北泉村(読み)きたいずみむら

日本歴史地名大系 「北泉村」の解説

北泉村
きたいずみむら

[現在地名]土佐町さかい

土居どい村の北東もり川左岸段丘上にある。同川を隔てて南にある村は南泉みないずみ村と称されることから、もと同一区をなしていたことが推定される。「土佐州郡志」では土居村小村とされる。森郷の一。建武元年(一三三四)四月日付の長徳寺院主宗賢書状(長徳寺文書)に「近年一方西堺当山内北泉地頭陰山孫五郎為長崎左衛門入道円喜祗候人之間、以彼権威動依令(ママ)妨寺領山畠荒野等不全寺務」などと記され、当地に勢力をもった地頭陰山孫五郎が長徳ちようとく(跡地は現長岡郡本山町)の院主が荘官を務める紀州熊野社領吾橋あがはし庄を押妨している。

天正一五年(一五八七)の森村地検帳に村名がみえるが、近世の当村分は同地検帳に記される馬場村も含まれる。


北泉村
きたいずみむら

[現在地名]原町市北泉

太平洋岸に位置し、西は丘陵を境に北高平きたたかひら村、南は泉村。泉村の枝郷とされる。同村からの分村の時期については、「奥相志」の承応三年(一六五四)と「相馬藩政史」の明暦二年(一六五六)の二説がある。同年の高一一七石余(相馬藩政史)元禄郷帳に泉村枝郷と注記され、高五八三石余。なお元禄検地高は二三九石余、ほかに新田一一石余がある(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数三九、嘉永元年(一八四八)の家数二二(検地石高収納戸口等調)


北泉村
きたいずみむら

[現在地名]朝地町坪泉つぼいずみ

坪井つぼい村の西、平井ひらい川南岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高一一五石余・畑高七二石余、大方おおがた郷に属し、柴山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一九五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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