千島国(読み)ちしまのくに

日本歴史地名大系 「千島国」の解説

千島国
ちしまのくに

明治二年(一八六九)八月一五日に置かれ、国後くなしり択捉えとろふ振別ふれべつ紗那しやな蘂取しべとろの五郡からなる(公文録)。北海道とカムチャツカ半島の間に連なる千島列島のうち、当初は国後島択捉島および付属の島々を版図とした。同八年樺太・千島交換条約により、得撫うるつぷ島から占守しゆむしゆ島までが日本領土となり、同九年得撫郡・新知しむしる郡・占守郡が編入され、同一八年根室国花咲はなさき郡から分離した色丹しこたん郡が編入された。国名選定にあたり松浦武四郎は、蝦夷島を含む以北の島々を古くは千島と総称していたと述べ、この案が採用された(「国名之儀ニ付申上候書付」松浦家文書)。明治二年八月開拓使の所轄となるが、同年一〇月国後郡が秋田藩、紗那郡が仙台藩支配となり、ついで同年一二月までに択捉郡が近江彦根藩、振別郡が肥前佐賀藩、蘂取郡が土佐高知藩の支配となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の千島国の言及

【千島列島】より

歯舞(はぼまい)諸島の島々は,平たんな台地をなし,国後・択捉両島は火山が多く,本島からは国後島の秀麗な二重式円錐火山爺爺(ちやちや)岳(1822m)を望見することができる。【奥平 忠志】
【歴史】
 千島列島は古くは〈クルミセ〉と称し,1869年(明治2)蝦夷地を北海道と改称して国郡を設定した際,択捉島までを千島国とし,75年樺太(からふと)・千島交換条約締結を機に千島列島と称するようになった。 原住者の系譜は不明な点が多いが,6,7世紀から12,13世紀ごろにはオホーツク文化人が居住し,その後,南部は北海道アイヌ,北部はイテリメン族(カムチャダール)の出稼ぎ地となっていたが,近世までにはアイヌが北上して列島全体の居住者となったとみられている。…

※「千島国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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