長野県中東部、浅間山(あさまやま)の山麓(さんろく)にある町。国際的高原避暑地として有名。北佐久郡(きたさくぐん)に属する。1923年(大正12)東長倉村が町制を敷き軽井沢町と改称し、1942年(昭和17)西長倉村を編入。町は標高1000メートル内外の浅間火山南東麓を占め、雄大な高原景観を有する。夏の平均気温は25.5℃、厳寒期の2月には零下15℃まで下がる。JR北陸新幹線軽井沢駅と、しなの鉄道の軽井沢、中軽井沢、信濃追分(しなのおいわけ)の4駅がある。1997年(平成9)の北陸新幹線(高崎―長野間、通称長野新幹線)の開業と同時に、在来線の信越本線は、軽井沢―篠ノ井(しののい)間が第三セクターしなの鉄道となり、碓氷(うすい)峠の横川―軽井沢間は廃止、バス輸送に転換された。新幹線を利用すると、東京までの所要時間は約1時間となった。道路は、国道18号が通じ、中軽井沢が長野原町方面へと向かう国道146号との分岐点となる。関東からの入口碓氷峠は古代より交通の難所として知られたが、入山峠(いりやまとうげ)越えの碓氷バイパスもある。また、南東の群馬県安中(あんなか)市松井田町域に上信越自動車道の碓氷軽井沢インターチェンジがあり、軽井沢中心部までのアクセス道が改良された。東京、長野方面への交通の便は鉄道、道路ともに飛躍的によくなった。面積156.03平方キロメートル、人口1万9188(2020)。
[小林寛義]
軽井沢に集落が形成されたのは、江戸初期中山道(なかせんどう)の宿駅となってからで、沓掛(くつかけ)(現、中軽井沢)と追分(おいわけ)は浅間山麓の三宿(軽井沢、沓掛、追分)として街道交通でにぎわった。とくに追分は、中山道と、新潟県へ抜ける北国街道(ほっこくかいどう)との分岐点をなし、また中山道碓氷関所(安中市松井田町横川)の厳しい取締りを避けた入山峠や和美峠(わみとうげ)越えなどの裏街道も集まり、栄えた。しかし、1883年(明治16)新国道(現、18号)が開通し、1893年信越本線が全通するとともに、宿駅の機能は衰退した。1888年イギリス人宣教師A・C・ショーが北陸布教の際ここを知り、別荘第一号を建てたことから、多くの外国人宣教師や国内の政界・財界人や作家、画家らの別荘が建てられ、雄大な火山高原、浅間の山容を眼前にする景観、カラマツやシラカンバの林、夏の冷涼な気候と相まって国際的避暑地として発展している。現在、別荘地は、発祥地である旧軽井沢を中心に、中軽井沢、南軽井沢、西軽井沢、軽井沢ニュータウンなど全町にわたり、別荘数約1万2800、会社寮375(1997年)に達している。なお、北軽井沢は群馬県長野原町・嬬恋(つまごい)村に属する。新幹線と上信越自動車道が開通したため、軽井沢駅を中心に、北側の旧軽井沢までの地域と駅の南側出口付近の都市化が進んでいる。
[小林寛義]
軽井沢の観光地には、碓氷峠、追分のような歴史的なものや、火山地形、温泉などの自然現象と、ここを利用した有名人の別荘地などが観光のポイントとなっている。
町の中心をなす旧軽井沢は、中山道に沿う宿駅として形成された。現在は宿場のおもかげはほとんどないが、町の東端のつるや旅館の建築様式がわずかに当時をしのばせる。国の重要文化財として、旧三笠ホテルがある。7月から9月上旬は東京より500店に近い出張店が軒を重ねるようにして立ち並び、避暑客や東京方面からの週末旅行者でたいへんなにぎわいを呈する。東京からの交通の便がよくなったことで日帰り客が増え、盛夏には町の人口は10倍に膨れる。また、旧軽井沢の東端には別荘地開発の恩人A・C・ショーの記念碑をはじめ、室生犀星(むろうさいせい)、有島武郎(たけお)、正宗白鳥(まさむねはくちょう)ら軽井沢を訪れた多くの文人たちの文学碑や記念碑が森林の各所にある。そのほか、北原白秋によって紹介されたカラマツ林は中軽井沢から星野・塩壺(しおつぼ)温泉へ通ずる一帯、それに旧軽井沢から高級別荘地を抜ける白糸ノ滝へ通ずる一帯が有名。旧軽井沢の西に続く鹿島ノ森は紅葉がすばらしく、高原の自然を満喫できる。白糸ノ滝は新旧火山泥流の境目から数十条の細い水流が糸を垂れるごとく落下し、夏の名所の一つ。
運動関係ではサイクリングのほか、ゴルフ、射撃、野球、スケート、ボート(塩沢湖)、乗馬、キャンプなどの各種運動・レジャー施設が完備している。1964年(昭和39)東京オリンピックの総合馬術と、1998年(平成10)長野冬季オリンピックのカーリング会場となった。
[小林寛義]
『岩井伝重著『軽井沢町志 歴史編』(1954・同書編纂委員会)』▽『小林收著『軽井沢開発ものがたり』(1974・信濃路)』▽『『軽井沢文学散歩』(1977・軽井沢町)』▽『小林收著『避暑地軽井沢』(1999・櫟)』
長野県東部,北佐久郡の町。地元では〈かるいさわ〉という。人口1万9018(2010)。浅間山南東麓にある標高950m内外の高原で,8月の平均気温が20.5℃と札幌より1.2℃ほど低い冷涼な気候に加えて,東京に近い地理的条件から,夏の全盛期の入込客は常住人口の10倍にのぼる。1886年イギリスの宣教師A.C.ショーが,旧軽井沢の民家を借りて一夏を送ったことから避暑の歴史が始まった。93年信越本線が全通してからはホテルもできて避暑客がふえ,1917年に西武資本による建売別荘分譲が始められてから本格的な避暑地になった。昭和10年代までは旧軽井沢を中心にした外人別荘地として知られ,日本人では政財界人や文人などに限られた高級別荘地であった。第2次世界大戦後,中軽井沢(旧沓掛),西軽井沢(御代田町),信越本線南側の南軽井沢と開発が進み,1万戸をこえる別荘が作られ,ホテル,旅館,民宿も多い国際的避暑地に発展した。夏には別荘客のほかテニスやゴルフなどのスポーツ,さらに軽井沢宿あとにひらけた旧軽銀座へのショッピングに訪れる観光客が多く,冬にはスケート客(軽井沢スケートセンター),スキー客(人工スキー場)でにぎわう。1995年上信越自動車道碓氷軽井沢インターチェンジが開設され,97年10月には長野新幹線が開通した。これに伴い信越本線の軽井沢~横川間は廃止,軽井沢~篠ノ井間は第三セクターのしなの鉄道に引き継がれた。
執筆者:市川 健夫
碓氷峠の西麓にある交通の要地で,古くは東山道がこの地域を通って碓氷坂(現,入山峠)を越えて上野の坂本駅に達した。《延喜式》の長倉神社,長倉郷あるいは官牧の長倉牧はほぼこの地域またはその近傍にあった。近世では碓氷峠を越えた中山道が軽井沢,沓掛,追分の3宿を通過した。軽井沢宿は1679年(延宝7)まで小諸藩領など,以後は幕領。田はなく畑のみで,主として宿場稼ぎで生計を立てた。食売女(飯盛女)が多く,川柳では軽井沢が飯盛女の代名詞となったが,1783年(天明3)の浅間山大爆発による潰家や火災で宿の大半が破壊され,93年(寛政5)には大火で168軒を焼失した。これからしだいに衰微する。1753年(宝暦3)の人口1395人が1843年(天保14)には451人。明治維新の宿駅制廃止で大打撃をうけたが,明治半ばから避暑地として発展をみる。1916年に小瀬まで開通し,27年草津まで通じた草津軽便鉄道は60-62年に廃止された。
執筆者:児玉 幸多
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… 裾野は標高1000m前後の部分が広範囲を占めるため,夏の気候は冷涼で,雄大な景観とともに高原保養地としての人気が高い。1886年南東麓の軽井沢(通称〈旧軽井沢〉)がイギリスの宣教師A.C.ショーによって避暑地として着目されて以後,旧軽井沢を中心に別荘地開発が進んだが,それ以前は中山道など古い街道沿いにまばらに集落が見られたにすぎなかった。1928年,草軽電鉄(1960廃止)の駅が設けられてから北軽井沢(群馬県長野原町)が別荘地として発展,60年代半ばごろから中軽井沢(旧,沓掛),西軽井沢(御代田町),さらに人工の塩沢湖を中心に南軽井沢がそれぞれ急速に観光別荘地として開発が進んだ。…
…1897年来日,1940年まで東京,金沢,長野などで宣教にあたり,長野農民福音学校を開設して農民の教化につとめた。軽井沢を保養地として開発し,その家は〈ノルマン館〉として知られた。日本近代史の研究者として著名なカナダの外交官E.H.ノーマンはその次男。…
…第2次大戦後,只見川の電源開発が進められ柳津ダムが建設された。北部の軽井沢は近世に銀山で栄え,明治中期にも活況を呈したが,1902年ころ廃山となった。山間部は古くから林業が盛んで,キリの産地として知られる。…
※「軽井沢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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