半原村(読み)はんばらむら

日本歴史地名大系 「半原村」の解説

半原村
はんばらむら

[現在地名]新城市富岡とみおか

一鍬田ひとくわだ村の東南にあたり、宇利うり川の東に耕地が広がる。八名やな郡に属した。近世初頭には下宇利しもうり村の一部であって、下宇利村の慶長九年(一六〇四)検地帳には「半原」として田地四町一反余・高四二石余、名請人二四名がみられる。その後急速に開発が進んだようで、元禄年間(一六八八―一七〇四)に分村して半原村として独立。安永四年(一七七五)の明細帳(半原区有)では、反別四九町・高本新共四五四石余、戸口は一二五軒・五二二人、馬三二匹である。

半原村
はんばらむら

[現在地名]愛川町半原

村中を中津なかつ川が流れる。東は田代たしろ村、西と南はすす村・みや(現清川村)。小田原衆所領役帳に内藤三郎兵衛「廿貫文 保内田代・半原」とあり、田城たしろ城に拠った内藤氏の領地といわれる(風土記稿)

元和元年(一六一五)から享保一〇年(一七二五)まで旗本佐藤領、同一三年より下野烏山藩領。検地は承応四年(一六五五)四月に実施された(「愛甲郡毛利庄飯原村御検地帳」新井文書)。享保一三年の村明細帳(大矢文書)によれば蚕場である。

半原村
はんばらむら

[現在地名]瑞浪市日吉町ひよしちよう 半原

南西流する土岐川北部丘陵地の南腹に開ける。南は神篦こうの村。なか街道が東西に通る。慶長六年(一六〇一)木曾衆に「半原村」一八一石が宛行われた(「木曾衆知行目録写」徳川林政史研究所蔵)正保郷帳では田一一一石余・畑六九石余、草山がある。明暦覚書では概高二二八石余。「濃州徇行記」では田一〇町八反余・畑五町九反余・見取田一町一反余・松雑木山八町八反余、家数六五・人数二八二、馬五。

半原村
はばらむら

[現在地名]鉾田町半原

ともえ川右岸の丘陵上にあり、北は借宿かりやど村。室町時代中期、武田信久は幕命により結城(現結城市)に派遣された武田信長の一子直継を養子として、当地に配し(常陸諸家譜)、以後武田氏の影響下に置かれたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報