半在家村(読み)はんざいけむら

日本歴史地名大系 「半在家村」の解説

半在家村
はんざいけむら

[現在地名]熱塩加納村宮川みやかわ

鷲田わしだ村の西、にごり川右岸の山麓に位置する。南は五分一ごぶいち(現喜多方市)、北は岩尾いわお村。古くは上沢かみさわ村と称したと伝える。本村の北西一五町余の山中に小名阿寺沢あてらざわ(安寺沢)、南方近くに一沢いちのさわ(市ノ沢)並桜なみざくら、西方約三町四〇間に山田やまだ、南西五町余に漆坊うるしぼう(漆房)、阿寺沢の東方に西岩尾の各端村がある。なお、西岩尾は延宝八年(一六八〇)岩尾村から分れたという(「万覚書」三浦家文書)中世には加納庄のうちで、天正一四年(一五八六)一二月二二日、逸見実能は「かんのうのうちなミさくらの地、米八駄之所」を八角やすみ神社(現会津若松市)別当宝寿院へ売渡している(「蘆名氏加判逸見実能売券」八角神社文書)。同一七年一二月一四日には伊達政宗が宝寿院に並桜年貢三貫文の地などを安堵している(「伊達政宗充行状」同文書)


半在家村
はんざいけむら

[現在地名]池田町大字会染あいそめ 半在家

現池田町中部の段丘上に位置する村で、隣の現中島なかじま相導寺あいどうじ集落とともに段丘下には広い水田地帯が存在する。

半在家の名は、寺との関係から起こった地名で、東方山中には法道ほうどうという集落もあり、また南には相導寺村もあるが半在家の名に直結する寺については不明である。

半在家村は、江戸時代初期は池田郷に属していたが、寛永一五年(一六三八)から同一九年の間に作られたとみられる信州松本御領分村々高附帳に「高七拾石四斗七升三合 半在家村」となっていて、これを半在家村の初見とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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