千僧供村(読み)せんぞくむら

日本歴史地名大系 「千僧供村」の解説

千僧供村
せんぞくむら

[現在地名]武生市しよう町・横市よこいち町・つか

村国むらくに山の北東、八王子はちおうじ山の東側平野にある。来迎らいこう(現三重県飯南郡飯南町)蔵の梵鐘の銘に

<資料は省略されています>

とみえる。八王子殿山王大権現とは現日吉ひよし神社のことで、この別当寺の撞鐘であったものを、天正元年(一五七三)越前に侵攻した織田勢が奪って三河国へ持帰り、足助あすけ八幡宮(現愛知県東加茂郡足助町)に寄進し、さらに来迎寺へ転売されたものと伝える。地名千僧供と、この地に山王権現が鎮座することから、当地は延暦寺領であったとも考えられる。一千人の僧による供養仏事(千僧供)の費用に充てるための荘園として荘名が起こったものであろう。

慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高二二〇一・七一石、先高一千九八七石余・出分二一四石余。慶長一一年頃の越前国絵図および正保郷帳にも今南西いまなんせい郡中にみえ、同郷帳によると田方二千一一九石余・畠方八二石余。

千僧供村
せんぞくむら

[現在地名]近江八幡市千僧供町

長福寺ちようふくじ村の西にあり、村のほぼ中央を中山道が通る。東端の六枚橋ろくまいばし鮎河あいが道が分岐し蒲生野がもうのに至る。西から南にかけては馬淵まぶち村。古代条里の遺称とされるさんつぼの小字が残る。なお当地にある弥生―鎌倉時代の複合遺跡ほりうち遺跡、古墳時代中期―後期の千僧供古墳群、蒲生郡衙に比定される遺構を含む御館前みたちまえ遺跡や現馬淵町域の観音堂かんのんどう遺跡、同じく馬淵町の弥生―鎌倉時代の勧学院かんがくいん遺跡などを含め一帯の遺跡は千僧供遺跡群としてとらえられ、これらの遺跡を形成した各共同体の複合体が、当地一帯を拠点として一大勢力を誇ったと考えることもできよう。中世には佐々木庄の庄域に含まれたと考えられる。同庄は「玉葉」に「佐々木庄者、延暦寺千僧供庄也」とあって(建久二年四月二日条)、延暦寺の千僧供養料地となっていた。地名はこのことに由来するという。なお地内の椿つばき神社は古くは山王十禅師権現と称し(元文五年「金口銘」同社蔵)、坂本日吉社上七社の一、十禅師宮を勧請したものと伝える。

寛永(一六二四―四四)正保(一六四四―四八)初年頃に旗本福富領となったが(蒲生郡志)、寛文八年(一六六八)に福富氏流罪により幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報