日本歴史地名大系 「池田郷」の解説
池田郷
いけだごう
近世の郷。
池田郷
いけだごう
「和名抄」東急本に「以介多」の訓がある。「和泉志」は
池田郷
いけだごう
古代の池田郷(和名抄)で平安時代中頃から本格的な開発が進み、一二世紀後半には郷内の
保安四年(一一二三)頃、酒人兼貞と珍光時が池田郷内の大薗田・末川島里・
池田郷
いけだごう
池田郷
いけだごう
池田郷
いけだごう
「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、イケタであろう。「続日本紀」天平宝字三年(七五九)一一月五日条によれば、従五位下の池田朝臣足継が下総介に任じられており、当郷に根拠を置く人物の可能性がある。「更級日記」に「しもつけの国のいかた」とみえ、寛仁四年(一〇二〇)九月一五日に菅原孝標女の一行が当地に宿泊したと考えられる。元亨二年(一三二二)四月一五日の奥書をもつ明静類聚抄(金沢文庫文書)にみえる千葉庄池田郷
池田郷
いけだごう
江戸期の池田村一帯に比定される中世の郷名。延慶四年(一三一一)正月一九日の北条貞時寄進状(鶴岡八幡宮文書)によると、大般若経転読料所として「池田郷」内の田畠屋敷が鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されている。また正和年中(一三一二―一七)の記述には、
池田郷
いけたごう
池田郷
いきたごう
池田郷
いけだごう
池田郷
いけだごう
池田郷
いけだごう
池田郷
いけたごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報