百論》など以下多数が現存する。これ以前と思われる《唐写阿毗達磨雑集論(とうしやあびだるまぞうじゆうろん)》の古点,西大寺本《金光明最勝王経(こんこうみようさいしようおうぎよう)》の古点などの仮名も,だいたい奈良時代普通に用いられた万葉仮名の簡略化されたものである(図参照)。
もとの万葉仮名から,どの部分を採ってくるかは一定していなくて,万葉仮名そのままの八(ハ),井(ヰ),三(ミ)などもあるが,上画をとったナ(奈),ウ(宇),ソ(曾),コ(己),下画をとった于(宇),ス(須),ル(流),偏をとったイ(伊),カ(加),矢(知),く(奴),旁(つくり)をとった又(奴),呆(保),エ(江)などがある。万葉仮名は約1000種ほど用いられていたので,その省画から発達した片仮名は,はじめ種々の異体字があった。たとえば同じイの形でも,ある文献ではこれを伊の省画として用い,別の文献では保の省画としてホと同音を表わすに用い,また別の文献では佐の省画のつもりでサを表すに用いている。950年ころ(天暦年間)までは人により,流派により異体字が多かったが,片仮名が世間に流通するにつれてしだいに字体が統一され,平安末期になると異体字はひじょうに少なくなり,室町時代にはほぼ今日と同形になった。現在の片仮名の字体は1900年(明治33)の小学校令で決定されたものである。
片仮名は,はじめ仏教の経巻のかたわらに書き込むために発達したが,やがて,片仮名を漢字の間にまじえて,いわゆる仮名交り文が作られるようになり(《東大寺諷誦文稿(とうだいじふじゆもんこう)》,西大寺本《金光明最勝王経》古点の中に見える),やがて《今昔物語》《打聞集(うちぎきしゆう)》《三宝絵詞(さんぼうえことば)》などの説話も片仮名交りで書かれるようになって,片仮名で書いた和歌集(たとえば《後撰集》など)も作られ,その用途は広くなった。しかし,片仮名は,漢字とともに用いられるのが原則的で,漢字の付属的な文字であった。明治時代以来,小学校の文字教育では片仮名を先に学習させていたが,第2次世界大戦後は平仮名を先に教えるようになった。
万葉仮名は奈良時代末期にはしだいにくずした字形となり,画数も少ない文字が多用されるようになったことは前述の正倉院の天平宝字6年ころの消息2通によってわかるが,平安時代に入って,ますます粗略な草書体が用いられたと思われる。漢文の傍訓にも,片仮名とともに草書体の仮名が混用された。平安初期は,男子の世界では漢文学が隆盛で,勅撰の漢詩集が相ついで編さんされ,学問といえば漢字漢文を学び,書くことであったから,女子は男子に及ばず,一般に漢字漢文を学ばなくなった。それゆえ女は正式な文字としての漢字の圧迫をうけることが少なく,草書体の文字をいっそう簡略にくずして自分たちの歌や消息を記すに用いた。そのため,女子用の文字として漢字から離れた文字が成立し女手(おんなで)と呼ばれ,男子も女への消息に用いた。院政期に入ってからの例ではあるが,宣命においても,女に与える場合には平仮名で書いた。初期の女手の今日に伝存するものはきわめて少ないが,867年(貞観9)の讃岐国戸籍帳に記された大属藤原有年の申文や,《紀貫之(きのつらゆき)自筆本土佐日記》の臨模本と考えられる《藤原為家(ふじわらためいえ)本土佐日記》の仮名や,《小野道風消息》《高野切(こうやぎれ)》《桂本万葉集》の仮名などが古い資料である。女手は現在ではきわめて多数の異体字が知られているが,もともと簡易を求めて発達したものであるから,発達の当初はかえって異体字は少なく,原則として一つの文献の内部では1音に2字を用いず,1字1音を原則として清濁の区別も書き分けず,もっぱら実用的でやさしいことを目ざしたらしい。《藤原為家本土佐日記》の仮名の字源は,〈安以宇衣於加可幾支木久計介己御散之数須世曾所太多知州天止奈那仁尓奴祢乃能波八比不部保末美三武无女毛也由江与良利留礼呂和為恵遠乎〉の63字で,ほとんどすべて万葉仮名としてしきりに用いられた文字である。
平安遷都の後,約100年の間に,摂関政治への態勢はしだいに整えられ,宮廷の後宮での女子の世界が文化史的に意味をもってきたとき,そこで流通していた女手は,歌合の文字として用いられるようになり,やがて和歌を女手で書く慣習が成立し,勅撰集である《古今和歌集》が撰進されるとき,女手が用いられた。これは女手が仮り名として社会的に低い位置に置かれていたのが,公的な文字として認められた最初の機会となり,やがて紀貫之によって,初めて散文の日記文学へと用途が拡大され(《土佐日記》),平安時代文学のための文字として《竹取物語》《宇津保物語》以下に用いられるに至り,勅撰和歌集もすべて女手で書かれるようになった。女手は流通するにつれて多くの男性もこれに芸術的洗練を加え,字形を美しくし,字源も新たな文字を選んで変化を求めるなど,複雑な書道の美を生み出すに至った。伝紀貫之筆の《高野切》《桂本万葉集》,伝小野道風筆の《秋萩帖(あきはぎちよう)》《屛風土代(びようぶどだい)》,藤原行成の《和漢朗詠集》などにその跡を見る。また女手は漢字による日記の中へ混用されることもあった。
平仮名の作者を弘法大師とする伝承があるが,それは〈いろは歌〉を弘法大師の作と伝える平安時代末期以後の誤説にもとづくもので,平仮名は特定の人の創案によるものではない。〈いろは歌〉は清濁を合わせて1音に数えて47音から成っているが,弘法大師の生存したころには,ア行ヤ行のエの区別,コの音の2類の区別が存在していた時代であるから,もし弘法大師が〈いろは歌〉のようなものを作るとすれば48または49の音のものを作ったであろう。現に〈いろは歌〉が〈手習詞(ことば)〉として用いられる前には〈あめつちの詞〉という48音(ア行ヤ行のエの区別を存する)の歌が行われていた。したがって〈いろは歌〉は弘法大師の作ではなく,女手も弘法大師の作ではない。万葉仮名を草体にくずして用いるうちに多くの人々によって形成された文字である。鎌倉時代の初め,藤原定家は〈いろは歌〉47字を,区別すべき最低限の女手と認め,〈お〉〈を〉をアクセントの低い,高いによって使い分けることとした。これは平仮名をもっぱら用いた和歌の世界の,仮名使用上の作法とされ,長く後世までの伝統を形成した。しかしこれは片仮名の文献では行われないものであった。
平仮名という名称は江戸時代以後に行われた名称であって,江戸時代にも多数の異体字が行われたが,1900年の小学校令において,こんにちの字体に統一され,活字体もこれにならった。第2次世界大戦後,現代かなづかいが行われるとワ行の〈ゐ〉〈ゑ〉は用いないこととなった。また,前にも述べたように戦後は,小学校でまず平仮名から教えることになった。
→漢字
執筆者:大野 晋
平安時代には仮名の書体として5種類あったことが《宇津保物語》に見える。それは〈男手(をのこで)にもあらず女手にもあらず〉〈男手〉〈女手〉〈片仮名〉〈葦手〉である。男手は真名と同義で,書体としての称よりはむしろ国語を写す漢字の意で,主として楷書行書の書体をいう場合が多い。次に男手でも女手でもない書体は,男手の草書体のさらに略体で〈草(そう)〉と呼ばれ,男手が簡略化された書体である。《源氏物語》の〈絵合(えあわせ)〉や〈梅枝(うめがえ)〉の巻に〈草〉または〈草の手〉と記されているが,遺品としては〈讃岐国司解(さぬきのこくしげ)〉巻首にある《藤原有年申文(ふじわらのありとしもうしぶみ)》が挙げられる。これは867年(貞観9)の文書で,漢字の草書体がさらに移行して,女手への過渡期的書風が示され,しかも漢字の草書の原形を保った字形である。また墨線のゆるやかな動きは漢字の草書の線とは異質の筆の運びで,抑揚の少ない線で書かれ,この線に日本の書道(和様書道)の根幹的な線質の源流を見ることができる。10世紀初頭に《古今和歌集》の勅撰があり,国文学の興隆によって仮名書きの自由化が進んだ。草の手もしだいに単純化し,漢字の字形から離れた独自の形態をとる方向へ進む。10世紀以降の仮名の作品は,書写当時の巻子や冊子の原形のまま伝存するものは少なく,多くは寸断されて鑑賞用に手鑑(てかがみ)や掛幅装となり,〈古筆切(こひつぎれ)〉となって伝えられている(古筆)。それらの中で草の手の遺品は少なく,伝紀貫之筆の《自家集切》,伝小野道風筆の《秋萩帖》,伝藤原佐理筆の《綾地切(あやじぎれ)》などがあるが,これらはすでに女手や平仮名をも混じえた流麗な運筆である。古筆切の筆者はほとんど不明で,近世に至って鑑定家によって付加されて伝称して来た筆者で,確証あるものは極めて少ない。
女手は変体仮名と現行の平仮名とを含めた総称といってよいであろう。そして女手において平仮名の完成された形を見ることができる。女手は習いやすさとともに,墨の線の流れの美しさを強調させ,各字を連続した連綿体に発展した。連綿体は草の手でも見ることができるが,線の流れの美しい変化を現すまでには至らなかった。女手の美しさを現今に伝える遺品は《高野切本古今和歌集》を第一とする。これは《古今和歌集》の最古写本としても貴重であるが,仮名書きの最高峰を示す書道史上の優品で,その断簡が高野山に伝来していたので,一連の写本を高野切本と呼ぶ。これは3種の書風に分かれ,伝存する巻次によって分けると,巻第一・九・二十,巻第二・三・五・八,巻第十八・十九に分けられ,全20巻を11世紀中ごろ3人の能筆家によって分担執筆したものと考えられる。3人のうち,第二の筆者が源兼行(みなもとのかねゆき)と推定されている。高野切は仮名の完成された形を示し,ゆるやかな運筆と抑揚は典雅な平安貴族を代表する筆跡である。書写当時のままの完本は巻第五・八・二十の3巻のみで,他は分断され,諸家に分蔵されている。平安時代の三色紙と呼ぶ継色紙・寸松庵色紙・升色紙(ますしきし)も,本来は冊子本の歌集であったが,一首ごとに切り放して表具されている。継色紙は小野道風筆と鑑定されているが,書風はほぼ道風時代(10世紀中ごろ)と推定され,高野切よりは古体に属するものである。三色紙とも一首を冊子の1頁あるいは見開き2頁に散らし書きとし,余白の美を極めた典型を見せ,升色紙はさらに墨の濃淡や線の太細によって奥深い雅味をもたせるなど技巧に富んだ書風が現れ,しだいに個性的な書へと移っていく。著名な三蹟の道風・佐理・行成の仮名の真蹟は発見されていない。関白藤原道長の仮名書きはその日記《御堂関白記》に残されているが,日常の書の中に品位ある流麗な連綿体が用いられている。平安時代において筆者が明らかな仮名書きはきわめて少なく,古筆切には前述のごとく古筆家の鑑定による筆者名を冠して称するのが通例であるが,確実なものはまれである。高野切以後の仮名の書風は種々の古筆切に見られるが,書写年代を明確には知りがたい。しかし,平安時代の仮名の集大成ともいうべき名品は《西本願寺本三十六人家集》(三十六人集)であろう。これは12世紀初期の能書家20人の分担執筆で,藤原行成の曾孫定実と次の定信などの筆者が推定され,工芸的意匠をこらした料紙の美とともに,藤原文化の極致を示している。この一群の書風は高野切から約半世紀を経て,すでに高野切のおおらかな書流は影をひそめ,技巧的な個々の運筆は緩急の抑揚に新らしい傾向が見える。墨線のリズミカルな動きに諸種の個性が現れ,また繊細な感覚が横溢している。
鎌倉時代以降は平安時代の流麗な筆致がしだいに消え,一様に肉太く力強い書体に変移し,初めて流派として法性(ほつしよう)寺流や後京極流が始まるが,熊野懐紙に遺された書風によって,12世紀初めの貴族歌人の仮名書きが知られる。13世紀後期,伏見天皇は平安時代の仮名に習熟し,復古的な流麗美で伏見院流と称された名筆で,皇子尊円親王はさらに宋・元の書風を加味して尊円流(青蓮院流)を始められた。この流は近世の御家流(おいえりゆう)の源流である。室町時代は故実を重んじた諸流派が乱立したが,書風としては尊円流と同類の亜流で,概して鎌倉時代以降の仮名は漸次平安時代とは異質の書体に変化し,室町時代に定着した形で御家流に引き継がれた。しかし,明治の西欧文明の急速な輸入の反動によって,復古的な平安時代の仮名の研究や古筆鑑賞の機運が興り,時を同じくして1896年8月,西本願寺において三十六人家集の発見があり,ますます平安時代の仮名の美が見直され,現代における仮名の規範は平安時代におかれていると言えよう。
→書
執筆者:財津 永次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
表音文字の一種。日本語を書き表すために、漢字について創案された独自の用法、および漢字を基にしてつくりだされた新しい文字の総称。前者は「万葉(まんよう)仮名」(または「真(ま)仮名」)といわれ、漢字の意味を捨て発音を採用した用法であり、後者については、漢字の全画を極度に草体化、簡略化した「平仮名」、および漢字の字画の一部だけを省略した「片仮名」の2種がある。「かな」は古く「かんな」と発音した。「かりな」の音転で、「かり」は「仮」、「な」は「字」の意で、漢字を「まな」(真字)といったのに対する語と解せられる。
[築島 裕]
もと中国で、インドや中央アジアなどの外国の地名・人名などを表すのに「身毒」Hindu、「阿弥陀」Amitaのような用法があったが、本邦でもこの方式は、5世紀ごろの文献のなかにすでに人名などの表記に使用されている。8世紀(奈良時代)になると、人名、地名はもとより、動詞や形容詞などの単語や、さらに進んで短い文の表記にも使用され、歌謡をこの方式で記したものも多く出現した。8世紀初頭の『古事記』や『日本書紀』はその例である。8世紀中葉に成立した『万葉集』は、和歌4500余首を集録するが、そのなかで万葉仮名はもっとも盛んに使用されている。それは分量のうえからも、内容上のバラエティーからもいえることである。8世紀の文献には「風土記(ふどき)」『歌経(かきょう)標式』「仏足石歌碑」など、万葉仮名を用いたものが多いが、同じ時期の「祝詞(のりと)」「宣命(せんみょう)」などの口誦(こうしょう)を主とした文献では、正用の漢字に添えて万葉仮名を小書きにした、いわゆる「宣命体」が発達した。さらにまた、当時の仏僧の著述のなかにも、万葉仮名による和訓の注記が往々にしてみられる。このような状態は、次の平安時代以降にも伝統的に継承され、脈々として近世にまで及んだ。しかし、平仮名、片仮名の創案・発達に伴い、その用法は限定されていった。
万葉仮名の用法には大別して「音(おん)仮名」と「訓仮名」とがある。前者は漢字の字音に基づいたもので、「阿(ア)米(メ)」「烏(ヲ)等(ト)咩(メ)」などがそれであり、後者は国語の音に基づいたもので、「八間跡(ヤマト)」などがそれである。『古事記』『日本書紀』などの訓注や歌謡はすべて音仮名を用いたが、『万葉集』の歌では音仮名、訓仮名を併用し、ことに訓仮名のなかには、「鶴鴨(ツルカモ)」「八十一」(クク)、「神楽声」(ササ)、「山上復有山」(イデ)のような特異な用法のものまで含んでいる。「五十(イ)蜂音(ブ)石花(セ)蜘蛛(クモ)荒鹿(アルカ)」などは、故意に動物の名を連ねた例で、戯書(ぎしょ)とよばれるが、これも訓仮名の一種とみられる。訓仮名はこのほか『古事記』や『日本書紀』、古文書の神名・人名などに用例があるが、一般の語の場合は音仮名が多かった。その音仮名も、もとになった漢字音の種類によって、「止(ト)」「冝(ガ)」「巷(ソ)」「移(ヤ)」などの古音、「奴(ヌ)」「美(ミ)」などの呉(ご)音、「娜(ダ)」「磨(バ)」などの漢音の別があったが、そのうち呉音関係のものがもっとも多く用いられた。また、呉音の語尾を省略したものがあり、「天(テ)」(tienのnを省略)、「良(ラ)」(langのngを省略)、「禰(ネ)」(nieiのiを省略)、「末(マ)」(muâtのtを省略)など、その例である。
[築島 裕]
平仮名は万葉仮名の全画を極度に草書化して生じた、日本独特の音節文字である。現在一般に用いられる字数は47字で、ほかに「ん」を含めて48字となる。その字体と、字源と考えられる万葉仮名は次のとおりである。
い(以) ろ(呂) は(波) に(仁) ほ(保) へ(部) と(止)
ち(千) り(利) ぬ(奴) る(留) を(遠) わ(和) か(加)
よ(與) た(太) れ(礼) そ(曽) つ(川か) ね(祢)
な(奈) ら(良) む(武) う(宇) ゐ(為) の(乃)
お(於) く(久) や(也) ま(末) け(計) ふ(不) こ(己) え(衣) て(天)
あ(安) さ(左) き(幾) ゆ(由) め(女) み(美) し(之)
ゑ(恵) ひ(比) も(毛) せ(世) す(寸)
ん(无)
*「へ」は「部の草体の略字体」
*「よ」は「與の略字体の古体」
上の字体は、1900年(明治33)の「小学校令施行規則」によって統一されたものであるが、このほかにも、「変体仮名」が用いられることがあり、ことに前記の統一以前には多くの異体字が行われていた。なお、「かきくけこさしすせそたちつてとはひふへほ」の20字については濁点を加えて「がぎ……ぼ」とし、「はひふへほ」の5字については半濁点を加えて「ぱぴぷぺぽ」とする。また、「ゐ」「ゑ」の2字は「現代かなづかい」では使用しない。
平仮名の作者は、弘法(こうぼう)大師空海とする説が古くからあるが、確かな根拠はない。平仮名の古例は平安初期の9世紀末ごろまでさかのぼるが、それは空海没後数十年を経ている。平仮名の作者を特定することはむずかしいが、おそらく当時の識字階級のなかに求むべきであり、当初はかならずしも女性とは限らず、むしろ男性の書記や教養人の手によって発達したのではないかと思われる。8世紀末ごろ以後、書簡文などに、1字1音の万葉仮名を草体化して連ね書いたことがあったが、しだいにその字体の簡略化が進み、9世紀末には、現行のような平仮名字体が成立していたらしい。10世紀初頭の勅撰(ちょくせん)の『古今和歌集』が平仮名によって記されたのは、この文字がすでに完成して、公的場面に登場するにふさわしい資格を備えていた証(あかし)と認められる。ついで10世紀末には、漢詩と和歌を併載した『和漢朗詠集』がつくられたが、そこには漢字と平仮名との併用がみられる。平安中期における『枕草子(まくらのそうし)』『源氏物語』などの女性仮名文学の隆盛は、平仮名の発達が一因をなすといわれる。平仮名の当時書写の資料をみると、10世紀末ごろまでは比較的単純な字体が多く、字母もわりあい少数なのに、11世紀以後にはかえって複雑な字体が増加し、字母の種類も多くなる。これは、当時の書道の隆盛により、平仮名の字体に変化が求められた結果と思われる。その傾向は中世以後にも長く伝えられ、字体も平安時代以来ほとんど変わらぬままに現在に及んでいる。その使用範囲も、平安時代に女性が中心であった伝統が後まで続き、女性や子女の世界に主として行われた。鎌倉時代以後、「法華経(ほけきょう)」や『論語』など、漢文の和訳本が平仮名で書かれたものがあるが、おそらく婦女子の読者を対象としたものであったと思われる。また、古くは平仮名文はほとんど平仮名ばかりで、漢字を交えることが少なかったが、中世以後にはしだいに漢字を混じたものが増加した。
[築島 裕]
万葉仮名の字画の一部を捨て、一部を残してつくった音節文字。現行の片仮名の字数は47種で、ほかに「ン」を加えて48種となる。濁点「゛」、半濁点「゜」の用法は平仮名と同様である。古く「かたかんな」と称したが、「かた」は字形が不完全との意であろう。現行の字体とその字源を次に示す。
ア(阿の行書体の偏(へん))
イ(伊の偏)
ウ(宇の冠)
エ(江の旁(つくり))
オ(於の古体の偏)
カ(加の偏)
キ(幾の草体である平仮名「き」の初画)
ク(久の初画)
ケ(介の一部省画)
コ(己の初画)
サ(散の初画)
シ(之の草体の変形)
ス(須の古体「湏」の行書の終画)
セ(世の草体またはの終画である「せ」の変形)
ソ(曽の初画)
タ(多の終画。初画ではないであろう)
チ(千の変形)
ツ(の変形。の字源は諸説あって定めがたいが、「州」の初画か)
テ(天の初画 の変形)
ト(止の初画)
ナ(奈の初画)
ニ(二の全画)
ヌ(奴の旁)
ネ(祢の偏)
ノ(乃の初画)
ハ(八の全画)
ヒ(比の旁。偏ではない)
フ(不の初画)
ヘ(部の草体の略字体の変形)
ホ(保の終画)
マ(末の初画の変形)
ミ(三の全画の変形)
ム(牟の初画)
メ(女の初画の変形)
モ(毛の行書体の変形か)
ヤ(也の行書体の変形)
ユ(由の終画の変形)
ヨ(與の略体の終画)
ラ(良の初画)
リ(利の旁)
ル(流の終画)
レ(礼の終画の変形)
ロ(呂の初画)
ワ(和の旁の古体の変形)
ヰ(井の全画)
ヱ(恵の草体の終画)
ヲ(乎の初画の変形)
ン(撥(は)ねる符号の変形)
片仮名の作者を奈良時代の吉備真備(きびのまきび)とする俗説は信じられない。最古の片仮名の例はそれよりも若干下った時代から現れる。漢字の字画を一部省略して記すことは、すでに中国にも例があったが、日本でも「菩薩(ぼさつ)」の2字の草冠を重ねて書いた「」のような例が行われた。万葉仮名の場合も、「牟」を「厶」のように省記した例が上代からみえるが、この手法が拡大発達して、原漢字のもっていた表意性をまったく失ったのが片仮名である。片仮名は最初、漢文の訓点記入のために発達した文字で、その最古例は平安初期の9世紀初頭の訓点本(漢文に訓読の符号や文字を記入した文献)のなかにみいだされる。その作者を特定することは困難であるが、たぶん奈良の仏寺の学僧のなかに求められよう。当初はヲコト点などと併用されることが多く、万葉仮名、平仮名と未分の状態であったが、やがて万葉仮名や平仮名が退潮して、片仮名が専用されるに至った。11世紀ごろまでは異体の字体が多く用いられた。しかし、それも12世紀のころには社会的に統一の傾向に進み、現行のものに近くなり、近世に至ってようやく現在の形を示すに至った。片仮名は最初から発音符号的な性格が強く、美的要素が乏しかったが、この点、平仮名と対照的であって、時代にしたがっての字形の変化が顕著にみられる。一方、漢字と片仮名とを併用した「片仮名交り文」は、9世紀初頭の訓点書き入れのなかに早くもみられるが、平安なかばごろ以降、片仮名の字体の簡略化に伴ってしだいに盛んになり、片仮名のみの文までも出現するに至った。最初は和歌などが主であったが、のちには説教の記録や説話なども記されるようになり、まれには漢字・平仮名・片仮名併用の文体さえも出現した。当初、片仮名は漢字に対する補助的な働きしかもたず、当座一時的な記入用にすぎなかったが、訓点の固定化と相まって、片仮名の社会的地位も向上し、平安時代なかば以降には辞書類のなかに和訓の漢文と併用されるに至り、進んでは片仮名を用いて記した著述も行われるようになった。また、片仮名は当初から学者・僧侶(そうりょ)の手になったことが多く、学術・宗教上の述作や記録に使用される伝統が長く後世まで継続した。
[築島 裕]
『大矢透著『仮名遣及仮名字体沿革史料』再版(1970・勉誠社)』▽『「仮名発達史の研究」(『春日政治著作集1』所収・1982・勉誠社)』▽『中田祝夫著『古点本の国語学的研究 総論篇』(1954・講談社)』▽『築島裕著『仮名』(『日本語の世界5』1981・中央公論社)』
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…ここにおいて,同姓の間でも,さらに族名を分かつ必要にせまられ,貴族では称号,武士では苗字(みようじ)が生ずるのである。 一方,氏姓のほかに,同時に発達したのが字(あざな)であり,仮名(けみよう),呼名(よびな)ともいわれ,一種の私称であった。すでに《日本霊異記》に,紀伊国伊刀郡人文忌寸(ふみのいみき)を,上田三郎と称した例がある。…
…重要なのは(1)で,すでに11世紀中ごろには近江国の大津,山城国の木津,淀津,山崎津などに諸国の租税や荘園の年貢物を収納する納所が多数立ち並んでいた。これらの納所の中には〈倉並納所〉(多数の倉庫が並んでいる納所の意)などという倉庫業者にふさわしい仮名(けみよう)(本名を隠して仮につけた名)を名のるものもあった。これら港津の納所は単なる倉庫業にとどまらず,しだいに租税徴収の請負い,役所など納入先への代納,収納物の交易(きようやく)・売買などの業務をも行うようになり,商人的性格を強めていった。…
…【楠見 敏雄】
【日本】
日本における書の歴史は大陸からの漢字の伝来に始まる。大陸様式の書風をそのまま受け入れ,国語を漢字によって表現するまでに習熟同化し,ついで和様の書風に発展させ,ついに独自の仮名文字をも創造した。日本の書はその後も漢字文化の先進国,中国の影響を受けながら,各時代に変容を見せていたが,その中で生まれた書法の流派は,やがて書道と呼ぶ芸術的ジャンルを形成するにいたっている。…
…日本語でも同音語は多いが,それにもかかわらず,漢字による表記の違いによってその意識が薄められている。〈説く〉と〈解く〉,〈書く〉と〈搔く〉などは,発音とかな(仮名)表記ならばbearと同類だが,書けばsonとsunの関係に類似している。〈恋〉と〈鯉〉と〈故意〉,〈家事〉と〈火事〉なども同様である。…
…
【表記】
日本語の表記法では表音文字と表意文字が併用されている。表音文字としては〈ひらがな(平仮名)〉と〈かたかな(片仮名)〉それに特殊な場合に〈ローマ字〉も用いられる。一般にはひらがなが多く用いられ,かたかなは主として外来語を表すのに用いられている。…
…《竹取物語》が口誦の素材を下地にしつつそれを読みものに変形し構成しているのは,だからすこぶる象徴的な意味をもつ。むろん文字といっても仮名文字のことにほかならない。物語文学の成立には,民族文字としてのこの仮名文字の発明とそのある程度の普及とが絶対の要件とされたはずである。…
…〈琉球列島〉の全域,すなわち奄美諸島,沖縄諸島,宮古諸島,八重山諸島で話されている諸方言の総称。〈琉球方言〉ともいい,後述するようにふつう〈本土方言〉とともに日本語の二大方言をなすとみられている。 琉球語圏の最西端は台湾に近い与那国島,最北端は奄美大島で,鹿児島県下の種子島,屋久島,口永良部(くちのえらぶ)島,吐噶喇(とから)列島などでは本土系の方言が使われている。琉球語内部の差異は大きく,たとえば宮古島の方言は沖縄島の人にはまったく通じないし,沖縄島の人にも宮古島の人にも与那国島の方言はまったく通じない。…
※「仮名」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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