池田郷(読み)いけだごう

日本歴史地名大系 「池田郷」の解説

池田郷
いけだごう

近世の郷。滝水りゆうすい寺蔵の建治元年(一二七五)銘の銅鐘銘文に「小豆島西方池田御庄滝水寺」、明王みようおう寺釈迦堂に残る大永八年(一五二八)銘の文字瓦に「本願池田庄円識坊」とあって、池田庄の存在が知られる。なお別宮八幡宮縁起には治承四年(一一八〇)の事として、池田公文源次が肥土ひと(現土庄町)との用水相論で同庄神人を殺害、神人らが蜂起して死骸を池田庄に送り付けたところ、池田から送り返され、数度繰返したという話を記す。天正二〇年(一五九二)頃には池田郷と称したとみられる。慶長一〇年(一六〇五)片桐且元による検地で島内を四組に区分したとき池田組となり(小豆島全図)、組を構成する村として池田・中山なかやま蒲生かもう室生むろう二面ふたおもて吉野よしの蒲野かまの神浦こうのうらの八ヵ村があった。寛永三年(一六二六)伏見奉行小堀遠州により島内が九郷に区分されてから明治一三年(一八八〇)の枝村独立まで、同様の村落構成であった。高松藩預の一時期を除き、天保九年(一八三八)美作津山藩領となるまで幕府領。池田村には庄屋平井氏が居を定め郷内各村を統括した。江戸時代を通じて池田村を親村とし室生村ほか七ヵ村はその枝村とされた。ただし郷名はあまり使われず、池田村と称し、枝村は池田村のうち室生村などとよぶのが通例であった。以下、広義の池田村は池田郷とし、親村である池田村と区別する。庄屋平井氏が正徳二年(一七一二)越訴事件によって処刑されてからは、室生村の旧家岡田氏が池田村に居を移し、平井氏に代わって庄屋となった。


池田郷
いけだごう

「和名抄」東急本に「以介多」の訓がある。「和泉志」はしも(池田下村)万町まんちよう浦田うらだ鍛冶屋かじや納花のうけ室堂むろどう和田わだ三林みばやし黒石くろいし国分寺こくぶんじ(国分)平井ひらい(現和泉市)を郷域とする。当郷の古代の郷域を槙尾まきお川・松尾川のどの程度の上流までとみるかは問題であるが、横山よこやま南横山みなみよこやま南松尾みなみまつおの地域(現和泉市)には六世紀代まで定住生活の営まれた痕跡がみられないこと、松尾谷の条里が唐国からくに(現同上)までであること、春木はるき(現同上)の成立が正平二三年(一三六八)七月日の春木庄内本庄氏人等訴状(松尾寺文書)によれば長寛二年(一一六四)とみられること、横山郷の確実な初見が「猪隈関白記」建仁元年(一二〇一)四月二七日条であることなどから、横山・南横山・南松尾地域の本格的開発は平安中期以降に求めることができる。したがって「和名抄」段階の池田郷は、南部の山間地に広大な未開地を含んでおり、平安後期以降に郷内から横山郷・春木庄などを分立させるに至ったとみてよい。


池田郷
いけだごう

古代の池田郷(和名抄)平安時代中頃から本格的な開発が進み、一二世紀後半には郷内の松尾まつお谷を中心とした地に春木はるき(奈良春日社・興福寺領)が立庄され、また横山よこやま谷一帯が横山郷として分立(のち施福寺領横山庄となる)、残る池田谷一帯が池田郷として存続、郷内からさらに池田庄(春日社・興福寺領)宮里みやざと庄・宮里保が立てられた。

保安四年(一一二三)頃、酒人兼貞と珍光時が池田郷内の大薗田・末川島里・みや村宮里・字伏見北脇田・川島里・宮村字脇内などに散在する田畑の領有をめぐって争った(年月日未詳「兼貞珍光時論田勘注案」近衛家本「知信記」天治二年至五年巻裏文書)。珍氏は古代氏族珍県主の後裔にあたると思われ、光時は摂関家の大番舎人のようであり(保安四年の摂関家政所下文を証拠文書として提出しており、また舎人と名乗っている)、父の為光は判官代とみえるから国衙の官人であったものか。一方の酒人氏は、寛治二年(一〇八八)上泉かみついずみ(現和泉市・泉大津市)内の白木谷の三池を管領し周辺開発に励んでいた大判官代酒人盛信なる人物が知られ、その頃在地領主化を進めていた一族に属すると思われる。係争の原因は、日置恒近と息子たちが康和三年(一一〇一)頃、地黄じおう御園寄人を殺害したとの嫌疑を受け検非違使別当のもとに禁獄され、長治二年(一一〇五)にも池田郷住人守丸を殺害して禁獄された折、所領維持が困難になったため売却したが、これを両者が買得したと主張したものであった。


池田郷
いけだごう

「和名抄」所載の郷。比定地は「新撰美濃志」が現揖斐いび藤橋ふじはし村の徳山とくやま地区開田かいでんにあてる以外は、「濃飛両国通史」「大日本地名辞書」「日本地理志料」「揖斐郡志」「岐阜県史」などは現同郡池田町本郷ほんごう地区一帯に比定する。郷域について「日本地理志料」は本郷地区本郷・萩原はぎわら小寺こでらのほかに、現同町宮地みやじ地区の宮地・願成寺がんじようじ般若畑はんにやばた小牛こうじ養基やぎ地区の田中たなか、池田地区の上田うえだにわたるとし、「揖斐郡志」は本郷を中心に小牛・小寺へも広がっていたとするが、いずれも検討を要する。


池田郷
いけだごう

千葉庄内にあった郷の一つで、「和名抄」の千葉郡池田郷を継承する。「更級日記」に寛仁四年(一〇二〇)九月一五日に宿泊したとある「いかた」は当郷のこと。その郷域は諸説あり、千葉城跡猪鼻いのはな山に池田坂と称する坂があったとも伝えるが(下総国旧事考)、今日ではみやこ川以北の堀籠ほりごめ郷に対して同以南の現中央区寒川さむがわ長洲ながず地区から千葉寺ちばでら町付近にかけての一帯とするのが有力である。


池田郷
いけだごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、イケタであろう。「続日本紀」天平宝字三年(七五九)一一月五日条によれば、従五位下の池田朝臣足継が下総介に任じられており、当郷に根拠を置く人物の可能性がある。「更級日記」に「しもつけの国のいかた」とみえ、寛仁四年(一〇二〇)九月一五日に菅原孝標女の一行が当地に宿泊したと考えられる。元亨二年(一三二二)四月一五日の奥書をもつ明静類聚抄(金沢文庫文書)にみえる千葉庄池田郷横須賀よこすか閻魔堂は千葉寺(現千葉市中央区)内にあった堂宇で、天文一九年(一五五〇)の梅竹文透釣灯籠屋蓋(東京国立博物館蔵)銘に千葉庄池田之郷千葉寺とある。


池田郷
いけだごう

江戸期の池田村一帯に比定される中世の郷名。延慶四年(一三一一)正月一九日の北条貞時寄進状(鶴岡八幡宮文書)によると、大般若経転読料所として「池田郷」内の田畠屋敷が鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されている。また正和年中(一三一二―一七)の記述には、村松むらまつ(現清水市)の海上寺(現海長寺)日位の退去地として池田がみえる(本化別頭仏祖統記)


池田郷
いけたごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本に「池田」と記し、いずれも訓を欠く。「和名抄」の同名の郷で訓をもつものには、伊勢本のそれを含めて「伊計太・以介多・伊介多・伊支太・伊岐多」と読まれており、当郷は、「いけた」もしくは「いきた」とよばれていたものと考えられる。ここでは通説に従って「いけた」と読んでおく。

郷域について「大日本地名辞書」は「今詳ならず、池内、田中などの辺、即味岡庄の旧名にや、田中は味岡村に遺り、池内は林村と合せ池林と改む、此より田楽、陶のあたり郷名を欠く」として、現小牧市北東部にそれを求める。


池田郷
いきたごう

「和名抄」高山寺本は訓を欠き、東急本には「伊岐太」と訓ずる。那波なは郡池田郷は「伊介多」である。「伊岐太」というのは、当時の方言に従ったものではなかろうか。利根川と渡良瀬川によって形成された河跡湖周辺を開田したことから起こった名であろう。「新撰姓氏録」左京皇別下に池田朝臣は「上毛野朝臣同祖 豊城入彦命十世孫佐太公之後也」とある。


池田郷
いけだごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「池田」と記し、訓を欠く。建長七年(一二五五)の伊予国神社仏閣等免田注進状案(国分寺文書)に郷々祈田として「池田郷 三反」が記される。「日本地理志料」は「池田郷、領池田、願蓮寺、川根、今井、久妙寺、関屋、高松、臼坂、来見、丹原十邑」とする。


池田郷
いけだごう

「和名抄」高山寺本は「他田」、東急本は「池田」に作る。中世郡内には池田御厨があり、現在も多治見市に池田町の地名があることから、東急本に従う。比定地は現多治見市西部の池田地区とすることで諸説一致している。隣接する同市豊岡とよおか小泉こいずみ地区も郷域に含めて考えられている。同地域は可児郡の南東部にあたり、「和名抄」の郷配列を郡北部を東から西へ、次いで南部を西から東へと回らせたと考える仮説にも合致する。


池田郷
いけだごう

「和名抄」は高山寺本・東急本ともに訓を欠いているが、和泉国和泉郡や上野国那波なは郡の同名の郷は「以介多」と訓ずる。現寝屋川市に池田の遺名をとどめているので、郷の比定については異説がない。「日本書紀」皇極天皇二年の七月・八月・九月の各条に記される茨田まんだ池を、この池田の地に比定する説があるが、明確な根拠はない。


池田郷
いけたごう

「和名抄」高山寺本は「伊計太」、東急本も「伊介多」と訓ずる。「新撰姓氏録」左京皇別下に池田朝臣は「上毛野朝臣同祖 豊城入彦命十世孫佐太公之後也」とある。この地に関係ある豪族なのであろうか。


池田郷
いけだごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」の美濃国池田郡の訓「伊介太」(東急本)などに従い「いけだ」と読む。


池田郷
いけだごう

「和名抄」東急本には「伊介多」と訓を付す。康保二年(九六五)一〇月四日の太政官符(東宝記)によると、当郷出身の凡直真忠が得度して京都東寺に入っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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