坪井村(読み)つぼいむら

日本歴史地名大系 「坪井村」の解説

坪井村
つぼいむら

[現在地名]熊本市黒髪くろかみ一―三丁目・坪井五―六丁目・壺川こせん二丁目・花畑はなばた町・黒髪町坪井

立田たつだ山の西山麓と京町きようまち台地に囲まれ、江戸時代末には北は室園むろぞの村・下立田村打越うちこし村、南は竹部たけべ村および坪井町人町と武家屋敷、東は宇留毛うるげ村・下立田村、西は京町台の東山麓および寺原てらばるの町人町・武家屋敷に接する。飛地の追廻田畑おいまわしたばた河原田かわらだ(現花畑町)を含む。宝暦六年(一七五六)頃までは竹部村を含んでいた。竹部村が独立しても、検地帳などには坪井村と竹部村は一体の関係で示され、明治四年(一八七一)には再び合併して坪井村となったため、両村の村境を確定するのは困難である。

もともと坪井村は現在の熊本市の約半分を占めるほどであったと思われる。加藤清正が流路を改修する以前の坪井川は、京町台地山麓伝いに流れ、千葉ちば城の北側で現坪井川の流路となり、うまや橋の所から南東に向きをかえ、田畑を通り、追廻馬場おいまわしばば山崎やまさきの南側を通って白川に注いでいた。いわば熊本の東側の城下町は白川と坪井川によって形成された三角洲であった。改修後も厩橋以南の旧坪井川は小河として残り、旧流路の周辺は田地として利用されたので田畑(俗称追廻田畑)と称した。田畑は「国誌」に「飽田郡託麻郡ノ境ニシテ飽田郡坪井村ニ属ス、古河原田ト称ス」と記され、坪井村に属していた。その中心地が本坪井や内坪井であったのであろう。坪井(壺井)の名称の起源は報恩ほうおん寺境内にある「壺形の井戸」によるといわれ(国誌)、報恩寺のある現坪井三丁目が坪井村の中心であったことを伝えている。戦国期と推定される茶臼山ト隈本之絵図(代継神社蔵)には、坪井川上流、茶臼ちやうす山麓に「壺井」を印している。「壺」の字は後世に記した可能性があるともいわれる。

正安元年(一二九九)六月日の橘政能三郎丸田畠在家注進状(藤崎八幡宮文書)に「藤崎社重代神官三郎丸名内沽却田畠在家等事」として「畠地 陸段坪井村内 億万法師凡下」、「在家 壱所坪井村内 性仏尼出家非氏仁」とあり、坪井村の内に三郎丸名に属す畠地と在家があった(三郎丸は藤崎宮神官弥太郎大夫の仮名)。建永元年(一二〇六)八月日の沙弥行西長浦遠貞譲状(詫摩文書)によると、「橘村」「武部桑薗」「神田村」「津久々浦」の三郎丸の所領および藤崎宮神田は、建永元年に先立って長浦遠貞に売却されている。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]五日市町坪井・観音台かんのんだい

極楽寺ごくらくじ山の東南麓にあり、東南に開けた緩斜面に集落が展開する。三宅みやけ千同せんどう石内いしうちの各村に飛地がある。

応永四年(一三九七)七月二五日付の室町将軍家御教書(厳島文書御判物帖)に「安芸国佐東郡内己斐、今武、定順、利松、坪井、古河、掘立、吉次等村々并諸免田以下事」とある「坪井」を当地に比定する説もあるが、古河以下がいずれも佐東さとう(現広島市安佐南区)南部地域に確認されることから、この坪井もあるいは佐東郡内の地か。当地を示す確実なものは「房顕覚書」の天文一〇年(一五四一)一二月二二日の記事で、「坪井」とみえる。また永禄一一年(一五六八)一二月一三日付の新里元勝下地引渡証文(洞雲寺文書)に「佐西郡坪井村」がみえる。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]一宮町坪井

かね川の氾濫原に位置し、東は竹原田たけはらだ村、南は中川なかがわ(現石和町)、西は鵜飼うかい(金川、現笛吹川)を越えて川中島かわなかじま(現石和町)。地名は条里制の坪割にちなむといわれ、一丁田いつちようだ拾八丁田じゆうはつちようだなどの地名が残る(一宮町誌)。枝郷になか村がある(甲斐国志)。天文一八年(一五四九)一〇月二一日の武田晴信判物写(甲州古文書)に「坪井之郷」とみえ、大泉だいせん(現甲府市)の塔頭と思われる芳厳院が堪忍分として郷内の高久こうきゆう(現光久寺)を与えられた。天正一一年(一五八三)五月一三日、地内の三貫八〇〇文が二宮(現御坂町美和神社)に安堵された(「徳川家奉行連署神領証文」八代金蔵氏所蔵文書)


坪井村
つぼいむら

[現在地名]摂津市千里丘東せんりおかひがし四丁目・三島みしま三丁目・庄屋しようや二丁目・南千里丘みなみせんりおか千里丘せんりおか一―三丁目

味舌ました郷五ヵ村の一。さかい川右岸に位置し、対岸は三宅みやけ太中たいなか小坪井こつぼい両村。村の北西端を亀山かめやま街道が通り、村の中央を茨木いばらき(現茨木市)方面への道が通る。「天文日記」天文五年(一五三六)四月一〇日条に、石山いしやま本願寺(跡地は現東区)の証如が上洛の際、「摂州つぼいをくり四五人輿ニのりて被上候、輿もつぼい迄行候」とあり、おそらく当村付近から富田とんだ(現高槻市)へ向かったものであろう。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]長野原町大津おおつ

本白根もとしらね山の東南麓、長野原村の西にあり、南は吾妻川で限られる。集落は同川左岸段丘上に分布し、段丘上を信州への道が通る。馬場ばば(現長野原小学校敷地)から平安時代と推定される瓦塔や、延文二年(一三五七)の弥陀三尊種子板碑、多数の五輪塔が同地や丸小まるこ山で発見されている。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高七九石余。寛文郷帳では田方九石余・畑方六九石余。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]船橋市坪井町・松が丘まつがおか一丁目・同五丁目

薬園台やくえんだい新田の北方に位置する。北の古和釜こわがま村の間に駒込こまごめ川、東に坪井川が流れ、それに沿って谷津が広がる。地内から暦応四年(一三四一)銘の武蔵型板碑が出土しており、中井台なかいだいには中世に城館があったとされる。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、高一五〇石で、旗本大久保領。寛文九年(一六六九)の葛飾郡坪井村検地帳(岩佐家文書)によれば、上田二町一反余・中田四町五反余・下田一五町九反余・下々田四町一反余、上畑一町余・中畑二町七反余・下畑五町四反余・下畑々一町一反余で、高一七三石余。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]和泉市坪井町

仏並ぶつなみ村に南を除く三方を囲まれる。横山よこやま谷の一村。建武四年(一三三七)一〇月二二日付の日根野道悟軍忠状(日根文書)に、同月一三日のこととして「属于当国守護御代官御手、馳向槙尾寺之処、於横山坪井口、進一陣、打破三城戸口、追落御敵等、焼払数ケ所在家」とあり、北朝方の日根野氏が当地の南朝勢を攻めている。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]出石町坪井

福居ふくい村の南東、此隅このすみ山の西麓に位置し、南は宮内みやうち村。村の西部、しま村境の入佐いるさ川下流に法安寺ほうあんじ池があったが、のちに埋立てられて消滅した。江戸時代同池畔には茶屋(坪井茶屋)が設けられ、出石藩主仙石氏が野遊でたびたび訪れては休憩所・釣場などに用いた(「庄屋三郎右衛門覚書」中山家文書)。元和八年(一六二二)名寄帳(同文書)では高一二六石余、うち田一〇三石余、麻畑・屋敷三石余、畑一九石余。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]浜松市坪井町、浜名郡舞阪まいさか町舞阪

篠原しのはら村の西に位置し、北は浜名湖に面する。東海道が通る。正保郷帳では高九二石余(田三一石余・畑六一石余)、幕府領。元禄郷帳では高一五二石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と浜松藩領。享保郷村高帳・旧高旧領取調帳では幕府領。舞坂まいさか宿(現舞阪町)の加宿で地内の往還の長さ四〇八間。加宿である当村と馬郡まごおり村両村の地子免許二千九五六坪。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]朝地町坪泉つぼいずみ

近地ちかじ村の南東、平井ひらい川南岸にある。康永元年(一三四二)八月三日の志賀正玄譲状案(志賀文書)に大野庄志賀村南方の一所として坪井がみえ、屋敷・田畠ともに正玄から孫の普賢丸(氏房)に譲与された。同日付の田畠屋敷目録案(同文書)によれば、この地は石丸源次郎跡の元田四段と三段、新田一段からなっていた。正保郷帳には坪井村とあり、田高五三石余・畑高三六石余、大方おおがた郷に属し、柴山有、日損所と注記される。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]丹波町字富田とみた

須知しゆうち野北部山麓の村。蒲生こもう村の北に位置する。北は山地で村の南辺を高屋たかや川が東流し、この両岸に耕地が広がる。東から北は高屋村、西はたに村、北は質美しつみ(現瑞穂町)。園部藩領。

幕末の園部藩記録(「口丹波風土記」所引)には上分家数二九軒・一二九人・牛一七匹、下分家数四〇軒・一七四人・牛一六匹とある。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]大沢野町上大久保かみおおくぼ

大沢野中位段丘中央東寄りに位置し、北は大久保用水を挟んで上大久保村、南は八木山やきやま村、西は二杉ふたすぎ村。地名の由来は大坪おおつぼ(現滑川市)の藤井某が坪井とつけたという(大沢野耕地整理事業誌)。富山藩領。文化一〇年(一八一三)岡田屋嘉兵衛によって大久保用水が完成し、用水上流側には富山藩が慶応三年(一八六七)から大沢野用水の開削を始め、翌明治元年(一八六八)完通、これに伴う同三年着手の原野四八〇町歩開墾事業によってできた。


坪井村
つぼいむら

[現在地名]八千代町坪井

鬼怒きぬ川西岸に位置し、北は高崎たかさき村。この地域一帯は古来よりの鬼怒川中流の乱流地帯に属し、現在は肥沃な沖積地水田地帯を形成。「寛文朱印留」によれば土井利益(のち古河藩主)領であったが、寛政年間(一七八九―一八〇一)は天領で、代官岡田寒泉の支配地(岡田寒泉功徳碑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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