十二所村(読み)じゆうにしよむら

日本歴史地名大系 「十二所村」の解説

十二所村
じゆうにしよむら

[現在地名]養父町十二所

広谷ひろたに村の南西大屋おおや川の左岸に位置する。中世には軽部かるべ庄に含まれていた。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)に入部した小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。慶長一八年(一六一三)出石藩主小出吉英の和泉岸和田藩主就任に伴って岸和田藩領となり、元和五年(一六一九)吉英が出石藩に再封になると出石藩領に復した。延宝元年(一六七三)小出英安が襲封した際に弟英直に一千五〇〇石を分知、このとき当村は英直家(土田小出家)領となり、同家領で幕末に至った(「小出氏系譜」山田家文書、慶長一八年「小出吉英所領目録」金井文書、「寛文朱印留」、宝暦七年但馬国高一紙など)。前掲小出吉英所領目録によると高三三八石余。寛永一二年(一六三五)検地帳(十二所区有文書)では高三九七石余・反別三六町二反余、家数七二、うち高持五六。


十二所村
じゆうにそむら

[現在地名]鎌倉市十二所

なめり川最上流の谷間に位置し、北は上野かみの(現横浜市戸塚区)、東はとうげ(現横浜市金沢区)、南は三浦郡池子いけご村・久野谷くのや(現逗子市)、西は浄明寺じようみようじ村・二階堂にかいどう村に接する。東境朝比奈あさひな切通を越える六浦むつら道が村内を貫通する。村名の由来は、鎮守が熊野十二所権現であったことによると伝える。

鎌倉大草紙」に応永二三年(一四一六)上杉禅秀の乱の際、関東公方足利持氏は公方屋敷から「岩戸の上の山路を廻り、十二所に懸り、小坪を打出、前浜を佐介へ入せ給」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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