岩尾村
いわおむら
[現在地名]佐久市岩尾
千曲川と湯川の合流する辺りにあり、南方、千曲川の対岸は今岡・下県、北背は湯川の対岸落合(現佐久市鳴瀬)、東は今井、西は千曲川に接する。原初の東山道は下県で千曲川を渡り、この辺りから落合・根々井(現佐久市根々井)に通じていた。
天正二年(一五七四)三月の大井文書に「大井之十二郷」のなかに「岩尾之郷」とみえ、同年の「大井庄由来」(丸山家文書)には、大井氏御親類衆として「岩尾 長窪 其次ニ矢嶋」とみえる。
岩尾村
いわおむら
[現在地名]熱塩加納村宮川
半在家村の北、濁川右岸の段丘上平地にあり、北は中河原村、北西は山岩尾村。地内に銀山があった。「会津鑑」は小名として八返田(八田返か)・館中をあげる。永正四年(一五〇七)の年紀のある岩尾佐原家系図(佐原家文書)によると、蘆名氏の祖佐原義連が建久元年(一一九〇)当地に城を築いたとき、城地にあった岩尾山宗光寺を移転させたため、同寺の山号にちなみ当地一帯の村名とし、東ノ岩尾(当村)・西ノ岩尾(半在家村の端村)などの名が生じたとする。
岩尾村
いわおむら
[現在地名]増毛郡増毛町岩尾・岩老・雄冬
明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三三年(一九〇〇)まで存続した村。北は別苅村。明治六年の「天塩国地誌提要」に岩尾村とみえ、三戸(平民)・一二人の定住があり、寄留は三戸(平民)、男八六人・女六人であった。鰊漁の隆盛とともに同二四年には戸数六七戸・三一一人と増加した。また艀漁小廻船一一一(徴発物件一覧表)。明治二〇年ブヨシ(武好)駅逓が当地に移転・新築され(増毛町史)、増毛山道の通行が便利になった。伝統芸能の雄冬神楽(町指定文化財)は明治二年頃から始まったという。同二九年雄冬沖の海馬島付近の漁場をめぐって浜益郡漁民と増毛郡漁民の間で紛争が起き、同三〇年両郡漁業組合は和解、この付近は入会漁場となった(増毛町史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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